フロンテーラを流れるベーネルス川には石造りの立派な橋が三つ、架かっている。

 一番東、上流に架かる橋が、イシュルが今日フロンテーラの市街地に入る時に渡ってきた、立派な橋塔のある大公城に接続する橋、真ん中が市街地の中央部に架かる最も人通りの多い橋、そして一番西、下流に架かる橋はめずらしい、上背のある塔を備えた大きな跳ね橋であった。

 イシュルはベーネルス川の北側に向かい真ん中の橋を渡ったが、橋の上から西の方を見ると、川の北岸に横付けするたくさんの川船の向こうに、石造りのふたつの大きな塔のある跳ね橋が見えた。橋桁の可動部は要所々々を頑丈な鉄枠で補強された木造、その橋桁を上げ下げする複数束ねられた鎖が遠くから見てもものものしい、まるで巨大な城の城門のようないかつい橋であった。

 ベーネルス川もここから先は下流域になる。マストを倒したり、はずすことのできない大型船を街の中心部に呼び込むためなのだろうが、あの石造りの頑丈そうな塔は、橋が跳ね橋であることとあわせて街の南部と大公城外郭西北部の防衛も兼ねているのだろう。

 イシュルの渡る橋の先、対岸のたもと辺りは河岸の道と交わり、行き交う多くの人々で混雑していた。道の両側や河岸には石造りの大きな建物がびっしりかたまって立っている。イシュルは人混みを慣れた動きでからだを横にし、斜めにひねって躱し先に進んだ。

 川を渡って二つ目の横道を右に折れる。そしてさらに最初の横道を左に入る。その道は緩やかな坂道になっていて、イシュルはその坂道をゆっくり登っていった。

 やがて右手に目印の大きな椎の木が見えてきた。敷地にその木がある家がセヴィルらの仮住まいになる。

 大きな椎の木の手前の横道、階段を登っていく。正面奥の黄ばんだ洋漆喰の古い家がそれだろう。その家は階段に面した出入り口がなく、階段の左側から椎の木といくつかの木々、草花に覆われた庭に足を踏み入れ、イシュルはおとないを入れた。

「はーい」

 奥の方から女性の声が聞こえてくる。フルネの声だ。

 彼らと別れてひと月ほどしか経っていないのに、イシュルは胸の鼓動が高鳴るのを感じた。そして懐かしさも同時にこみ上げてきた。

「イシュル!」

 フルネは建物の奥の方から出てくると、イシュルに飛びついた。

 イシュルの母、ルーシはもっと若かったし、フルネよりほっそりしていた。でも、イシュルには本当の母に抱きしめられたような温もりが感じられた。


「お帰り、イシュル。よく無事で帰ってきたな」

 セヴィルは笑顔を浮かべながらも、どこか重々しさのある感じで言った。

 そこには、同じ村の出身の、商人見習いでいわば弟子ともいえる少年が危地から生還し、万感胸にせまるが故に、というよりは、やはりもうエリスタールで起こったことを耳にしていて、そのことに何かの屈託を抱いている感じ、喜びや安堵などとは違う異質な気配があった。

 対して、食卓をはさんでイシュルの向かいに座る、セヴィルの横のイマルはにこにこ、こちらはまったく屈託なく、あまりににこにこしているのでまた別の意味で違和感を感じる。

 ふたりはイシュルの訪問より少し遅れて河岸の商会の支店から帰ってきた。

 再会の喜びを一通り分かち合った後、みなイシュルの表情から、いや、彼の事情を察して、フルネは夕食の準備をすると席をはずし、セヴィルが、イマルとともにイシュルと落ち着いて話のできる場を設けたのだった。

 イシュルはふたりから発せられる対照的な反応に不審を覚えながらも、なんとか気持ちを落ち着かせて、直に見たベルシュ村の惨状をありのままに話した。あの時村に見回りに来ていた見習い騎士から聞き出した話や、メリリャからの話に関してはある部分は伏せ、一部を略して話した。

「そして、今までぼくがふたりに秘密にしていた、いや誰にも話していなかったことをこれからお話しなければなりません」

 ベルシュ村の話を聞いて、その内容に顔を歪ませ俯いているセヴィル、さすがににこにこ顔を引っ込めて辛そうな表情をしているイマルに、イシュルは自らのからだに取り込まれた森の魔女、レーネの風の魔法具の話を、そのことを誰にも話さず秘密にしていたことを、その力をもちいてエリスタール城を破壊しブリガール男爵を殺害し、家族を殺され村を滅ぼされた復讐をしたこと、これもその一部を伏せて話した。

「……このことをぼくがもっと早く公にしていれば、かつてのレーネのように王家に仕えていれば、赤龍帝が出てきても村が襲われるようなことにならなったと思うんです。村がああなってしまった大きな責任がぼくにはある」

 イシュルは顔を下げることをせず、静かにふたりの顔を見て話した。

 セヴィルにもイマルにも、イシュルの話に驚いた感じがない。彼らはブリガール殺害とエリスタール城破壊の犯人がイシュルであることだけでなく、イシュルがその時に風の魔法をもちいたこと、そしてイシュルが森の魔女レーネの伝説の風の魔法具、イヴェダの剣の所有者であることまでも、もうすでに知っているようだった。

 腕を組み、顔を俯き加減に下から睨みつけるようにしてイシュルを見つめていたセヴィルが顔を上げ、上体を起こし、今度は正面からイシュルの目を見て言った。

「あれから、宮廷に仕えているという、若い女の魔法使いの方に懇意にしていただいてな。エリスタールの状況やおまえのことも少なからず、すでにその方からお話をうかがっている」

 イシュルの目が僅かに細められた。

 間違いない。

 エリスタールの状況だけでなく、イシュルが苦渋の思いでふたりに語った風の魔法具をめぐる一連の話の、少なくとも一部はマーヤから彼らにすでに伝えられていたのだ。

 マーヤは商会本店だけでなく、セヴィルらにも接触し渡りをつけていたわけだ。しかも自ら直接動いて。

 王家は宮廷魔導師まで寄越して、とりあえずセヴィルらからは穏便な形で情報収集を行っていた。

 この後、王国はイシュルに対し、セヴィルらを人質にとったりすることがあるだろうか。

 やはりどうしてもそのことが気にかかってしまう。

 だがそれをいうなら、ベルシュ村の復興を王家に依頼した時点で、もう意味のない話だ。この先、復興された村そのものが人質になってしまうだろう。

 王国からそのようなことを気にせず自由になる方法があるだろうか?

 それはひとつだけある。自分自身がもっと強くなることだ。例えば赤帝龍のように。怒らせば国土のすべてを蹂躙され、国を滅ぼされてしまう、と恐怖されるような力を持つ存在になるしかない。

 風の魔法具、神の魔法具にはその力がある筈だ。

「かわりにおまえのことを聞かれてな。魔道師殿にいろいろと話してしまった。彼女から聞く話は、大きな力を持つここフロンテーラの商人ギルドで得られる情報より詳しく早い。俺はその魅力に抗しきれなかった」

 セヴィルはイシュルの内心などわかる筈もなく、話を続ける。

 そういうことか。

 おそらくマーヤは、より詳細な俺の情報を引き出すために、交換条件でエリスタールの情勢を伝えるだけでなく、俺が風の魔法具の所有者であることも話し、つまりそれを呼び水として使ったのだ。

 イシュルは上げていた顎を少し引いた。その顔が思案顔になる。

 セヴィルとイマル、ふたりの持つイシュルに関する知識は王国の為政者が最も知りたいと思う事柄のひとつだと言えないこともない。そこにはもちろん魔法に関する情報は皆無だが、イシュルの生い立ち、家族や本人の性格、人柄などに関する生々しい情報が蓄積されている。

 ただ、マーヤの収集したイシュルに関する情報が、どこまで王家や宮廷に届いているかはわからない。彼女が単独で収集した情報なら、どこまで中央に知らせるかは彼女の裁量次第だ。知らせたくない情報は握りつぶしてしまえば良い。ペトラが、父の大公が間に入ってそれをやっている可能性はある。マーヤはペトラと特別な関係にあるのだ。

 収集した情報のすべてを教えない、重要なものは手元において隠しておく。これは時と場合によっては大きな手札になりうる。

 中途半端な情報しか得られず、イシュルに対して誤った判断を下したヴェリスがいい例だ。何を知らせ、何を知らせないか、その選択によって大公側は他の王家の者たちに対していざという時、より優位な立場を得られるかもしれない。

 イシュルは、イヴェダの剣を持つ者は、そいう存在なのだ。

 イシュルは内心、盛大なため息を吐きたい気持ちになった。自分自身にとってはなんともきな臭さい話だ。

「おまえの生まれや気質、商人としての将来の可能性、おまえに関する情報がエリスタールの事件後、とても大きい価値を持つことになった。事件を知ったのちも、あの女魔道師に聞かれるままにおまえのことを話してしまった。俺のやったことは身内のおまえを半ば売ったようなものだ。許してほしい」

 セヴィルはイシュルに侘びを入れながらも、その表情に反省の色はなく、むしろイシュルに厳しい視線を向けてくる。

「……わかるかな? イシュル」

 そこでセヴィルは表情を緩めた。

「俺は商人として、一日でも早くエリスタールに戻り、商会を再開したかった。彼女のもたらす王国の力を背景にした、エリスタールに関する早く正確な情報にはそれだけの魅力があった」

 セヴィルは話を続ける。

「人は己の目標のために、利益のために、時に望まぬこと、他人を踏みつけるようなことをしてしまうときがある。俺はそのすべて否定しようとは思わない。ひとは神々のように完全な存在ではない。そしてひとの意志や思いは誰か、何かを犠牲にしてでも成されないといけないときがある」

 セヴィルはそこで一端言葉を切った。

 そしてまた視線を強めて言った。

「イシュル、おまえは賢い子だ。おまえが風の魔法具の所持を秘密にしたのはまったく、何も間違っていない。その時のおまえの年齢を考えれば、素晴らしい、これ以上ない懸命な判断だった」 

 でも自分には前世の記憶、経験があった。もっと、よりよい判断ができた筈なのだ。

「それは間違いなくおまえ自身にとっても村全体にとっても、最良の判断だったと思う。もしおまえが名乗り出ていたら、ファーロさまはそれこそ、森の中に小屋でもつくっておまえを閉じ込めてしまったかもしれん。ベルシュ家の再興をねらっておまえを利用したろう、とは考えにくいが、もしそうなっていたらおまえは王都に行き、両親とも離ればなれになっていたろう。宮廷魔導師の弟子になって監視をつけられ、できるかどうかは知らんがおまえの持つ風の魔法具を奪われたり、宮廷の政争に巻き込まれたりして殺されていたかもしれん。おまえには後押ししてくれる、血縁のある有力者などいないからな。何かあれば子どもだろうとすぐに殺されてしまったろう。そうなればベルシュ家はどうしたろうか。王家や宮廷とベルシュ村の間に何らかの波風が立つのはさけられなかったろう。おまえの判断は、おまえ自身と家族や村に無用な波風を立てないで済ます至極真っ当なものだった。あの時点で、将来村がああなってしまうなどといったい誰が予測できる? おまえは自分自身を責めてはだめだ。おまえの判断は的確だった。おまえに責任なんかないんだよ」

 セヴィルは一気に話すとひと息おいて言った。

「実はそんなこととは関係なく、おまえにも自分自身のためだけに魔法具を秘匿した理由があったのかもしれない。だが商売を少しでも早く再開しようと、おまえを取引材料に使ってしまった俺におまえを責めることはできないな。みな誰しも、多かれ少なかれ似たようなことをやっているじゃないか。さっきも言ったとおり、ひとは何事も、身の回りの者に一切の迷惑をかけず、損害を与えず、しかもそれを先々のことまで予測してやっていく、ことなどできる存在ではない」

 あの時、まさしく俺は自分のことしか考えていなかった。自分を守ることしか考えていなかった。それが結果として、とりあえずは家族や村のためにまずいことにはならなかった、というだけだ。俺は生まれたままの八歳の子どもではなかった、良い歳した大人なら、自分の家族や故郷に対しても何らかの配慮ができて当たり前ではなかったか。ただ秘密を守れば自分を守り、家族に迷惑や心配をかけずに済む、それくらいしか考えていなかったのではないか。

 だから今、俺は後悔に苛まれている。


 セヴィルはセヴィルで必死だった。あまり説得力があるとは思えない、彼がエリスタールの情勢を知る見返りとして、イシュル個人の情報をマーヤに話したことをネタにしてまで、イシュルに責任がないことを訴えようとしている。

「赤帝龍がクシム銀山に現れた後にしたって話は同じだ。あの時点でベルシュ村がああなるなんて誰にも予想はできなかった。あるかどうかもわからない、手に入れたとしてもかならず赤帝龍に勝てるかわからない、風の魔法具の捜索と入手に強硬な手段をとった、ブリガール男爵とおそらく辺境伯に、すべての責任があると考えるべきだ。赤帝龍がクシム銀山を襲えば、彼らが風の魔法具を求めて強硬な捜索をはじめるだろうなんて、誰にも予測なんかできない」

 セヴィルの双眸はイシュルを捉えたまま動かない。

「おまえも、俺たちでも、これは誰にだってどうにもならないことなんだよ」

 イシュルは泣きそうになった。

 なによりセヴィルのその気持ちが、温情が身に染みた。

「……ありがとうございます、セヴィルさん」

 イシュルは俯いて、小さな声で言った。

「……」

 セヴィルからの反応が返ってこない。不審に思って顔を上げると、セヴィルとイマルが顔を見合わせて笑っている。

「?」

「もうこの話はこれでおわりにしよう」

 ふたりは見合わせていた笑顔をイシュルにも向けてきた。

「実はね。いい知らせがあるんだ」

 イマルが満面の笑みで突然言ってきた。

 彼は懐から小さな巻紙を取り出しイシュルに見せてきた。

「数日前に、ぼく宛に本店の方に手紙が届いてね」

 イシュルはそれを手に取り、広げて中身に目を通すと、驚愕にからだを震わせ、目を大きく見開いてセヴィルらと目を合わせた。

 イシュルの大きく見開かれた瞳が涙で覆われる。

 何かが壊れた。決壊した堤防から水が溢れ出すように、今までイシュルの中で留められてきたものがいっきに溢れ出てきて、押しとどめることができない。

 セヴィルとイマルが席を立って、広げた巻紙を両側から握りしめ、ぶるぶる震えて嗚咽するイシュルをいたわるように抱きしめた。

 どこかで隠れて見ていたのか、夕食の準備をしていたフルネが部屋の中に入ってきて、抱き合う三人に加わった。


 巻紙は生死不明、おそらく死んでいると思われたポーロからの手紙で、村の生き残りが数十名、ベルシュ村で領主から隠して耕していた畑、いわゆる隠畠(かくしたばた)に集まり潜み、生活しているという知らせ、生存報告だった。

 あまり達筆とは言えない字で綴られた文面には、家族すべてが生き残ったのは隠畠周辺に秘密裏に定住していた二家族だけ、後はたまたま狩や用事で隣村などに出かけ、村から離れていた者、村の外縁部で遊んでいて機敏な判断と行動ができた、年嵩の少年らが混じっていた子供たちの集団だけだった、とある。村人たちの多くは隠畠の存在を知らない。ベルシュ村を捜索していた男爵騎士団の目を盗み、地の利をいかして、当日狩に出ていたポーロと数人の男たちで彼らを救出して隠畠に連れていったとある。

「隠畠みたいなもんは、ベルシュ村のような辺境の地にある村ではよくやっていることだ。領主に知られれば関係者は家族、一族まるごと死罪か、それこそクシムに送られるようなことになるが、領主によっては知っていてもわざと見逃す場合もある。隠畠で収穫されるものは個人でやっていればその家の現金収入になるし、村で組織的にやっていれば飢饉などに備えて備蓄されたりする」

 イシュルが泣きやみ、落ち着いてくるとセヴィルが説明した。

 ベルシュ村の隠畠の存在はイシュルも知らなかったが、農民が領主に隠れて畑を持つ話は、前世からの知識として持っている。日本でもかつて隠田というものがあった。おそらくベルシュ家が主導して飢饉や、戦役など村で大きな出費となる場合に備えて昔から耕していたものだろう。

 イマルがやたらとにこにこしていたのはこのことだったのだ。イシュルとの話が終わるまで、セヴィルに知らせるのを止められていたのだろう。

「場所は書いてないけど、おそらく村から半日か丸一日ほど、北東の方へ森を越えて行った辺りじゃないかな。あそこら辺は森が途切れて草地が広がっているところが何ヶ所かあるんだ」

 イマルがそこでにこにこ顔を引っ込め、続けて言った。

「イシュルのお父さんが生きていたら、かならず手紙に書かれていたと思うんだけど……」

「いいんですよ。村の子どもがけっこう混じってそうだから、ポーロさん以外にもきっと知ってるやつがいる筈だ」

 父はもう生きていないだろう。でも、ほんとうに良かった。

 いつか、かならず村に帰ろう。

 あの麦畑を吹く風、高く広い青空。いつかまた、あの慣れ親しんだ小道に立ちたい。

 イシュルは今日の昼に、大公家の者と非公式に会見し、ベルシュ村の復興を王家に働きかけてくれるようお願いしたことをセヴィルらに話した。

 かわりにクシムに向かい、赤帝龍討伐に参加することと、商会を辞めさせてもらうことも。




 イシュルは家の前の階段を降りながら、夜空に浮かぶ椎の木の大きなシルエットに目をやった。

 イシュルはこれから、赤帝龍討伐のためフロンテーラに派遣されてきた宮廷魔導師らとの顔合わせのため、大公城に向かう。

 セヴィルらと夕食をともにし、フロンテーラ滞在中は宿泊させてもらうことになった。

 王家か大公家か、何かしらの監視はつけられているだろうが、今のところはたいして気にする必要はないだろう。

 商会を辞めることに関してはセヴィルからも強い慰留はなかった。彼らにも、イシュルのこれから歩む道が常人のものではないことくらいは容易に想像がつく。

 セヴィルはただ「気をつけろよ、からだを大切にな」としか言わなかった。それくらいしかイシュルにかける言葉がみつからなかったのだろう。

 イシュルはフルネにこれから大公城に行き、帰りは夜遅くなることを告げ、家の鍵を貸してもらい、ベーネルス川の対岸、街の南西にある大公城に向かった。 

「気をつけてね。用心なさい」

 出かけしに、フルネは少し顔を曇らせて言ってきた。

 確かに夜に城に向かうなど、あまりいい感じはしない。

 今回は招待されている、という形ではあるのだろう。だから違うかもしれない。

 だが、夜に城から呼び出しを喰らう、城に行かなければならない、そんな時は大抵は変事だと相場が決まっている。


 イシュルは約束の時間よりやや遅れて、指定された大公城の城門に着いた。

 明日の昼にマーヤと待ち合わせている、西の橋の城門の広場、その門のもうひとつ南側にある、通常西門、と呼ばれている門だ。

 ここも門前は広場になっているが人影はほとんどなく、夜はひとがいないのか、広場に面した建物にも灯りのついているものはない。

 両側に広い櫓を備えた大きな城門は、門扉の片側が少しだけ開いていた。イシュルはその隙間に顔をいれて、おとないを入れた。

「今晩は。どなたかおられるか」

 心無しか自分の声がずいぶんと小さく、心細く感じられる。

 城門の両側の櫓にはひとの気配があるような気がする。寝ているのか動きがほとんどなく、感じが少しあやふやだ。

「ああ? 何だ?」

 しばらくすると、右側の櫓、塔の上の方から、野卑た荒々しい声が聞こえてきた。

 ドタバタと、上の方でひとの動く気配。

 やがて暗がりに衛兵がふたり、姿を現した。

「何だ? 何か用か?」

 手前の男がカンテラを上げて、門の内側からイシュルの顔を無遠慮に照らし出し、じろじろ見ながら声をかけてくる。

 イシュルはマーヤ・エーレンの名を出して、城に呼びだされていることを告げた。

「はぁ? 宮廷魔導師さまぁ? そんなバカな話あるもんかい。俺は聞いてないぞ。おい」

 男は後ろにいる衛兵に声をかけ、「おまえ、知ってるか?」などと聞いている。対する後ろの男は声が小さく、ボソボソとしゃべっていて何を言っているのか聞き取りずらい。

「ひっ」

 そのふたりの衛兵が突然、小さく悲鳴をあげると姿勢をただし、横にきれいに並んで立った。

 ふたりの男の視線の先に、黒いマントを着、前もしっかり閉じて頭以外、身をすべて隠した若い男が立っていた。

 いきなりだった。イシュルにもその男の近づく気配がわからなかった。

 またか……。

 イシュルは心の中でぼやいた。

 この青年もツアフのように、姿を消すか、気配を消すような魔法具を持っているわけだ。

「今晩は」

 新たに現れた若い男が、随分と品の良い、柔らかい感じで声をかけてきた。

 歳はおそらく二十代前半、夜目にもわかる金髪に白い肌、ちょっと澄ましたキザな感じ。いかにも王都の貴族、といった感じがする。

 この男の年格好からすると、ラジドでマーヤが王国軍とともに火龍退治をしていた時、彼女の傍らに魔力切れか何かで倒れていた男、あの男と同一人物かもしれない。

「きみが……そう?」

 はぁ?

 何を言ってる。

 男はイシュルの名前は出さずに誰何してきた。目の前の衛兵らにイシュルの名を聞かれたくないのだろう。

「多分…」

 イシュルが半ば投げやりに返すと、男は微かに笑みを浮かべ、一瞬イシュルの顔を値踏みするような目つきで見た。そしてひとつ頷くと言った。

「そう。じゃあぼくの後、ついてきて」

 男はイシュルの返事を待たずに踵を返すと勝手に先に歩きはじめた。

「……」

 イシュルは無言で衛兵らにかるく会釈すると、開いている門扉の隙間に素早く身をすべらせ中に入り、男の後ろをついていった。

 黒いマントを羽織った宮廷魔導師の男は、衛兵らに声をかけるどころか一瞥さえもくれなかった。

 

 西の門をくぐると、正面には石畳の道が一直線に奥の方まで伸び、その先にはさらに大きな城門が見えた。

 道の両側は姿の美しい木々で覆われている。暗がりなので大まかにしかわからないが、昼日中に見ればこの季節、さぞ美しい紅葉が拝めるかもしれない。

 男はだがその石畳の道は行かず、すぐ右に曲がって城壁沿いに南の方へ歩きはじめた。

 イシュルも黙ってその男の後ろをついていく。

 男はイシュルに何も語りかけず、無言でどんどん先を歩いていく。

 あまりいい感じがしない。前を行く男の態度もそうだが、向かっている方向には宮殿など城の中心を成す施設はない筈だ。どこかで城の中心部へ、左へ曲がるのだろうか。

 しばらく歩くと左手にも城壁が現れた。城壁と城壁に挟まれた道をただひたすら南下していく。

 この先は広場、確か練兵場や馬場があるのではないか。ますます嫌な予感がしてくる。

 すると、イシュルの訝しむ気配を感じとったのか、前を行く男が歩を緩め、イシュルの横に並んできた。

「自己紹介がまだだったね。ぼくの名はドレート・オーベン、エーレン殿の同僚だ。よろしく」

 男はにっこり微笑むと話をつづけた。

「きみの名はイシュル、だったね。イシュル・ベルシュ、いや、イシュル・イヴェルタス・ラ・クレス・ベルシュ、といったところか」

 イヴェルタスというのは王国などに仕える魔法職の位階の名称のようなものだ。風の神の名がもとになっている、最高位の名称だ。その名を王家から与えられたのは今までレーネしかいない筈だ。ラ・クレスは男爵位を表わす。ラ、というのは一代限りの名誉男爵位を表わしたものだ。これもレーネが名誉男爵位だった。

 大陸でのミドルネームは昔の日本などと似ていると言っていいだろうか。国や聖堂教会から任命された役職や爵位の名称などがそれに当たる。聖堂教には洗礼に類する儀式はないので、洗礼名などもない。文章中ではあまり使われない特殊な前置詞や、冠詞類は使われることがある。

 こいつ、何かの皮肉のつもりか。

 イシュルがかつてのレーネの名について考えていると、ドレートはいつのまにかイシュルの後ろに下がり、彼に声をかけてきた。

「さて、そろそろはじめようか」

 同時に地面が微かに振動しはじめる。するとイシュルのすぐ後ろで、地面が急に盛り上がりはじめた。

 イシュルは前に数歩走り、城の上空に風を集めはじめた。左手の指輪にそっと触れる。後ろを振り返ると盛り上がりはじめていた地面はすでにもう壁のような高さで、イシュルの前に立ちはだかっていた。

 土! 地の魔法か! しかも今のは無詠唱か?

 ドレートはその土壁の上から声をかけてきた。胸のあたりに魔力がほとばしっているのがわかる。

「アンティオス大公城へようこそ! イシュル君。今晩はきみのための晩餐だ。その凄い魔力の奔流が本物か、きみの力を試させてもらうよ」

 ドレートは言い終わると、ほぼ同じ高さになっている右側の城壁に飛び移って、矢狭間の影に消えた。

 そしてあろうことか、土壁が前に動きはじめる。イシュルは土壁に押されるようにして前に走りはじめた。

 からだに風の魔法のアシストをつけ、どんどん加速して、前へ押し出してくる土壁に飲まれてしまわないよう、ひたすら前へ走り続ける。

 罠か。マーヤが昼間に言っていた、他の宮廷魔導師との「顔合わせ」はこれか。

 この先には練兵場がある筈だ。そこが晩餐会の会場になるわけだ。

 俺は今そこへ誘導されているわけだ。

 イシュルは走りながらやや皮肉の混じった、獰猛な笑みを浮かべた。

 面白いじゃないか。

 はっきり言ってしまえば、このままジャンプして城壁を飛び越え、逃げてしまってもいいのだ。

 だが、ドレートの言う「力試し」には、ある悪意が込められていないだろうか。もし、宮廷魔導師らとの力試しに負けてしまえば、風の魔法具の継承者とはいえその程度の存在、そのまま殺してしまえばいいのだ。

 俺が王家によって受爵され、封じられた男爵家を城ごと滅ぼした大罪人であることに変わりはない。使えないやつなら罪人として殺してしまった方がいいのだ。

 なら、やってやろうじゃないか。

 やつらに恐怖を植えつけてやる。俺を試したことを後悔させてやる。

 ただ、彼らを殺してしまうのはまずかろう。後にしこりを残すのはまずい。

 村の復興の件だけでない。赤帝龍討伐に彼らと同行できれば、討伐前か後か、辺境伯に直にお目見えできる機会もあるだろう。

 力まかせに皆殺しにしてしまう方が楽なんだが、そこは仕方がない。恐怖を憶えるくらいにはいためつけてやる。

 イシュルが走り続けるとやがて、両側の壁が途絶え、目の前に大きく広がる練兵場が現れた。

 背後の土壁が止まる。

 練兵場は北、東、西の三方向を城壁に囲まれていた。イシュルの向こう側、彼に相対する形でひとりずつ間をとり、五人の魔法使いが並んで立っていた。向かって一番右側に、短い柄に大きな刃を持つ巨大な矛を地面に突き刺し、悠然と構える大男、次にマーヤ、その隣に剣士風の格好をした背の高い女、次はマーヤと同じ格好、同じような大きな杖を持った金髪の女魔導師。そしてどう近道したのか、一番左端にドレートが立っていた。今は左手に暗い色の水晶玉のようなものを持っているのが見える。

 そして彼らの背後の城壁の上に、昼間会った時と同じ白いドレス姿のペトラがいた。彼女は両手に金色に輝く錫杖のような棒を抱えている。彼女の両脇には後ろに赤いマントを垂らした、派手な甲冑を着た女騎士がひとりずつ控えていた。

 ペトラが錫杖を振り回しはじめ、何か叫んでいる。「勝負じゃあ」みたいなことを言っている。

 あいつ……。

 イシュルは一瞬しらけそうになったが、彼女の前に立つ五人の魔導師たちが呪文を唱えはじめ、彼らから魔力がほとばしりはじめた。さすがにゴルンのパーティにいた魔法使いとはレベルが違うようだ。

 そして辺りに漂う明確な殺気。彼らは本気だ。

 イシュルもいっきに上に下に、風を集めはじめる。

 練兵場全体に複雑な風の流れが生まれる。それはイシュルのまわりに集束しはじめ、大きく小さく、高く低く、さまなざな音をたてて吹き荒れた。

 と、突然すーっと、イシュルの足下の地面に大きな穴が空く。

 落とし穴!?

 イシュルは呆然とする間もなく、その穴の底へ吸い込まれていった。


 

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