己が守るもののために



 翌日、イシュルは朝から街に出て、そこそこ品の良い無難な感じの、街の若者が好んで着るような服を買いそろえ、一旦セヴィルらの家にもどって着替え、昼にマーヤと約束した、西の橋の城門前の広場へ向かった。

 若者が好んで着る、とはいっても前世の中世〜近世ヨーロッパに似た世界である。何かの祝い事でもなければ庶民の、特に男性は派手な服は着ない。新しく揃えたイシュルの服装は、街の商人や職人がよくかぶる小さなつば無しの赤茶の帽子、生成りの襟無しシャツに少し赤みがかった焦げ茶のベスト、ベージュ色のズボンに焦げ茶の革靴。左手薬指にはめた指輪や、ナイフケースを吊り下げ固定する銀製の金具類がかろうじてアクセントになっている、といった感じだろうか。武器類はその腰に差したナイフ一本だけ、父の形見の剣は置いてきた。

 ベーネルス川を南側に渡り、川沿いの道を歩いて待ち合わせの場所に向かう。イシュルが城門前の広場に着くと、奥の方にすでにマーヤの姿があった。

 マーヤは大きな門扉の開かれた城門の端で、いつもの格好でひとりぽつんと立っていた。

 人形のように動かず、喜怒哀楽の表情も希薄、いつものマーヤである。

「あの子も見かけによらない、ほんとに不思議な子だよな」

 広場の真ん中を彼女に向かって歩きながら、イシュルはそうひとりごちた。

 彼女のあの何も考えてなさそうな、ぼーっとした外見に騙されてはいけない。マーヤはなかなかどうして、しっかりしていて頭の良い、油断のならないところがある。

 フロンテーラ商会としっかりつなぎをつけて、継続的にこちらの情報を収集していただけでなく、それを商会の人々、主に客として接したであろう本店の方は別としても、セヴィルら支店の者たちに恐れられたり煙たがられたりせず、身分差を越えた真っ当な関係を築いて穏便に行っていたところに、本人の賢さというか、手堅さを感ぜずにはいられない。

 それとも職業や地位でひとを見ない、彼女独特の人徳のなせる業なのだろうか。

 彼女のやり方は地味ながら、本当の諜報のプロがやるような手口とは言えないだろうか。それを本職でもないのにちゃんとこなしていたわけだ。

 もう済んでしまったことだが、自ら切羽詰まった状況をつくり出し、エクトルとその家族を拷問にかけ、村人を殺しまくった男爵やヴェリスらがいかに愚かであったか。そして彼らに拷問してでも、と書簡を送りつけ焚き付けた辺境伯の殿様ぶりには憤りを感じぜざるを得ない。たとえ本人が窮地に立たされ、焦っていたとしてもだ。状況が違い過ぎるとは言え、マーヤの手腕の方がはるかに上をいっていないだろうか。

 状況とか能力の問題だけではないな。要は人格とか人間性とか、そっちの話なのだ。きっと。

 マーヤがその無表情な顔をこちらに向けてきている。

 おっと、笑顔、笑顔と。

「やぁ、マーヤ。待たせちゃったかな?」

 イシュルはマーヤの前まで来ると、思いっきり意識してつくった柔らかい笑顔で言った。

 男爵らの、村の虐殺のことを思い出していたのだ。きっと表情が強ばって、恐い顔になっていたろう。

「んーん。大丈夫、そんなに待ってないよ」

 マーヤの頬がほんのり赤く色づく。

「じゃあ、行こうか。魔法具屋を案内してもらう前に、昼食をとろう。俺の方で奢るって約束してたよな。もうお店も決めてあるから」

 イシュルは気をきかして左肘をマーヤに差し出そうとしたが、彼女はいつものごとく右手に大きな魔法の杖を持っているし、街中でもあまり男女が手をつないだり、腕を組んでいるような姿は見かけない。

 やめておいた方がいいか。

 イシュルにはこういう時、上流階級の作法で女性をどう扱うものなのか、よくわからない。

 かるく首をかしげイシュルを見上げてくるマーヤに再度笑みを向けると、イシュルは彼女の歩調に合わせてゆっくりと歩きだした。

「まるでデートしてるみたいだな、マーヤ」

 道の両脇にほどよく色をそえる緑と紅葉の木々、その間に立ち並ぶ瀟洒なお屋敷。道の先に見えるゆっくりと進んでいく馬車の、車輪の回る音と馬蹄の音。

 昨日と同じ道を歩きながら、イシュルはちょっとした悪戯心でマーヤをからかってやろう、と思った。

「でーと?」

「そう」

「はじめて聞くことば。どういう意味?」

「デートってのはね」

 イシュルは人差し指を立ててマーヤに、契りを交わした、結婚の約束をした男女が、ふたりきりで休日にお出かけして楽しく愛おしい時間を過ごすことだ、みたいな説明をした。

 つきあってる男女が、恋人どうしが、その一歩手前の関係の男女が、などという説明はこの世界では、王国の人々には通用しにくい。結婚の約束でもしていない限り、昼日中であろうと妙齢の男女がふたりきりで遊んだりすることは一応、不道徳、破廉恥なことだとされている。

 イシュルからデートの意味を聞かされたマーヤは顔を真っ赤にして固まった。




 フルネに教えてもらった小洒落たお店の、小さな花瓶や絵画、古い小さな家具に囲まれた個室で、マーヤと向かい合っての昼食。

 だが、そこで交わされた会話は、イシュルにとってはこの場にふさわしくない、あまり良い話とは言えないものだった。

 料理を注文し給仕が部屋を出ていくと、マーヤはあらためて昨日の件を謝罪をしてきた。

「昨日はごめんね。前もって言っておけば良かった」

 宮廷魔導師らと模擬戦闘をしてもらう、と俺に事前に伝えておけば良かった、ということか。

 マーヤの言はいつもどこか、舌足らずなところがある。

「あれは誰の差し金だ? みんなで話し合って決めたのか?」

 イシュルもそれまでのやさしげな表情を引っ込め、厳しい表情になって言った。

「彼らに話を持ちかけたのはわたしなの。誰の発案かは言えない」

 発案者、か。昨日の会話からするとペトラではないだろう。おそらく大公本人だろうな。

「でもイシュルのおかけでとてもいい経験ができた。みんなも言ってたよ」

 いい経験……。

 イシュルはひとつため息をつくと言った。

「いい経験とは?」

 経験、と言えばそれはこちらも同じだ。王国の宮廷魔導師らの使う魔法や、彼らの実力を大まかにだがつかむことができた。特にペトラの、王家の者がどんな魔法具を持ち、どれほどの魔法を使うのか知れたことは大きい。

「イシュルと戦うのは赤帝龍と戦うようなもの」

 マーヤは最後に多分、とつけくわえた。

 彼女だって赤帝龍と戦ったことはもちろん、実際に見たことだってないだろう。だが、赤帝龍がどれほどの存在かは過去の文献や言い伝え、巷の噂などからおおよその見当がつく。

「それはどうかな。実際に戦ってみないとわからないだろ」

「うん。それはそうだけど」

 そこで給仕がお茶を持ってきた。会話が途絶える。

 マーヤが何か続きをしゃべりたそうにしているのがわかる。表情が薄いのは変わらないが、目つきでわかる。

 マーヤの眸の光が微かに強くなった。少し俯き加減に彼女がイシュルを上目使いで、うかがうような視線を向けてくる。

「辺境伯がクシムに送った討伐隊が全滅したのは知ってるかな」

 給仕が部屋を出ていくと、マーヤはその視線をそらさずイシュルに話しかけてきた。

 思わずからだが固くなるのがわかる。なかなかの重大発言だ。

 おそらく辺境伯領はもちろん、王国全土で極秘扱いされているだろう内容だ。

「いや」

 まともな軍隊や魔法使いではとてもかなわないだろう、とはセヴィルが前に言っていたが。

 全滅……か。

 イシュルの顔が険しいものになる。

 そこでマーヤは辺境伯が編成した部隊の兵力や、戦いの様子をイシュルに話した。

 赤帝龍は討伐隊の組織だった攻撃を歯牙にもかけず、直接見たものは誰も生き残っていないので推測になるが、おそらくその口からもの凄い規模の火炎を吹き、周囲に展開していた各隊を一気に丸ごと焼き尽くしたという。その後は辺り一帯、何日間も山火事が続いたのだという。

「前線の主力は全滅か。まったく歯が立たなかったのか」

 イシュルは腕を組み、大きく息を吐いた。聞いたところでは正攻法のまともな戦い方をしたようだ。指揮官が無能だったから全滅したとか、そういうレベルの話ではないのだ。

「そう」

「部隊の主力が騎士団の五百に、大弩弓が五、辺境伯家に仕える魔導師が三名。それに傭兵部隊と輜重隊か……」

「ふふ、イシュルは本当に不思議。まるで騎士団の隊長さんか、どこかの国の将軍みたいな口ぶり」

 確かにな。元農民、商人見習いの少年が、前線の主力が、とか輜重隊云々、なんて言葉を使ったり知っていたりするのは、ふつうはあり得ない。

 だが、今はそんなことはどうでもいい。マーヤの話では傭兵部隊だけで数百名はいたというから、騎士団主力と合わすと一千名近いことになる……。

 マーヤはイシュルを見つめ、可笑しそうに微笑むと質問してきた。

「イシュルだったらどうかな?」

「……」

 イシュルはマーヤを睨みつけた。

 マーヤは、俺も赤帝龍のように、同じ兵力の軍勢と戦ったら勝てるか、と聞いてきているのだ。しかも場を少しなごませて、かるい質問、という感じを演出して。

 彼女は舌足らずで喋ることが苦手そうに見えるが、こういうところが巧妙なのだ。

 気をつかってくれているんだ、ともとれなくはないが、そうさらっと答えるわけにもいかない。

 確かに男爵らに復讐して城を破壊して以降、こちらの力を秘匿する意味はまったく無くなっている。そもそもあれは世間の耳目を集めるためにわざと派手にやったものだし、彼女らとは昨晩一度、手合わせしてしまっている。こちらの手をすべて晒したわけではないが、魔力や魔法を使う力量など、すでにそれなりに把握されている、と考えるべきだ。

 だから今さら、嘘をついたりしてごかましたりする必要はないんだが……。

 ん? なのになぜそんなこと聞いてくる?

「状況次第だが、まず勝てるだろうな。俺ひとりで」

「……だから、昨日はほんとうにいい経験になったの」

 そういうことか。言いたいことはわかるが。

 赤帝龍が葬った辺境伯軍の戦力を知ってもらい、俺に自分が赤帝龍みたいな強い存在なんだと実感してもらえれば、昨日の戦いで魔導師たちが得た経験の重さがわかるだろう、というのが彼女の言い分なんだろう。昨晩のあれは、俺を赤帝龍に見立てた演習だったというわけだ。

 ……だがな。

「昨晩はあれでも、マーヤたちを殺さないよう手加減していたんだぜ? わかるとは思うけど。マーヤたちがどんな魔法を使うか見てみたかったというのもあるけど、最初から全力でいってたら魔法を使う間もなくマーヤたちは全滅して、あっという間に終わっていたかもしれない。それにだ」

 イシュルは腕組みを解き、彼女の方へ身を乗り出して言った。

「赤帝龍は俺より強いかもしれないぞ」

「……」

 マーヤの表情が曇る。顔にはっきり出るくらいだから、彼女も同じ思いで、強い不安を抱いているのだろう。

 火炎ひと吹きで、辺境伯家の魔導師も混じった総勢一千近くの部隊を殲滅、その後辺りは山火事になった。尋常な相手ではないだろう。ひとの力でどうにかできるレベルではないのだ。

「昨日のことはもういいよ。おかげで赤帝龍の凄さもわかったしな。それでその化け物をどう討伐するのか、そろそろ作戦を聞かせてもらおうか」




 そこでイシュルが聞かされたのが、マーヤとふたりで辺境伯軍には加わらず別動行動をとる、という話だった。

「マーヤ?」

「なに」

 マーヤをじーっと睨みつけるが、彼女の顔には何も表れない。さらに強固な無表情をつくって、がちがちに固めている。

「……」

 イシュルは今日、二度目のため息を吐いた。

 自分がツアフから手に入れた、辺境伯から男爵に渡された書簡に書かれていた内容。本隊とは別行動で、アルヴァに寄らずに現地に近いフゴに直行、という処置をとったことは、その中身を当然王家も把握している、と考えるべきなんだろう。俺があの書簡の中身を知って、辺境伯本人を復讐の最後の標的としている、と推理することは容易だろうし、それを危惧するのも当然だと言える。

 マーヤは、いや王国側は、赤帝龍と戦う前に俺に辺境伯を殺され、逃亡されるのを恐れているのだ。

 今回の処置はずばり、それを防止しようとしているわけだが、王国側はこちらの出した条件、ベルシュ村の復興の約束を俺がどれほど重要なことだと考えているか、おそらくわかっていないのだろう。

 もし仮に赤帝龍討伐に成功し、その後俺が辺境伯を殺したら、王家はベルシュ村の復興に力を注ぐことを止めるだろうか?

 辺境伯の始末の仕方にもよるだろうが、そうは思えない。

 今の辺境伯家当主は王家の遠戚に当たるものの、王国の有力貴族や領主は皆似たようなもので、そのことが王家の判断に特段の影響を与えることはないだろう。

 そして現当主が死ねば、クシム銀山を持つ辺境伯家の力は大きく削がれることになる。

 辺境伯家の現当主、レーヴェルト・ベームには上が娘、下には歳の離れた息子の、ふたりの子どもがいる。レーヴェルトが死ねば、辺境伯家はまだ幼い下の息子が継ぐことになる。しばらくは家臣らの補佐がなければやっていけないだろう。辺境伯家も領内も、不安定な状態になる可能性が高い。赤帝龍討伐後であるなら、現当主の死は、クシム銀山の採掘が再開される一方で、辺境伯家の力を削ぎ、影響力も行使しやすくなるという、王家にとっては願ったりかなったりの情勢となる。

 それにオルスト聖王国の辺境伯領への侵攻も考慮する必要はない。辺境伯家が弱体化しても、ラディス王国と同盟関係にあるアルサール大公国の存在があるため、もとから聖王国は簡単に動ける状況にないし、クシム銀山の鉱脈は聖王国側にもまたいでいて、聖王国側でも銀採掘は行われており、クシム銀山にそれほど強い執着は抱いていない。

 俺が辺境伯を殺しても、王家は何の痛痒も感じないどころか、利益を得る可能性の方が高いくらいだ。俺に対する処罰も形だけのものになるだろう。

 旧男爵領は王家の直轄地となり、ベルシュ村の復興は王領の増収に直結するわけで、村の復興をやめればそれは逆に王家にとって損失となる。ベルシュ村の農地は一から開拓開墾する必要がないので復興も容易だ。

 辺境伯が殺されても王家が損害を被ることはない。王家はわざわざ報復として村の復興をやめることはしないだろう。

 だが、赤帝龍討伐の前にレーヴェルトが殺されると、これは逆に大変なことになる。

 辺境伯家や領内が不安定な状況になれば、赤帝龍討伐もどうなるかわからない。討伐隊の士気が下がるだのそれ以前に、出陣そのものが延期されるか、中止になる可能性さえある。赤帝龍討伐がなされなければ、クシムの銀採掘が不能の状態が長期化し、辺境伯家はもちろん、王国全体に大きな影響が出る。それに俺がレーヴェルトを殺して逃亡してしまえば、赤帝龍討伐の重要な戦力を失うことにもなる。王国にとっては踏んだり蹴ったりの状況になるだろう。

 王家はクシムから赤帝龍を排除するために、より多くの魔導師と大規模な軍を派遣することになるだろう。王国は大きな損害を被ることになる。王家は憤慨してベルシュ村復興をやめるだけでは済まさず、報復としてベルシュ村を強制的に廃村にしてしまうかもしれない。

 赤帝龍討伐より先に辺境伯を殺すのを止めておいた方がいいのは、わかっているのだが。

 問題は、俺が討伐後に辺境伯を殺そうとしていることを、王家があえて黙認する気があるのかどうかということだ。

 建前上は、表向きは当然、王家はそんなことは微塵も許すことはないだろう。反乱も謀反も、王家を裏切る気もない、それなりの領地経営をやってきた王国の有力貴族、領主を切り捨ててしまえば王家の立場も悪くなる。王国全体の政情不安につながりかねない。

 だが討伐後に辺境伯が死ぬことは王家にとって願ったりかなったり、王家は辺境伯殺害に関して一切の関与をしていない、と周知される状況、つまり疑われないで済むのなら、赤帝龍討伐後のこちらの行動に掣肘を加えることはしないのではないか。

 王家がどう判断しているか、それをマーヤから引き出せないだろうか。

 彼女とふたりで本隊とは別行動をとり、俺を辺境伯と接触させないように企んだのは誰だろうか? マーヤ自身? それとも大公か、王都の国王やそれに近い大臣や王女の指示だろうか? 発案はマーヤ自身かもしれないが、ことは辺境伯家で編成される討伐軍と、それに増援する宮廷魔導師らが関わる問題である。王家の者をはじめ、かなり身分の上の者がこの件にかんでいるのは間違いない。

 もし仮に、大公か王都の国王が、赤帝龍討伐の中核戦力たるイヴェダの剣の所有者は、本隊に厳に随行すべし、などと命令を下せば、マーヤはかならずそれに従わなければならない。彼女が本隊と別行動をとる、と言ってきたことは、それがすでに彼女に命令する立場の、上の者の裁可を経ている、ということに他ならない。

 その、“上の者”の思惑を知ることができないだろうか。

 せっかくポーロたち村の者が数十名、助かっていたことがわかったのだ。

 不可能なことだとは重々承知している。だができることなら、討伐後の辺境伯殺害でベルシュ村の復興が吹き飛んでしまうようなことはない、という確約が本当は欲しいくらいなのだ。

 さて、と。完全な防御態勢に入ったマーヤをどう切り崩していくか。

「辺境伯軍は当然アルヴァで編成されるんだよな? マーヤをのぞいた四名はまずアルヴァに向かうわけだ」

「……そう」

「魔導師たちの護衛につく幾分かの兵力を加算するとしても、赤帝龍討伐の本隊としてはちょっと力不足じゃないか? せめてペトラも参加できればな。なんとかなりそうな気もするが。辺境伯はあとどれくらいの兵力を出せるんだ?」

 王家の者であるペトラが、辺境伯の討伐軍に加わるなどありえない話だが。

「今回辺境伯が編成する討伐隊は、前回とは戦力が違う。兵隊さんたちの数も多くなると思うけど」

 マーヤはそこで言葉を切った。彼女も慎重に言葉を選んで話しているようだ。

「リフィア・ベームが、総大将として部隊の指揮をとるみたい」

 リフィア? 辺境伯の娘か。

「そのリフィアって、辺境伯の娘の?」

「そう、辺境伯の長女。わたしたちと同い年くらい」

 あー、ちょっとまった。微妙な発言だな、それは。

 そのリフィアってやつのことはおいといて、マーヤの歳は実際いくつくらいなんだろうか?

「わたしは何も変なことは言ってない」

 はは、まさか顔に出ていたか。マーヤは見かけは幼く見えるが、しっかりしてるから実際の年齢はかなり上だと思ってたんだが。

 とにかくだ、なぜか凄く危険な感じがして、とても本人には聞けない。

 ここは話を素早く転換し、素早く先へ進めるべきだ。

「歳の話はどうでもいいよ、ね? それよりそのリフィアってのはどういうやつなんだ?」

 どこかで噂話を耳にしたことはあるが。確か聡明で剣術ができるとか……。

「辺境伯家のご息女だよ。やつ、とか言っちゃだめ」

「はいはい」

 マーヤはくすっと笑った。少しは警戒が解けてきたか?

「リフィアは凄い魔法具を持っている。“武神の矢”っていうの」

 だが、マーヤはすぐ表情を消して、真面目に話しだした。

「現当主、ベーム卿の父は王家の出だった。その方は王家の凄い魔法具を持っていたの」

 ああ、何となく憶えている。前にファーロが嫌っていた人物か。

「その魔法具をリフィアが相続したわけか」

「そう。小さいころから利発だった可愛い孫娘に与えたんだって」

「で、その王家の魔法具はどう凄いんだ?」

 武神の矢という、いわば二つ名がついているくらいだから凄そうなのはわかるが。やはり力が強くなるとか、早く動けるようになるとか、そういう感じだろうか。

「武神の矢、は純粋に戦うための魔法具」

 彼女はあくまでわたしが知っていることだけ、と断わりを入れて“武神の矢”の説明をしてくれた。

 攻撃用の加速に全身の体力増強、そして防御に硬化の魔法。そしてそれらの能力発揮に見合った知覚、反射神経などの著しい能力向上。

 ペトラが持っていた金色の錫杖も相当な魔法を発動したが、リフィアの持つ魔法具もかなり凄いものらしい。

「昨日の加速の魔法を使った女剣士でブレンダ・ルブレクト、というひとがいたな? 彼女と比べてどうなんだ?」

「加速? そんな言葉あまり使わない」

「え?」

 やばい。まずったか?

「疾き風の魔法のこと? たぶんブレンダさんより全然強いよ、リフィアの方が」

「そ、そうか」

 加速、なんて言葉はあまり使われないのか。

 マーヤはさして気にする風もなく、言葉を続けた。

「武神の矢は、初代ラディス王が持っていた魔法具のひとつ、と言われているの。王家の血を継ぐ者が身につけるとからだの中に溶け込んで、一体化するんだって」

 マーヤはここぞとばかりにじーっとこちらを見つめてきた。

 彼女はこれが言いたかったのだ。加速の魔法、なんてこの世界の人間には聞き慣れない言い方をしたのにかるく流したのもそのせいだ。

「イシュルと同じだね」

 彼女はそう言って微笑んだ。


 イシュルは、しばらく口もきけないほどの衝撃を受けた。

 マーヤはそんなイシュルを、微かな笑みを浮かべながら瞬きもせずじっと見つめてきた。

 こいつ……。

 俺の風の魔法具が自らの肉体と一体化していることは、レーネがそうであると昔から知られていたのだから、今さら秘密にすることではない。だが、伝説の風の魔法具と同じ性質を持つ魔法具が他にもあったこと、自分と同じく魔法具を身に宿した者が他にもいたことは、まさに驚愕すべきことだった。

 リフィアの持つ魔法具、武神の矢も武神イルベズの魔法具、つまり神の魔法具、ということになるのだろうか。本人に会って話してみたい気もするが、実際に魔法を使わない限り外見からだけでは何もわからないだろう。

「仕返し」

 イシュルが考え込んでいると、マーヤは上目遣いに突然、わけのわからないことをぼそっと言ってきた。

「?」

「まるで“でーと”みたいだな、とか言ってからかったでしょ。だから」

 マーヤの笑みが大きくなった。

「あんなこと言って、女の子をからかったらだめ」

「あ? ああ、ごめん」

 マーヤは楽しそうだが、何か違うような、ずれているような気がするんだが。なぜ今になって?

 ただ、お互いびっくりさせられた、動揺してしまったことは同じか。

 リフィアの魔法具の話で、こちらがあまりにびっくりして動揺していたので、彼女なりに気を使って、こちらの意識を逸らそうとしてくれたのかもしれない。

「は、話を戻そう。つまり、その王家の魔法具を持つ、しかも辺境伯の息女が出陣するから、前回の討伐隊とは戦力が違うだろう、ということなんだよな」

「そう」

 マーヤが頷く。

「わたしとイシュルは別動隊だけど、辺境伯や、リフィアには内緒なの」

「え?」

「ベーム卿はイシュルが今、フロンテーラにいることをまだ知らないかもしれない。少なくとも、イシュルが赤帝龍討伐に参加することは確実に知らないと思う」

「そうか……」

 イシュルは右手を自分の顎にやり、考え込んだ。

 辺境伯は辺境伯で、エリスタールの一件以来、風の魔法具を持つ自分のことを血眼になって探していたのだろう。それは当然だ。男爵にあんな手紙を出すくらい、本人は風の魔法具を欲していたんだから。

 ただ、辺境伯が俺を血眼になって探す理由は、それだけではないかもしれない。

 辺境伯がブリガールに風の魔法具探索の指示を出したことは、多くの者に推測され、知られていることだ。ラジド付近でエリスタールから逃げてきたセヴィルたちと会って、はじめて村の凶報を聞いたときに、セヴィルはすでに、辺境伯がブリガールにその指示を出したことを知っていた。ベルシュ村壊滅の責任は辺境伯にもある。あの書簡の中身をこちらが知ろうと知るまいと、彼は自分もブリガールのように復讐されるのではないかと脅え、警戒しているかもしれない。

 場合によっては刺客を差し向けてくるかもしれない。

 ゴルンらはそうだったのか?

 いや、あのタイミングで辺境伯がエリスタールの件を知ることができたとしても、刺客を手配するにはそれ以前の、もっと早い時期に知っていなければならないわけで、それはいくらなんでもありえない話だ。

 イシュルはマーヤに視線を向けた。

 ずばり聞くしかない。

「俺に関する件で、辺境伯家の密偵とかと接触はあったのか?」

 マーヤの目が泳いだ。

 ふむ。口頭で答えにくいことだから、わざと演技してみせてくれたのかな?

 だがこれで間違いないな。ここフロンテーラ、王領においても辺境伯の手の者、勧誘目的か暗殺目的か知らないが、彼らが自分に接触しようとして、王家に排除されていたのだ。同じようなことをしてきた勢力はおそらく辺境伯家だけではないだろう。

 ゴルンらの襲撃以降、こちらも予測し、警戒していたことではあるが、それも王領に入れば、自領で実力に勝る王家側が、自分の身の回りの安全は確保してうまくやってくれるだろう、とは踏んでいた。まさしくその読みどおりの状況になっていたわけだ。

 まるで計ったように、フロンテーラ商会本店のとなりの店にマーヤとペトラがいたのだ。俺に監視がつけられていたのは確実、それは同時に俺に近づく者も監視していた、ということだろう。

 少なくとも赤帝龍討伐に関しては王家にとって俺自身はいわば玉、討伐の正否を左右する最重要のコマだ。王家も他に渡すまいと、俺の知らないところで苦労していたわけだ。

 もし、仮に俺が辺境伯家に雇われるか仕える形になって赤帝龍討伐に成功すれば、その功は辺境伯家のものになってしまう。王家はそんなことは許せないだろう。

 ただこの先、赤帝龍討伐後は自分でなんとかしていかなければならない。エリスタールで男爵家を滅ぼし派手に城を破壊した時点で、こうなることはもちろん予測していたわけだが、何か対策を考えておかなければならないだろう。

 心の奥底から再び、ゴルンらと別れた後感じたあの憂鬱な気分が、寂寥感がじわじわと沸き上がってくる。

「イシュル……」

 俺の考えていること、気持ちがわかるのだろうか、マーヤが心配そうな、何ともいえない表情で声をかけてきた。だがその後が続かない。

「仕方がないさ。大変なのはお互いさまだ」

 何を取り繕うとしたのか。なんだかよくわからないことを言ってしまった。

 心に湧いてくる後ろ向きの気持ちを無理矢理押さえ込み、もう一度引き締め直す。

 故郷を滅ぼされたと知った時のこと、家族を失った苦しみを思い出せ。それと比べたら何でもないことじゃないか。

 聞いておかなきゃいけないこと、確認しておきたいことがあるのだ。それを忘れてしまってはいけない。

「マーヤ、俺たちが討伐隊と別行動することを秘密にするのはいいとして、赤帝龍と実際戦うときはどうなるんだ? 秘密にするなら、いっしょに戦うことはないよな? 俺を最初に赤帝龍に当てて打撃を与え、その後に本隊が攻撃するのか? それとも本隊が最初に攻撃して、俺が後から出て止めを刺す形になるのか」

 マーヤはまたいつもの無表情に戻って言った。

「たぶん今回も辺境伯軍だけでは勝てないと思う。リフィアは強いし、頭がいいから何か作戦を考えているかもしれないけど、彼女がいても、宮廷魔導師がいても、結果は同じ」

 それは確かに二度目の戦いだ。前回の轍を踏まないよう、何か新しい作戦を立てるのは当然だろうが……。

 リフィアというまだ見ぬ人物のことはともかく、昨日戦った魔導師たちの顔が浮かんだ。

 彼らにもこの後、過酷な運命が待ち受けているのだ。

 彼女の感情の希薄な言葉が続く。

「イシュルが戦うのは最後。その前に彼らには全滅覚悟で、少しでもいいから赤帝龍の力を削いでもらう」

 マーヤの背後にいるやつの姿が、なんとなく見えたような気がした。

「誰の考えだ? 大公か? まさかペトラか」

「それは言えないよ」

「フゴのハンターギルドに行くというのは? 賞金稼ぎのやつらを傭兵に雇うのか?」

「うん。現地で宮廷から派遣されたひとたちと落ち合う。もうすでに賞金稼ぎとして潜入しているひともいるの。彼らが傭兵部隊の指揮をとる。わたしは彼らと連絡をとり、現地のギルド長にそれをお願いしにいくの」

 ギルド長にお願い、というのは傭兵募集のことだろう。

「なるほど。だが今回で二回目だし、前回は全滅、さすがに現地では知られているだろう。ひとはあまり集まらないかもな」

 多分小規模になるであろう傭兵部隊、彼らは囮として本隊の攻撃前の牽制に使われるのだろうか。あるいは赤帝龍の様子を事前に偵察する任務が妥当なところか。いずれにしても彼らの行く手にも悲惨な運命が待ち受けているだろう。

「そうかも」

 マーヤは何の表情も見せず頷いた。

 彼女の役目はふたつ。俺のお目付役と、ギルドとの交渉。宮廷から派遣される者たちは裏の仕事をするような連中だろう。あまり高い身分ではないのか、ギルド長との面会、要請に公式に王家の名を出して交渉できないのだろう。

「もうひとつ。赤帝龍討伐後、もし俺が生き残れたら、王家との約束、契約は終了だ。後は俺の自由にさせてもらう」

 マーヤを見つめる視線に力を込める。

 俺を討伐隊本隊から事前に分離し、辺境伯家にはそのことを秘匿する。赤帝龍討伐に成功すれば、王家は自家の強力な魔導師らによる“本隊”によって赤帝龍を滅ぼした、と国内外に喧伝するつもりだろう。もしかすると俺自身を掌中におさめているわけでもないのに、あらたな“王国の剣”の継承者によって赤帝龍を滅ぼしたのだ、とさらに派手にぶち上げるかもしれない。

 彼らは、辺境伯息女や派遣した宮廷魔導師を含めた辺境伯軍の全滅など、まったく歯牙にもかけていない。マーヤの話からすると、辺境伯軍は俺より先に赤帝龍にぶつけられすり潰されるのだ。

 そして俺を使って自らの損失を最小限に赤帝龍討伐を行うだけでなく、辺境伯軍を潰すことによって辺境伯家の衰退の、一石二鳥をねらっている。

 今までマーヤの背後にいる上の者の真意を探ろうと話を進めてきたが、他の情報、要素がどんどんこぼれ落ちてきて、本題に触れることができなかった。それはそれで、今回の赤帝龍討伐の事に関していろいろと知ることができたからいいのだが、やはりできればマーヤ本人の口から、赤帝龍討伐後に辺境伯に復讐するなら王家は黙認するだろう、という見込みが立つかどうか、間接的にでもいいから聞いておきたい。さらに可能なら、彼女の上にいる者、おそらく王家の者か宮廷の高位の者か、彼らが黙認するだろう、という言質をとっておきたい。

 王家や宮廷の連中の思惑を考えると、赤帝龍討伐後なら辺境伯を殺してもベルシュ村の復興に大きな影響はないだろう、と判断してしまって良いような気もするのだが。

 後はこちらから踏み込んでいくしかない。

「それとベルシュ村の復興の件だが、後のこともよろしくたのむ」

 マーヤはうん、と頷くと言った。

「それはわたしも、ペトラもいろいろと働きかけているから大丈夫」

 マーヤの眸を見続ける。

「ブリガール男爵がベルシュ村襲撃事件を起こした数日後にはもう」

 思わず唾を飲み込んだ。

 我知らず、自ら踏み込もうとしている。

「エリスタールの商人ギルドでは、辺境伯が風の魔法具捜索の指示を男爵に出していたことが、知られていた」

 いきなり何を話し出すんだ、とでも思ったのだろう、マーヤの眸が一瞬、大きく見開かれ、揺れたような気がした。

「俺はたまたま、辺境伯が男爵に出したその時の書簡の中身を知る機会があってな」

 マーヤの表情が苦しそうなものに変わる。

「なかなか激烈なことが書いてあったよ」

 自分でもわかる。口許に歪んだ笑みが浮かぶのが。

 セヴィルからはじめて凶報を聞いた時。

 誰もいなくなった村で。

 地下の牢獄の、メイド姿のメリリャ。

 彼女の最後の顔。

 痛ましい、つらい記憶を自ら蘇えらせる。

 もういいんじゃないか。

 俺を本隊からはずし、辺境伯から遠ざけた。

 赤帝龍を倒さないとエサはやらないよ。

 俺はただ頭を下げてありがたく、そのエサをめぐんでもらう立場でしかないのか。

 結局は自分自身が少しでも早く、少しでも強くなるしかないのだ。

 もし辺境伯を殺して王家が村の復興をやめたら、生き残った村の者や関係者に酷い仕打ちを行ったら。

 赤帝龍のように、クシムなどといわず王都に殴り込みをかけるだけだ。 

 彼女の背後にいる者に向かって言う。

「マーヤ、もう一度言っておく。赤帝龍討伐後は俺の好きにさせてもらう」

 ゴルンたちに襲撃されたときにも似たようなこと、言ったな。また同じ啖呵を切るのか。

 別に脅迫、の形になっても構わない。今回は違うのだ。

 相手は目の前の少女の、すぐ後ろに控えている。

 言わなくちゃならない。

 自分が守りたいと思うひとたちのために。自分の心のなかにあるもののために。

「俺のやることに一切手出しはするなと、王家の者に伝えておけ。もし俺との約束、村の復興を反故にしたら」

 おそらく恐怖に、マーヤの顔から血の気がすーっと引いていく。

「俺が第二の赤帝龍になる。王城の半分は持っていくぞ」

 カチ、カチッと食器と銀器のなる音。

 給仕が料理を持ってきた。

 随分と時間が経ったような気がする。ちゃんとした店だから、ものによっては注文してから出来上がるまで時間がかかるのかもしれない。庶民の暮らしにはあまりそういう習慣はないが、あらかじめ予約でも入れておけば良かったかもしれない。

 表情の固まったマーヤの顔を、給仕が手に持つ白い皿が横切った。




 メインは肉の煮込み、それに小皿の付け合わせ、果物とパン。メインが汁物でなければ他にスープがつくこともある。飲み物は食前、食後に二回出される。特別に注文すれば昼でも酒を飲むことができる。

 イシュルは出された料理を食べ終わると窓の外へ目をやった。緑と幾ばくかの紅葉、外はまぶしいくらいに明るい。どこからか百舌か雀か、チー、チチチ、チー、チチチと小鳥の鳴く声が聞こえる。

 今までマーヤとの会話に集中していたせいか、窓外の景色を楽しむ余裕がなかった。

 ふと視線を室内に戻し、マーヤの顔を見た。

 外から視線を戻すと中は薄暗く感じる。マーヤも外を見ていた。

 彼女自身は別に責任者、王家の者ではないのに、ちょっと厳しいことを言ってしまったろうか。

 いや、だが彼女はペトラの乳姉妹であり、宮廷魔導師なのだ。宮廷魔導師はけっして軽い身分ではない。彼女は王家の者たちと、面と向かって直接話すことができる立場なのだ。

 言われてみればとても重要な、過去にも前例があったからなのか、誰もが今まで見過ごしていて真剣に考えてこなかったこと。

 マーヤは視線を庭に向けたまま、独り言のようにそれを口にした。

「赤帝龍はなぜクシムに出てきたんだろう。なぜ同じ所にずっと居るのかな?」

「嫌がらせだろ、人間に対する。ハンターか山奥に住む村人か、火龍の子どもでもさらってきたんじゃないか」

 マーヤは窓から視線を戻し、こちらに向けてきた。

「赤帝龍は何千年も生きていて、ひとより知恵があるんだって」

 長い間生きてきた竜が人間並みの知能を持つようになる、という話は昔から言われてきたことだ。

「……ただの嫌がらせとかじゃないよ、きっと。何か理由があるんだ」

 彼女はまた視線を窓の方にやり、小さな声で呟いた。


 店を出ると待望の魔法具屋に向かう。

 さきほどのイシュルの脅し、暗に辺境伯の殺害をほのめかした発言に、イシュルの顔が怖かったのか、自身が緊張したからか少しの間固まってしまったマーヤは、やがて寂しそうな笑顔で、しかしはっきりと頷いてみせた。

「仕方がないよね」

 イシュルの辺境伯への復讐を、その企図を王家は以前から予測していた。それは彼の復讐を非公式ではあるが、確かに認めた瞬間だった。

「少し歩くよ」

 マーヤの後をついていくと、魔法具屋は意外なところにあった。

 まずベーネルス川を北に渡ると、街の北岸に東西に広がる緩やかな丘陵部の、一番西側の丘を目指してひたすら河岸の道を西に歩いて行く。

 道は人々の往来が常に絶えず、ふたりは、つまり大きな杖を持ち、典型的な魔法使いの格好をしたマーヤは、行き来する人々の物珍しげな視線にずっと晒され続けた。

「人気者だな。マーヤ」

 イシュルがからかい半分で声をかけると、マーヤは口を尖らして言った。

「もう慣れてるから」

「ごめんな、マーヤ。馬車でも手配すれば良かった」

 イシュルが顔を近づけてかるく謝ると、マーヤは頬を少し赤くして押し黙った。

 本店の方に聞けば立派な、屋根つき馬車の手配もできただろう。さっきの店の支払いで金貨を崩し、残る金貨は一枚となった。だがそんな馬車でも借りるのが半日ほどなら、それで足りないということはないだろう。

 街の一番西の丘が近づいてくると、辺りはひっそりとした住宅街になり、道を行き交うひとも少なくなった。

 目的の丘の上には小さな古城があった。背の低い塔が一本だけぽつんと立っている。すでに廃城になっているのかと思ったら、その塔の上に、大公家の紋章の描かれた旗がはためいているのが見えた。

 丘の上には古い城壁の間を縫うように、同じく古い家々が立っている。みな古いが石積みのしっかりした造りの家ばかりだ。

 マーヤはその家々の間の細い道を右に左に、迷いなく登っていく。周りは家々と城壁の織りなす様々な壁が幾重にも折り重り、大きく複雑で、奇怪なひとつのオブジェのように感じられた。

 丘の上には数本の木々が生え、下草で覆われた小さな空き地がいくつも、ところどころ積み石の崩れ落ちた古い城壁の間に、ちらちらと見え隠れしていた。どこからか数人の子どもたちの遊ぶ声が聞こえてくる。

 イシュルたちの立つ広場の先、奥の方には大公旗を掲げた石造りの塔が見える。その周囲だけは城壁の傷みも少なく、今だ使われているようだった。

「大昔はここに本城があったの」

 マーヤが西の方を見て言った。

 城壁の連なりが邪魔して、肝心の街の中心部や大公城の方はここからでは見ることができない。マーヤが顔を向けている、西の方の街の郊外の方は遠くまで見渡すことができた。

 まばらな家々と畑地、雑木林が遠く地平線に霞むあたりまで広がっていた。

 この見晴らしの良さ。確かに今も見張りのために城の一部を残している理由が良くわかる。街の発展と王国の領土の伸展とともに、城もより大きなものが必要になり、平地の方に移っていったのだろう。

「こんなところに魔法具屋があるの?」

 イシュルが景色を眺めながら言うと、彼女が踵を返し先に進みながら、振り返って言った。

「そう。ついてきて」

 マーヤの後ろを歩きながら、城壁の間を通り抜け、丘の上の真ん中あたりまで来た時、イシュルはふと足をとめた。

 何か違和感がある。

 子どもたちの遊ぶ声はまだ聞こえてきているが、彼らの位置が急につかめなくなった。

 なにか胸が苦しくなるような、微かな酩酊感。少し気温が下がった感じ。

 恐ろしさや禍々しさはあまり感じないが、以前、どこかで感じたことのある感覚だ。

 イシュルは頭を何度も巡らし、辺りを見回した。

 ところどころ薄雲が広がる高い空。

 ここじゃない。

 覆いかぶさってくるような、深い森の木々。

 イシュルは唐突に思い出した。

 魔女の森だ。

 木々に覆われた、童話に出てくるような魔女の家。レーネに殺されそうになったあの日。

 ここは、この場所はあの森に少し似ている。



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