大公城の戦い



 地面にぽっかり穴が開いた。

 いきなりの不意打ちでイシュルは何もできず、真っ暗の穴の中に吸い込まれていく。

 真っ暗闇を落ちていく感覚。

 すぐに上から風を降ろし、落下を止める。穴の中は真っ暗だが深さや広さはだいたいわかる。ひとひとりを落とすには随分と大きく深い穴だ。中では不思議なことが起きていた。穴の周りの壁を大小の土塊が渦を巻くように動き、空間を押し広げていた。

 上を見ると真っ黒の枠の丸い穴の内側に星々の瞬く夜空が見える。

 すると突如、その渦が逆回転しはじめた。穴がすぼまり、周りの空間が狭まっていく。

 ドレート!

 あいつ、俺を生き埋めにする気か。

 風をどんどん上から降ろし、足下に集めていく。そして周りを渦巻く土塊の間に風を吹き入れ、土の動きを封じた。風、気体でないものに直接干渉することはできないが、それを動かそうとする力の働いている土塊と土塊の隙間に、「風」を割り込ませて邪魔をしてやる。やつの土を動かそうとする力、魔力よりも、こちらの風を動かす力の方が断然強い。それは本来の個体と気体の密度や安定度の差を縮め、場合によっては凌駕するほどのものだ。

 一瞬生まれた時間の余裕で必死に考える。

 このまま外に出ても、出た瞬間、地上にいる魔導師たちから集中攻撃を受けてしまうのではないか。みな、こちらが穴の中から姿を現すのを待ち構えているだろう。なら、自分のからだを傷つけてしまったり、意識を失わないぎりぎりの範囲で加速して、一気に百長歩(スカル、六〜七十メートル)ほどの高さまで飛び上がってしまおう。魔法の照準を狂わせ、高い視点から周囲の状況を瞬時に把握する。そして、やつの支配から奪ったこの土塊も使わせてもらおう。

 イシュルは気圧を高めた空気の膜で全身を鎧のように覆い、下半身に強めの圧力をかけて穴から垂直に飛び出した。同時に土塊を穴の外周に吹き上がらせた。穴から飛び出る瞬間をカモフラージュするのと、何らかの攻撃を受けても、その打撃を少しでも緩和できるようにと考えたのである。

 飛び上がる瞬間、目の前で吹き上がる土塊の壁が、まるで止まっているように見えた。そしてすぐに凄い勢いで、下へと流れていく。

 何もない空中に飛び上がった、と感じた瞬間、意識が飛びそうになった。

 やはり急激な加速に、血が下半身の方に下がってがってしまったのか、頭を下に、からだが傾き落ちはじめる感覚に意識の混濁が襲ってくる。

 そこへ何か、周囲を銀色の閃光が走った。

 なに!?

 本能的な恐怖に意識を持ち直す。

 左腕を銀色の針のようなもの、レイピアがかすった。

 どうして? この高さで? 何が起きたかよくわからない。

 レイピアは左腕をかすったやつ、おそらく頭の上あたり、そして少し離れた左側の、おそらく全部で三本。それはオレンジ色に発光して熱を帯びると、さぁーっと身の回りから遠ざかっていく。目で追っていくと、向かって一番右にいた大男が巨大な矛を腰だめに、まるで機銃か擲弾筒か何かを構えるようにして立っていた。

 その矛はもとの形状を変化させて三又に別れた刃を針のように細く伸ばし、曲折させて空中に浮かぶイシュルを突き刺そうとしたのだ。

 異様に長く細く伸ばされた三本の刃は、発光しながら急速に大男の方へと戻っていく。矛の発光は魔法によるものというより、急激な形状変化による金属の発熱によるものかもしれない。

 イシュルは頭の中が真っ白になるような衝撃を受けた。

 あれは五系統の金、金属属性の魔法具、というより武器そのものだ。指輪がなかたったら、あの三本の細い刃は確実に自分のからだを貫き、死んでいたかもしれない。表面積の極端に少ない金属の刃先など、どんな風の魔法で防げばいいのか。せめて強い横風を当ててねらいをそらすくらいしかできない。

 状況把握がどうだとかそんな余裕はどこかに吹き飛んでしまった。

 もう手加減するなどと言ってられない。

 と、思う間もなく落下しはじめていたイシュルに向かってくる火球がふたつ、そしてブーメランのような形状の半透明の刃がふたつ。

 イシュルは落下しながら周囲の風を集め、火球と風の刃に横から強風をあびせた。火球は形を歪ませ地面に激突、炎がはぜて消えていく。風の刃はイシュルから大きく逸れて背後の城壁をガガッと削りとって東の夜空に消えていった。あの風の刃は石を砕く力があるのだ。

 火球はマーヤ、風の刃は金髪の女魔導師からだった。あの金髪は風の魔法を使う。

 やはりこの世界にも風には「切る」イメージがあるのか。この世界の風の魔法による攻撃は「切る」ことが主体なのかもしれない。風の神、イヴェダ神の像は剣を持っているものが多い。風に砂でも小石でも混ぜれば物を「切る」ことも可能だろうが、前世の常識では風自体はものを「切る」ことなどできない筈だ。例えば「かまいたち」は昔のひとの、風に対する感覚的なイメージがつくりだしたものだろう。実際には存在しない現象だったと思うが。

 イシュルは空中でからだを丸め一回転して姿勢を整えながら、右端の大男に向け、上空から空気を集め加圧した球を浴びせた。回転する視界の端で大男の構える矛がまた形状を変化させ、多角形の盾のような形になるのが見えた。

 イシュルは地面に着地すると自らの足下に風を集めて圧縮、すぐに地面の上に自分のからだを浮かす体勢をとった。

 空気球が大男の構える盾もどきにぶつかり破裂した。男のからだが揺れる。彼には空気球の接近がしっかりわかるらしい。魔法使いなら当然か。

 イシュルは内心ほくそ笑み、やや威力を落とした空気球を連続して大男に見舞った。空気球が不規則な間隔で男の構えた「盾」にぶつかり爆発し続ける。

 男は防御に追われ、こちらを攻撃する余裕がなくなった。あれであいつの攻撃は封じた。

 イシュルの足下にまた突然、大穴が空いた。しかしイシュルはもう落ちない。続いて今度はイシュルの真上で光がきらきらと煌めき、それが突然炎の固まりとなって滝のように落ちて来た。イシュルは空中を滑るように動き、その炎の壁を難なく躱した。

 イシュルは波の上を滑るサーフボードに乗るような感じで、緩急をつけて地上を左右に移動しはじめた。

 マーヤが唖然とし、ドレートが悔しそうな表情をするのが見える。

 と、動き回るイシュルの目の前に、再び剣の刃が閃光のように突き出された。

 いきなりだった。あまりに早くどうしてそうなったかわからない。咄嗟に目の前の剣先から上空に逃げる。 

 剣を突き出してきたのはマーヤの隣に立っていた、剣士風の格好をした背の高い女だった。気づく間もなく、目の前に剣を突き出し立っていた。

 加速だ。この女は加速の魔法を使う剣士というわけだ。

 ほんとに指輪様々だ。彼女の剣先も自分に当たらず、はずれたのはベルシュ家の指輪のおかけだろう。

 こちらに向かって、跳躍して二の太刀を振るおうとする女に、急速に風を集め空気の壁をつくってぶつける。辺りを風のあげる甲高い悲鳴が突き抜けた。

 女剣士は後ろへ飛ばされることこそなかったが、上にも前にも進めなくなった。空気の壁で彼女の四囲を囲む。

 彼女の周囲に風を集め続ける。イシュルは彼女のまわりを、強い風圧の空気の壁で覆った。

 彼女の動きがまるでスローモーションを見ているように緩慢になった。くやしそうな顔をして、女だてらに「くそっ」などと叫ぶ声がかすかに聞こえてくる。

 これでふたりの攻撃を封じた。

 次から次へと波状攻撃をかけてくる魔導師たち。他の者はどうしたかと視線を向けると、マーヤ、ドレート、金髪の女魔導師がそろって詠唱をはじめ、彼らの前の空間に何かが現れようとしていた。

 いよいよ精霊やそれに類するようなものを召還しようというのか。

 ドレートの前では地面から土の固まりが隆起しはじめ、マーヤの掲げた大きな杖からは鋭い炎が放たれそれが渦を巻きはじめた。いつぞやの、火龍と戦っていたときにつくり出した炎でできた龍だ。練兵場をさまざまな風が吹き荒れる中、龍はまだ形が定まる前からあの特徴的な、遠くまでよく響き、夜空にすうーっと溶けていく雄叫びを上げる。

 少し離れたところでは隆起した土の固まりが、いよいよ大きな“ひとがた”になりはじめていた。あれはゴーレムとかいうやつなんだろう。背丈は城壁のそれと変わらない。それこそ対人用というより大型の魔獣か攻城用の兵器と言っていい代物だ。土塊でできているのならそれこそゴーレムの元祖、といった感じか。

 そして金髪の女魔導師の前に現れたものが明確な形になっていく。イシュルはそれを見て驚愕した。彼女の前の中空に立つ半透明の女戦士、それは明らかに風の精霊だった。


 金髪の女魔導師はイシュルと同じ風の魔法使い、そして彼女は、以前イシュルがエリスタールでたまたま呼び出した子どもの精霊とはレベルの違う精霊を召還してきた。

 半透明の、白っぽく輝く女戦士はからだ全体がひとよりひとまわり大きく、その堂々とした佇まいからは、溢れ出る精気のような感じで魔力がほとばしっている。

 その精霊の動きが一番早かった。精霊の女戦士は空中をすうーっとイシュルに近づいてくると剣を振りかぶり、一振りした。そこから大きく強烈な風の刃が向かってきた。

 その右側からマーヤのつくり出した炎の龍が火炎を吹いてくる。イシュルはまず横風で火炎をあらぬ方にいなし、ある確信をもって、風の精霊が放った大きな風の刃に向かって右手を突き出した。

 掌の先から風を生み出すように、そのもとになる力、風の魔力そのものを放出する。

 風の精霊の放ってきた大きな風の刃は、イシュルの突き出した掌の前でぴたりと止まった。その風の刃は、もしそのままイシュルに当たれば彼を一瞬でまっぷたつにしてしまったろう。

 それは彼が掌を閉じると形を失い、強風となってあたりに四散した。

 イシュルは風の刃を自らの魔力で風の精霊から奪い支配して、おのれの意志で消し去ったのだ。

 それを見た風の精霊ははっきりと目に見える形で動揺した。

 あの精霊は金髪の魔導師と契約しているのなら、イシュルと直接会話して意思疎通することはできないかもしれない。それでもイシュルはその精霊に、できるだけの威厳をもって話しかけた。

「イヴェダ神の剣に逆らうか」

 イシュルの言った言葉の意味は明らかに風の精霊に伝わったようだった。彼女の顔が苦悩に歪み、俯いて力なく剣を下げてしまう。精霊はその属する神々の僕のような存在である。イシュルのからだの中に存在する魔法具、イヴェダの剣が“神の魔法具”、風の神の分身のような存在なら、たとえ彼女が金髪の魔導師と契約しているとしても、その魔導師の命令であろうと、イシュルをたやすく攻撃することはできないのだろう。

 そしてそんな理屈とはまた別に、イシュルには神々と精霊、神の魔法具との関係性を、言葉では表現できない感覚的なものとして感じ取ることができた。だから精霊の攻撃を直接受け止めて、無力化できる確信が事前に持てた。イシュルが風の魔法具を自らの肉体と一体化して所有していること、そして一度でも精霊を呼び出し、自力で再度召還しようと試みたことが役に立ったのかもしれない。

 イシュルは戦意を喪失した風の精霊から、その横をゆっくりと、だが地面を揺らしながら堂々と彼に向かってくる、土塊のゴーレムに視線を移した。

 そろそろ決着をつけようか。

 近くの、遠くの空の、いたるところでドーンと空気の爆発するような音がした。

 それはイシュルが大公城の上空、「手」の届く範囲で急激に風を集めた音。その結果、さらにその外周からも凄い勢いで吹き込んでくる風、というよりは空気の固まりが早く激しく動く音。それらはまるで何かが音速を越えた時に起きる、衝撃波のような鋭く重い音を発した。

 空気球の爆発、空気の壁、イシュルを浮かし続ける風のボード、練兵場には大小の様々な風の奔流が起こっていた。

 その中心に突如、なんの前触れもなく爆発的な威力を持った竜巻が出現した。

 イシュルが大公城の上空から一気に集めた風の塊だった。そしてその外周からも風をどんどん吸い込み竜巻に巻きつけ回し、圧縮していく。

 ゴゴゴゴーッと、低く唸るような凶暴な音を出しながら竜巻はマーヤの生みだした炎の龍を丸ごと飲み込み、その風の渦の中に閉じ込めて悲鳴のような鳴き声とともに吹き飛ばすと、その横をイシュルに向かって進む土塊のゴーレムに噛み付いた。

 ゴーレムは姿勢を低くし身を守ろうとしたが、竜巻の暴風に己のからだから土をざくざくと剥ぎ取られ、そのからだを維持することができず頭から足の方へと形を失っていき、大量の土埃となって消えていった。

 ぼんやり空中に佇んでいた精霊は竜巻から逃げることもせず、その風の中に溶けるように姿を消していった。

 イシュルはその竜巻を前方におし進めていく。イシュルの左側で、空気の壁に捕われ喘ぎ続ける女剣士を除いた他の魔導師は、向かいの城壁の前に佇み、以前から立ち位置を変えていない。一番右の大男は空気球の連続爆発の防御に追われ続け、片膝を地面について姿勢を低くしてる。マーヤをはじめみな、イシュルに向かってもう魔法を射ってくるような様子はない。マーヤと金髪の女魔導師はただ力なく杖を構えるだけ。ドレートも大男と同じく腰を下げ、片膝をついている。みな、だいぶ消耗しているようだ。やはりイシュルと比べ、魔力を行使できる量に相当の開きがあるのだろう。

 大勢は決した。

 どうする、おまえたち?

 これから、こちらがあんたらを蹂躙していくんだが。

 魔導師たちで動ける者は背後の城壁の方へ退いていく。もう打つ手がないのだろうか。

 そこでイシュルは何かの気配を感じとり、城壁の上に立つペトラを見た。

 何かを祈るように、彼女は金色に輝く錫杖を夜空に掲げていた。その錫杖の先から魔力がほとばしり、夜空に高く広がって、光り輝くベールのように地面へ落ちていった。

 思わず目が釘付けになる美しい光景だった。そして練兵場全体が揺れ出した。地面の揺れは、それほど高くないところで空中に浮いていたイシュルにも充分に感じとれた。

 地面の振動はますます激しくなり、イシュルと魔導師たちの間に、突然地面を押し上げ、大きな土の壁が姿を現した。それは城壁にせまる高さがあり、イシュルと向かって左右に広く展開する魔導師たちを端から端まで、充分に隠し隔て、守る長さがあった。土の城壁はイシュルたちの戦っている遥か先の南の方まで続いているようだ。

 イシュルがはじめて目にする自分以外の大規模魔法。

 これが王家の者が振るう魔法か。

 ペトラめ。昼間ははしゃいでバカなことばかり言ってたくせに。なかなかやるじゃないか。

 イシュルはニヤリとすると、その土の城壁に竜巻をぶつけ、北の端から南の方へ徐々に移動させ、壊しにかかった。

 竜巻はもの凄い勢いでその風をペトラが生み出した土の城壁に叩きつけ、その土塊を削りえぐり取っていく。ペトラの土の壁は北から姿を消していった。

 イシュルは竜巻を南の方へずらしていき、順調に城壁を破壊していったが、完全に破壊したと思われた北の端の壁の方で思わぬ現象が起こった。

 姿を消した土の壁の場所から再び土が盛り上がりはじめ、四散した土塊がフイルムを逆回転させるように集まってきて、またたくまに土の壁が再生されるのだ。

 イシュルは竜巻をまた北の方へずらし、再生された壁を破壊した。するとその間に先ほど壊した南の方の壁が再生されていく。

 これは……。

 さすが王家の魔法具、一筋縄ではいかないか。

 それなら術者を殺すか、彼女の持つ魔法具を破壊すればいいんだが……。

 イシュルは無理をしてもうひとつ、南側に竜巻を生み出した。練兵場全体がさらに激しい風と轟音に覆われる。今まで半ば自動的にイシュルを避けていた強風も、彼の周りに直に吹き荒れるようになった。だが、激しい風に髪をなびかせているイシュルの顔はまだ表情に余裕があった。

 二つ目の竜巻も土の城壁を破壊しはじめた。

 ペトラの生み出した壁は二ヶ所で同時に破壊が進むと、もう自動で再生をすることはなかった。何かの決まり事でもあるのか、複数箇所で同時に破壊されると再生する機能がキャンセルされてしまうのかもしれない。

 イシュルの顔がほころんだ。

 その柔和でまだ少し幼い表情が逆に見る者に恐怖を感じさせた。それがわかるのは、彼の近くで空気の壁に覆われ動きを封じられた、加速の魔法を使う女剣士だけだったが。

 これで終わりだな。

 イシュルは内心で勝利宣言をすると、ペトラの方へ目をやった。

 城壁の上ではペトラが踊り狂っていた。両脇のふたりの女騎士が彼女に縋りつき、必死でなだめているようだ。

 「………!」

 何か小さな声が遠くの方から聞こえてくる。

 イシュルが声のする方へ目を向けると、少し離れたところで空気の壁に囲まれ、もがくように緩慢な動きを続けていた女剣士が動きを止め、何か叫んでいる。

 彼女の叫び声は周りの空気の壁と吹き込む風の音のせいで、ほとんど聞こえてこない。しかもそれに加えて、周囲ではふたつの竜巻を中心に、さまざまな風が吹き荒れる轟音が鳴り響いている。

 女剣士はとりあえず戦いを止め、戦意もなさそうに見えた。イシュルは彼女に近づいていった。

「お願い、降参するからもうやめて。みな死んでしまうわ」

 女剣士は騒ぐペトラの方を見て、強風の轟音の中、大声で言ってきた。

 イシュルもペトラの方へもう一度視線をやった。

 あれは怒っているんじゃなくて、止めてくれ、と叫んでいるのか?

 まだこいつらを恐怖のどん底に叩き込んでやった、という気がしないんだが……。

 まぁ、いい。とりあえずは矛を収めてやる。

 イシュルは練兵場に展開していたすべての風の魔法を停止した。竜巻が消え、右端の大男に放っていた空気球も、女剣士のまわりの空気の壁も消えた。イシュル自身の、足下の風の圧力を板状に固めた“ボード”も消し去って、地面に降り立つ。

 辺りは竜巻が消えていく高い風の音を最後に、不自然とも思える静けさに包まれた。

 異常な状況に晒され続け五感がおかしくなってしまったのか、本来の、夜の城の静寂の方にむしろ違和感を感じてしまい、急激な環境の変化についていけない。

 イシュルはひとつため息を吐くと、女剣士の方を見た。

 疲労の故か女は地面に座り込み、顔を俯け肩で息をしている。

 イシュルもかなりの疲労を感じた。さすがにエリスタール城の石積みの塔を連続して倒した時とは状況が違う。あの時は頑強でも動かない物が対象だったが、今回は複数の魔導師、魔法を使う生きた人間が相手だった。結果、空気球や竜巻など常時複数の魔法を使い続けた。

 イシュルと魔導師らを仕切っていた土の壁が音もなく地面に沈み込んでいく。後には土塊が散乱し、ところどころ地面が盛り上がり、へこんだ荒れ果てた練兵場の広場が残った。

 イシュルと相対していた四人の魔導師がイシュルの方へゆっくり歩いてくる。彼らにも戦意は感じられない。城壁の上ではペトラとお付きの女騎士らが足早に南の方へ歩いていく。彼女らの歩く先には城壁に等間隔で設けられた櫓のひとつがある。あそこから降りようとしているのだろう。

 イシュルは今さら重要なことに思い当たって、まわりに大人数のひとの集団が潜んでいたりしないか、自身の風の魔法の探知を広げ探りを入れた。

 特に怪しい気配は感じられない。

  彼を本当に罠にかけて抹殺する気なら、王国側は宮廷魔導師たちだけでなく、騎士団などのまとまった兵力を練兵場の周囲に事前に集結させていただろう。

 俺が罠を張る側ならそうする。これはやはり自分の力を計るため、単純な力試しだったと考えていいのか。

 そのわりにはこいつら、かなり本気を出していたようだが。

「ごめんね、イシュル」

 イシュルの側まで寄ってきた魔導師らから、マーヤがさらに一歩前に出てきて、イシュルに声をかけてきた。

「だますつもりはなかったんだけど」

 イシュルはマーヤを何とも言えないすがめで睨んだ。

「本当に力試し、だけだったのか? まぁいいが」 

 マーヤが無言で幾分ひきつった笑みを浮かべた。「まぁ、いいが」の言葉の意味することがわかるのだろう。

「もう知ってるだろうが、俺の名はイシュル。あんたらの名を教えてくれないか? どんな魔法具を持ち、どんな魔法を使うかまでわかっているのに、名前もわからないんじゃな」

 イシュルは集まってきた魔導師らを見渡して、今回の仕打ちに怒っているんだぞ、と言わんばかりに露骨な皮肉を言って彼らに自己紹介を促した。

 本来なら十代半ばの歳の、それも庶民の少年がとる態度ではない。

 魔導師たちの疲れた表情にいささか情けない、自嘲の混じった苦笑が浮かんだ。

「この大きいひとがボリス・ドグーラス」

 マーヤが司会役になって自己紹介が行われた。

 金の属性の魔法具、大きな矛を持つ大男、ボリスはイシュルに向かってかるく会釈するとひと言、

「ベルシュ殿、よろしく」

 イシュルも会釈し返すと重々しくひとつ頷いて見せた。

「はじめはかるく貴公の実力を見せてもらおう、などと安易に考えていたのだが、あの空高く広がる圧倒的な魔力の奔流を見たときに、我々も本気で戦わなければあっという間に殺されてしまう、と恐怖してな。あのような仕儀となった」

 ボリスはまた頭を下げてきてイシュルに詫びた。

「どうかお許し願いたい」

 ボリスはこの中では一番の年嵩に見えるが、やっと三十に手が届いたかどうか、といったところだろう。

 略式の騎士風の甲冑に大きな黒いマント、見た目といいい言葉遣いといい、武人肌の男だ。

 彼の言に嘘やごまかしはないだろう。ゴルンのパーティにいた火の女魔法使いが、イシュルの魔法発動を見て腰を抜かしていたのが思い出される。こちらが罠にはめられた、と感じた一方で、彼らは彼らで身の危険を感じ恐怖していたのだ。

「それから、こちらが…」

 イシュルと同じ風の魔法を遣う、金髪の女魔導師はカリン・エドヴァールと言った。彼女はマーヤから紹介されるとイシュルに向けて正対し、右手を胸に当て腰を屈めた。

「此度はイシュル殿とお会いできてうれしい。わたしの師はレーネさまの孫弟子に当たるのです。あの伝説の風の魔法具の継承者とこうして相見え、その魔法を直に見ることができ、まさに感無量です」

 彼女の態度は他の者たちとはちょっと違ったものだった。同じ風の系統の魔法を遣うが故のものだろう。王国にレーネの弟子だった者たちの、末の者が今もいてもおかしいことではない。

 からだを重そうに引きづりながら遅れて近づいてきた、加速の魔法を使う女剣士がブレンダ・ルブレクト、有力な魔法具を持つ女剣士は希少な存在で、今まで国王のひとり娘、ヘレナ・ラディス王女の側に仕えていたという。いわば王女の近衛、護衛役だったわけだが、なぜ今回の赤帝龍討伐に参加することになったのか。何か不審を感じないでもない。戦術、作戦上の何かの理由でもあるのだろうか? 単にマーヤやカリンの護衛役、という立場なのか。

 イシュルはそんな考えごとを微塵も表に出さず、ふたりに無言で会釈した。

 このふたりの女性もおそらく二十代前半、まだ若い。赤帝龍討伐は王都からアルヴァまでの長い旅程に加え、アルヴァからクシムまでは山間部の行軍となる。王家は新進気鋭の若手魔導師を選抜してきた、ということなのだろうか。

「いやはや」

 マーヤが紹介しようとするのを、ぼくはもう済んだからと断わり、ドレートが疲れに嫌味の抜け落ちた、少し腑抜けた表情で言ってきた。

「きみに関する話は以前から耳にしていたが、まだ歳若いのにその落ち着きと言動。とてもじゃないが一筋縄ではいかない御仁のようだ」

 ドレートが片手の甲と掌をひらひらと、表に裏に何度かひっくり返してみせた。大陸では「お手上げ」を表わすジェスチャー、身振りだ。

「しかも今まで誰も見たこともないような、複数の強力な魔法を同時に連続して発動してみせた。それも無詠唱で」

 ドレートの顔に嫌味な、いや皮肉な色が浮かんでくる。疲れのせい、ではなくただ隠していただけか。

「王国の剣、と呼ばれたレーネは本当に恐ろしい魔法使いだったらしい。きみはあの偉大な魔導師から生前、どんな教えを受けたのかね」

 イシュルのドレートを見る目が僅かに細められる。

 来たか。

 今回の戦いで彼らの魔法具、魔法とその使い方の一端を知ることができた。それは彼らにとっても同じだろうが、こちらの魔法は、中途半端ではあるが前世の自然科学などの知識によって、独自に工夫して生み出してきたものだ。逆に彼らのように、師につき、魔術書を熟読し学んできた、この世界の本来の魔法に関する知識はほとんど持っていない。風の魔法具はレーネに殺されそうになった時に、たまたま偶然に入手できたものだ。彼女から教えを受けたなどあり得ない、とんでもない話だ。

 そのふたつのこと、独自に魔法を開発してきたこと、この世界に従来から存在する魔法の知識がほとんどないこと、それのどちらも彼らに知られるのはまずい。

 さて、どうごまかそうか。

「おーい、イシュル〜」

 イシュルがどう答えるか言い淀んでいると、そこへ調度、城壁の上にいたペトラが後ろに護衛の女剣士らを引き連れ、小走りに寄ってきた。

 マーヤとイシュルをのぞく全員がいっせいに片膝をつき、左手を胸に当て身を屈めた。

 しめた。いいタイミングじゃないか、ペトラ。

「はぁ、はぁ、いきなりですまんかったの、イシュル」

 ペトラは不必要なまでにイシュルの近くまで寄ってくると、イシュルの顔を見上げ、走ってきて息が上がっているのも気にせず声をかけてきた。

「ふん。これが友達、に対する仕打ちか? ペトラ」

「ゔっ」

 イシュルが笑みを浮かべながらも皮肉で返すと、ペトラが一瞬鼻白んだ表情になった。

「それに随分と練兵場が荒れてしまったな。あれはおまえが直すのか?」

 イシュルは練兵場の方へ目をやり言った。

「ゔっ」

 まだまだ攻撃の手は緩めない。

「おまえの土の魔法なら簡単だよな? それともまさか大公騎士団の兵らを動員する気か?」

「……いや、妾は此度のことはもともと反対だったんじゃ。じゃがしかし」

 ペトラが俯き、両手の指をからめてもじもじしながら言った。

 とりあえず見た目だけは可愛いよ、ペトラ。

「あれ? それは面白そうじゃ! とか言ってたよね、ペトラ」

 そこでマーヤが割って入ってくる。

 だろうな。

 こいつのことだから思いっきりはしゃいでいたんだろう。とてもよく、はっきりと目に浮ぶよ。

「ああああああああっ」

 ペトラがマーヤを指さし暴れ出した。 

「それを言ってはだめではないかーっ」

 こいつら……。

 跪き、頭を垂れていた魔導師たちは顔を上げ、愕然とした面持ちで彼女らを見ていた。

 マーヤは暴れだしたペトラを無視してイシュルに言った。

「イシュルも今日は疲れたよね。ごめん、赤帝龍討伐の話は、明日あらためて説明するから」

 マーヤもとことことイシュルに歩み寄ってくる。彼女はイシュルを見上げて言った。

「ね? とりあえず今晩はこれでおしまい」

 イシュルは再び目をすぼめ、マーヤをいわくありげに見つめた。

 彼女はイシュルのその視線にも一切、動じる気配がなかった。



「は? なんだって」

 やられた?

 ふたりでちょっと遅めの昼食をとった翌日。向かいに座るマーヤ。

 イシュルは昨晩、あそこで無理矢理話を打ち切ってきたマーヤの思惑がわかったような気がした。

 赤帝龍討伐に加われば、辺境伯と身近に接する機会もあるだろう、出陣前に謁見、なんてこともあるだろうと考えていた。本人の顔も覚えられるし、居城の内部の様子もわかる、何よりそこでいきなり敵討ちの名乗りをあげて……なんてことも場合によってはできるだろう、と踏んでいたのだ。

 それなのに。

 彼女はあの時、このまま話を続ければ面倒なことになるかもしれない、と考えたに違いない。


 翌日、イシュルは約束どおり、マーヤと西の橋の城門前の広場でお昼に待ち合わせ、フロンテーラ商会本店やペトラと出会った屋外のカフェと同じ道沿いにある、元は貴族の屋敷だったのか、落ち着いた雰囲気の店で昼食をとった。その店は一階の複数の客室を改装して、よく整えられた庭の草木を眺めながら、品のある調度品に囲まれた個室で食事ができる、なかなかしゃれたお店だった。この店のことは、フロンテーラで生まれ育ったフルネに教えてもらった。

 マーヤの重大発言はふたりで昼食をとっているとき、赤帝龍をどう討伐するか、その作戦を説明するくだりでさも当然、という体でなされた。

「わたしとイシュルは別働隊。彼らとは別行動になる」

 マーヤはいつもの無表情な顔つきでさらりと言った。

「辺境伯軍に合流するのは、昨日イシュルと戦った同僚の魔導師四名。イシュルはわたしといっしょに、アルヴァには寄らずにフゴというクシムの近くの村に直行して、まず最初にその村のハンターギルドに向かうの」


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