楓の葉


 ラディスだと!?

 さすがにイシュルの顔にも驚きの表情が浮かんだ。

 場違い過ぎる彼女の衣装、それでなんとなく予想される彼女の身分。それはずばり予想以上の大当たりだったというわけだ。なるほど、さきほど感じた悪い予感もむべなるかな、悪寒に襲われるのもごもっとも、だ。

 彼女は王家の者なのだ。

 だがペトラ・ラディス、目の前に座る鼻息の荒い白いやつ、彼女の現在の立場はいささか複雑な状況にある。

 ペトラ・ラディスは、ここフロンテーラのアンティオス大公城の主、ヘンリク・アンティオス大公のひとり娘である。“ラディス”と名乗っているのにもかかわらず、彼女の身分は大公女、ということになる。

 本来、彼女はペトラ・アンティオスと名乗るべきなのに、なぜ王家の名を名乗ったのか。

 彼女の父である現大公は、もとは現国王の弟に当たるヘンリク・ラディスである。先代王の時代に第三王子から、嫡子がなかったアンティオス大公家に養子に出され、大公家を継いだ。だから彼女の家名も正式にはペトラ・アンティオスとなるのだが、父ヘンリクともに、未だに公式、非公式の場を問わず王家の名を名乗り続けている。

 宮廷や王国国内の貴族ら、周囲の者たちも同様に彼らを王家の名で呼ぶ。それはただ単純に以前からの尊称として、大公家に移った以降も習慣的にそう呼び習わしている、というわけではなく、現国王には娘がひとりだけで男子がいないから、つまりヘンリクが今でも有力な王位継承者のひとりであるからだ。

 ラディス王国では女性にも王権の継承は認められるが、それは王家に嫡男、男子がひとりもいない場合に限られる。ヘンリクにはひとつ上の兄、つまり現国王のひとつ下の弟と並んで、有力な王位継承者のひとりとして将来、次代の国王になる可能性があった。そのため、多分に政治的な理由で彼はラディスの名を名乗り続けているのだ。

 ヘンリクが高位の王位継承者であることの他に、ラディスの名を名乗り続けていることについてはもうひとつ大きな理由がある。

 フロンテーラとその周囲は王領である。大公領ではない。つまりアンティオス大公家は以前からいわば名目上の存在、名誉職のようなもので、フロンテーラとその周囲を大公自身が領地として持っているわけではないのだ。同地の行政権を仮に任されているだけの、はっきり言ってしまえばフロンテーラを治める王家の代官でしかないのである。現国王からしてみれば王家の有力な直轄地であるフロンテーラを、大公領として弟にくれてやるのはあまりに惜しい。というか、そうするわけにはいかない。だからかわりにヘンリクを有力な王位継承者として遇し宥め、ラディスの名を公然と名乗ることも黙認しているのである。

 よって今目の前にいる少女、場違いな白いドレスを着、頭に銀製のティアラをのっけてる鼻息の荒い女の子は将来、大公女ではなく王女、もしかすると女王になる可能性もあるということになる。

 彼女にこそ、それこそ最敬礼で礼節を尽くさなければならない筈のだが、イシュルはすっかりそれを失念し、なぜか、含みのある笑みで彼女を見つめた。

 いきなり王家の者が接触してきたわけか。

 だがしかし、なぜ彼女なのか、それがまったく過ぎるほどにわからない。何の意味があるというのか。

 ここに謀略はないのか。

 ここは謀議の場ではないのか。

 やはりここは見た目どおりのボコボココンビということで、適当に流してしまっていいのだろうか。

「堅苦しいあいさつは良いぞ。今日はお忍びだからの」

 彼女はまだ胸を張っている。

 それでなんでその格好なんだ?

 お忍びなのにそれ?

「今日は内々ではあるが、わが国にかの“王家の剣”の新しい継承者を迎えるめでたい日じゃ。そなたの無礼も許そうぞ」

 は? なんだと?

 イシュルは横目でマーヤを睨んだ。

「違うよ。そんなこと決まってないよ。前に話したでしょ」

「……ちっ」

 おい!

「おお、そうだったかの。そういえばあれの討伐を手助けしてもらう話じゃった」

 今舌打ちしなかったか?

 しかし、彼女のこのしゃべり口調といい、やんごとない身分なのに随分とお下品な舌打ちといい、なんだか凄くうさんくさい感じがするんだが。

 王家の連中はみなこんなやつばかりなのか?

 この子が単に残念すぎるだけなのか。

 そもそもこいつ、本物のペトラ・アンティオス、なのか?

 大公女さまだぞ?

 マーヤが彼女に対してため口っぽいのも気になる。

 まぁいい。こいつが偽者だろうとなんだろうと、こいつが王家の名を口にした以上は、こちらもどうしても言っておかなきゃならないことがある。

 イシュルは真面目な顔でふたりを見回した。

「悪いが俺は王国に仕える気はない。それだけははっきりさせておく」

 一瞬場が緊張する。

 いつのまにか背景に流れていた曲が消えていた。気のせいか周りの客のおしゃべりも一段、小さく少なくなったような気がする。

 ペトラは今までらしからぬ、鋭い視線を送ってきた。

 ああ、やっぱり本物?

「もちろん、どこの国にも、貴族にも仕える気はないがな」

 場の空気が少し緩んだ。

 たまたま演奏していた曲が終わっただけだったのか、庭園の奥にいる奏者が次の曲を奏ではじめる。

「……まぁ、よかろう。だがそなたも変わり者じゃな。栄爵を求めぬとは」

 前世の記憶がなければな。また違ったことを考えていたかもしれないが。

 もともとこの世界の権力や権威に興味はない。

 前世の日本人だった頃に培われてきたものを捨てる気はない。たいした人生ではなかったかもしれないが、それでも捨て去ることはできない。そんな人生にだって、大切なものが少しはあったのだと思いたい。

 栄爵? それだって特にありがたいものとは思えない。そんなものにいったい何の魅力があるんだ?

 確かに爵位をもらい高い身分に昇れば魔術書も入手しやすく、魔法の修行も容易にできるようになるかもしれないが、領地経営がどうだ、宮廷の勢力争いがどうだ、戦役に従事せよ、などとつまらぬ面倒ごとに煩わされるに決まっているではないか。貴族になれば今まで誰も見た事もないような魔獣を退治したり、ベルムラ大陸に行って大冒険だ! なんてことができるようになるのか?

 辺境の、田舎の村に生まれ育ったのだ。もとからそのような権能と義務を背負った家に生まれたわけではない。

 ペトラは視線を緩めるかわりに皮肉な、いや不敵な表情を見せてきた。

 何か企んでる顔つきだ。

「赤帝龍を倒せば妾が婿にとってやろうと考えておったのじゃが」

 彼女はまた無い胸を突き出して言ってきた。

「ぷっ、くっ」

 お茶を飲んでいたマーヤが吹きだしそうになっている。

「それはない。それはだめ」

 なぜかマーヤが即座に否定した。

 なるほど、赤帝龍を倒せば王国を救った、まさに救国の英雄となるわけだから、そういうこともありか。

 だがこいつ、そんな冗談を飛ばしながらも、実は俺をどうやって王国に取り込もうとか、そんなことを考えているんじゃないか?

 面白いやつだが、これでも大公家のお姫さま、王家の人間だからな。

 確か彼女に兄弟はいなかった筈だ。なら彼女は現時点では大公家の嫡女、ということになる。単純に蝶よ花よと育てられたわけではないだろう。

「そんな大層なご褒美はいい。だがあんたらにどうしてもお願いしたいことがある」

「そなたが臆することはないぞ。妾は気にせん。妾のお婿さんになるんじゃぞ? 悪い話ではあるまい」

 ペトラは相変わらずのポーズだ。

「フーッ」

 鼻息が荒いよ。あんた。

 思いっきり軽蔑の視線を向けてやる。

 マーヤからも同じ視線を向けられている。

「ごほんっ……それで、そなたのお願いとは何かの?」

「ブリガールのこと?」

 マーヤが早速男爵家に復讐した件について触れてきた。

「おお、あれか。ブリガールもエリスタールのお城も酷いことになったようじゃな」

 ペトラがニヤついてこちらを見てくる。

「これは久方ぶりの一大事、そなたの敵討ちの話が、エリスタールからそれこそ怒濤のごとく王国中を駆け巡り、広がっておるそうじゃ。噂を耳にした領民どもは痛快事に大喜びだそうな。いずれ王都でもさかんに劇作されて、そこかしこの劇場で演じられることになろう」

 ペトラがぎょろっと睨んできた。

「いゃあ、妾もそなたの人気に是非ともあやかりたいものじゃ」

 こいつ…! 王都に噂が広がるなんてまだ先の話だろうに。

 マーヤまでくすくす笑い出した。

 だが、これはどうしようもないことなのだ。王国でもどこでも庶民はこういう話が大好きだ。派手な敵討ちや決闘に魔獣退治、どこぞのお姫さまの悲恋や王子さまの冒険。今回も暴君に故郷を滅ぼされた、生き残りの少年の涙を誘う、あるいは痛快な復讐譚、というような脚色をされて、それはやがて王国どころか周辺諸国にまで広まっていくだろう。

「俺は別に男爵家の件で赦免など望んではいない。それでも赤帝龍討伐には協力する」

 ボコボココンビに弄り倒されるなんてまっぴら御免だ。

 こちらはあくまで真面目にやらせてもらう。

「ただし、そちらにどうしても飲んでもらいたい条件がひとつある」

「なんじゃあ、面白うない」

「なに?」

 ふたりの顔を見渡す。真剣に。

「王家の力でベルシュ村を復興していただきたい」

 それが俺の望みなのだ。

「村の生き残りがまだどこかに隠れているかもしれない。彼らに村へ帰ってこられるよう取りはからって欲しい。周辺の村々にはベルシュ村出身の者もいる。彼らから入植希望者を募って村に移住させて欲しいんだ。村の畑はまだそんなに荒れてはいない」

 イシュルはふたりに向かって頭を下げた。

「たのむ」




 イシュルは注文を取りにきた給仕の男に片手を振り、何もいらない、と断りをいれた。

 この店で何かを口にするのは危険かもしれない。用心にこしたことはない。

 彼女らと接触して一番警戒しなければならないのは、何らかの薬を使われることだ。森の魔女に呼ばれた時、レーネはお茶に眠り薬を入れてきた。

「何も飲まんのか」

「大丈夫だよ。心配しなくてもいいのに」

 マーヤはちゃんとわかって言ってきている。彼女の言う事を信用したいのはやまやまだが…。

「ふむ。話には聞いていたが、栄爵を求めずかわりに故郷の村の復興を望んでくるとはの。妾と歳もたいして変わらぬのにたいしたものじゃ。見上げた志よの」

 ペトラも両手で小さな陶器を持ち、くいっとお茶を飲むと、一応真面目な顔つきで言った。

 この大陸では質を問わなければ庶民でもお茶は飲める。味や香りは少し熟成の足りない紅茶といった感じだが、前の世界のテイーカップのような取っ手のない、日本の湯のみを少し小さくしたような器で飲む。今思えばレーネは小さなつまみのある、小洒落た感じの小さなカップでお茶を出してきた。

「……毒を盛られぬよう警戒を怠らないところもの」

 と、言葉を続けてペトラはニヤリと笑う。

 結局おまえは俺に皮肉がいいたいだけか。そんなに弄りたいか? 

 しかし、まさか、エリスタールでことを起こす前から目をつけられていたわけでもあるまいに、すでにしっかり俺のことを調べ上げているようだ。

 村で神童と呼ばれていたことや、子どもの頃にレーネの家に呼ばれたことも、ヴェルスの知っていた程度のことは、王家でもすでに知られていると考えておいた方がいいかもしれない。

「実はの、そなたに出す茶には眠り薬をいれるよう、手配しておったのじゃ」

 また眠り薬か!

 いや、まさか、こいつもレーネと同じことを……。

「どうして?」

 マーヤがペトラに平然と質問している。

 おい、やっぱりそういうのは王家や宮廷では日常茶飯事なのか?

「そりゃ、妾と一晩同衾してもらうためじゃ。こやつは翌朝、妾の臥し所で目醒めるのじゃ。こやつは起き上がって妾の麗しい寝顔を見、ひそかに決意するのじゃ。しまった! やってしまった! これは男として責任をとらねばならん! というわけじゃの」

 マーヤが口をあんぐり開けている。

「ペトラ、なんてふしだらな……」

 そして少し頬を染め、ぼそっと小さな声で言った。

「……」

 こいつはバカだ。

 だが待てよ。ペトラ、だと? 呼び捨てか? 

 俺のことはとりあえずおいて、さっきからマーヤがペトラにため口をきいていることといい、いくら彼女が宮廷魔導師とはいえ、この場がお忍びとはいえ、身分差は歴然とあり、それをうやむやにすることはできない筈なのだ。これはちょっとおかしい。何となく違和感がある。ふたりには何か特別の関係があるのだろうか。

「ところで、あんたらふたりはどういう関係なんだ? ずいぶんと親しい感じだが」

 ニヤニヤしているバカは無視してマーヤに質問する。

「ペトラとは乳姉妹なの」

「妾の乳母はマーヤの母じゃ」

「そうか。なるほど」

 ふたりは小さいころからいっしょに育てられてきたわけだ。前世でも日本を含め、かつて世界中で似たような慣習があった。ふたりは姉妹のような関係、あるいは強い力で結びついた特別な主従関係にある、ということなんだろう。

「ペトラもちょっと前まで王都にいたから」

 彼女が生まれたのは父であるヘンリクがまだ大公家を継いでいない、王都にいた頃なんだろう。

「納得したよ。お姫さまもマーヤのような親しい者がいてよかったな」

「うむ」

 ペトラは重々しく頷き、マーヤは少し控えめな感じでにこにこしている。

 まぁ、それはそれでいいとして、もうひとつ、マーヤと話しておきたいことがある。

「さて、それで、いつクシムに向かうんだ? 俺はどうすればいい」

 ベルシュ村復興の件もペトラから言質をとったし、いい加減ここはもう重要な話だけさせてもらって、一刻も早く席をはずさせてもらおう。

 ベルシュ村復興に関して、ぺトラは父である大公に話し、国王や宮廷の要路の者にも手紙を出してくれるという。

 王家が直接ベルシュ村の復興に力を注げば、国内ではいい宣伝になる。王国が損をする話ではないし、ベルシュ村の復興は間違いなく成されるだろう。

「今晩、お城に来れるかな?」

 マーヤが聞いてくる。

「どうして?」

 作戦会議みたいなもんでも開くのか? もし大公に謁見、なんて事だったら嫌なんだが。

 いきなり我に仕えよ、などと勧誘されても困る。そういう事は避けたい。

「フロンテーラに来ている他の魔導師を紹介するから。その時に少し打ち合わせもしたいの」

「ほう……」

 他の宮廷魔導師とも会えるのか。それは興味深い……。

「まさか大公さまに謁見、とかはないよな?」

「なんじゃ、いいではないかそれくらい」

 ペトラが口を尖らす。

「そんな簡単には大公さまには会えないよ。それは大丈夫」

 マーヤがペトラを制して言った。

 まぁ、そうなんだろうが。大公女はすぐに会えちゃったんだが。お忍びだったらありなのか?

「わかった」

 宮廷魔導師と、おそらく火や風以外の系統魔法を遣う者たちと、会うことができるのだ。

 イシュルはマーヤの誘いを承諾した。


「さて、では残念だがこれでお開きじゃの」

 今晩、城に出向く件に関してかるい打ち合わせが終わると、ペトラは椅子からひとりですくっと立ち上がって、宣言するように言った。

「今日は久しぶりに城の外に出られた上に、そなたのような者と会えてとてもうれしかったぞ」

 そうか。

 なんだかんだいっても大公女さまだものな。

 久しぶりに街に出て、噂のイヴェダの剣の継承者に会えるとなれば、あれだけ興奮するのもわからないではない。たとえ心の中であろうとバカ扱いし、邪険にしてきてきたことを少しは反省してもいいかもしれない、かな?

 などとイシュルが考えていると、周りから人々がごそごそ動く気配がする。目を向けると、テーブルに座っていた客のほとんどの者が起立し、ペトラに向けて、左手を胸に当てお辞儀をしていた。

 そしてはかったように木々の向こうの、道の方から複数の馬蹄の音。

 騎馬が二、馬車が一、こちらの方へ向かってくる。イシュルにはすぐにわかった。

 馬車を待ち、店の出入り口近くに移動してマーヤらと所在なげに立っていると、ペトラがつつ、とイシュルに近づいてきた。

 イシュルを見上げてくる顔は、さきほどと打って変わって少し不安げな、どこにでもいるような少女の顔のものだった。

「赤帝龍のことはよろしくたのむ」

 少女は静かに言った。

 さすがに王家の者、そこは真摯に今の王国を憂う気持ちがあるのだろう。

「ああ」

 イシュルが頷くとペトラが話を続ける。

「イシュルには妾からもうひとつお願いがあるんじゃ」

 ペトラはそこで一端言葉を切ると喉を鳴らし、さらに声をひそめて言った。

「この先、妾には茨の道が待っているかもしれん。その時にもしできるのなら、そなたの力を少しでもいいから貸してくれんじゃろうか」

 茨の道とは現国王が崩御した後のことを言っているのだろう。

 現国王のもうひとりの弟、ヘンリクの兄、第二王子が王国の西北方、連合王国との国境地帯にいる。

 彼にも子がいる。上が女に下が男。姉弟は歳が離れており、下の子はまだ幼い。国王の死後、王家が大きく揺れるのは間違いないだろう。

 はっきりいって王位の継承争いなんかに巻き込まれたくはない、だが。

「俺は前に言ったとおり、あんたにも仕えるつもりはない。ただ、もしその時力を貸せるようだったら、何とかしてやるよ。知人、いや、友人としてな」

 あまりに不遜な考えだし物言いであると思う。だが彼女をひとりの人間、女の子として捉えるのなら、力を貸すのも、権力争いに巻き込まれるのも否とはしない。

「おお、これからそなたとは友達、じゃな」

 彼女は微笑んだ。

 二頭立ての馬車が店の前に止まった。

 御者がひとり飛び降り素早く扉を開ける。

 馬車は思ったより小さく、繊細な造りの車輪に、車体の底から上へ伸びあがる曲線が美しい。

 車体の少し赤味を帯びた茶色が、紅葉の少し混じった緑の木々の射す色によく映えている。

 木々のしだれかかる先に小さな繊細なつくりの馬車。

 そこをペトラがひとり歩いて行く。

 エリスタールやオーフス辺りでは絶対に見ることのできない光景だった。

 マーヤは他に寄る所があるそうで、イシュルの横でいっしょに立って見送っている。

 かるく風が吹いた。

 紅く色づいた枯葉が舞う。

イシュルはかるく「手」を伸ばしその風をたぐり寄せると、ペトラの周りを弧を描くようにして風を吹かせた。

 紅い葉がやさしく渦を巻いて彼女の周りをくるくると舞う。

「ほえ……」

 ペトラは足を止め顔を上げて、自分の周りを舞う枯葉に目を向けた。

 イシュルは風を止める。

 紅く色づいた一枚の楓の葉がひらひらと彼女の目の前に落ちてきた。ペトラが手を差し出すとそれは彼女の掌の上にのった。

 ペトラが顔を向けてくるとイシュルは微笑んで言った。

「じゃあ、またな」

 宮殿を住処とし、宝飾品に囲まれて生きてきた彼女は、掌の上の一枚の楓の葉に何を感じるだろうか。

 手品に毛の生えた程度の、ささやかな小さな風の魔法。だがそれがひとの感じる自然の営みの先に続くものなら、きっとこの小さな奇跡も感じ受けとってくれるに違いない。

 ペトラは顔を楓の葉に負けないくらい真っ赤にすると、さきほどのように無理に強気な表情をつくってイシュルに答えた。

「ま、また今晩にの」

 はぁ? それは宮廷魔導師たちとの顔合わせに彼女も顔を出す、ということか。

 でもあの顔つきからすると、紅葉渦巻く小さな魔法、はうまくいったようだ。

 実はしばらく会う事もないだろうと思って、ちょっと小粋なことをやってみたつもり、だったんだが。今晩また顔を合わすのなら、わざわざやって見せる必要はなかった。

 彼女は横を向くとくすっと笑って馬車に乗り込んでいった。

「ねぇねぇ」

 イシュルがなんとも言えない表情で、高く軽快な馬蹄の音を響かせて動き始めた馬車を見ていると、マーヤが袖を引いてくる。

「ん?」

 イシュルが振り向くと、マーヤが物欲しそうな顔をしてイシュルに言ってきた。

「あれ」 

 袖がくいくいと引っぱられる。

「あの葉っぱがくるくるまわるきれいなやつ、わたしにもやって」 




「マー、じゃない。エーレン殿」

「マーヤ、でいいよ」

 あれからマーヤの周りにも葉っぱを舞わしてやった。何度もやってやった。終わった後に頭の上に一枚、同じ紅く色づいた楓の葉が乗っかっていたので、つまんで彼女に手渡してやった。

 おかげで彼女もご機嫌である。

 いつもあまり表情のない澄まし顔だが、機嫌が良さそうなのはわかる。

「でも悪いな。つき合わせちゃって」

「どうせお隣だし、イシュルのその格好だと、お店の中に入れてくれないかもしれないよ」

 彼女がフロンテーラ商会の本店にいっしょに行ってくれることになったのだ。それは彼女の方から申し出てくれた。

 確かに今の格好では、門前払いを喰らってしまう可能性もある。なんとか本店の中に入って、店の人にお願いしてセヴィルさんたちに会わなければならない。

 木々に囲まれた屋外の店から出て、生け垣をふたりで歩く。

 本店の門をくぐり、敷地に入ると、イシュルは両開きの扉のノッカーを鳴らした。

 最初に出て来たのは、こぎれいな格好をしたイシュルと同年輩の少年だった。彼はイシュルにほとんど注意を払わず、マーヤを見て一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐにとりつくろった澄ました表情をつくり、ふたりを慇懃に建物の中に招き入れた。 

 中は広くも狭くもない、二階まで吹き抜けのホール、奥には赤と白を基調としたクラシックな幾何学模様の豪華な絨毯が敷かれ、白っぽい木と座面がエンジ色のイスが四脚、同じ色調の背のやや低いテーブルがひとつ。壁際にも手の込んだ小振りな家具類が幾つも置かれていた。

 ホールの奥でこれ。ここで接客や打ち合わせなどは行わないだろう。なかなかにお高そうな感じである。

 少年はこちらに何も言わせず主人を呼んでまいります、と椅子を勧め、ホールの奥の扉を開け、その奥へ消えた。

 本店の主人とはフルネの兄、セヴィルの義兄に当たる人だ。名前は確かレルド、と言った筈。

 その男はすぐに奥の扉から姿を表わした。続いて盆にお茶のセットを捧げ持ったメイドが続く。

 主人が大分慌てたのか順序が逆になってしまっている。

「これはこれはエーレンさま。ようこそおいでくださいました」

 レルドは落ち着いた茶色の上着に黒に近い濃い色のズボン、白いシャツにエンジ色のスカーフ、という服装。やや後退した金髪に、大きな青い目、ボリュームのある口髭を蓄えていた。

 マーヤに向かって左手を胸に当て、屈んでみせる。

 しかし……、マーヤめ。どうやらこの店には前から来ていたみたいだな。

 彼女に横目で睨みつけると、つーんとそっぽを向かれた。

「今日はわたしじゃなくて、こちらの子。彼がイシュルよ。エリスタールから戻ってきたの」

 レルドの大きな目がさらに大きく見開かれた。


「では気をつけてな、イシュル。道に迷わぬように」

 別れ際、レルドはイシュルの肩に手を乗せ、まるで彼の父親のような感じで言ってきた。

 彼にもベルシュ村の悲劇は伝わっているのだろう。レルドの態度は心のこもったものだった。

 ふたりは店を出、フロンテーラの街を流れるベーネルス川へ向かう。

 レルドから聞いた話ではセヴィルらは今、ベーネルス川北岸の、商会がいくつか所有する家のひとつを仮住まいとしているらしい。セヴィルとイマルはその家から、商会本店や河岸にある倉庫兼店舗となっている支店に通って商会の手伝いをしているということだった。ふたりは今日は河岸の店舗の方に行っており、イシュルがその店に着く時間帯だと、もう家の方に帰っているだろう、とのことで、セヴィルらが仮住まいをしている家の方へ直接向かうことにした。

イシュルは向う方向が同じなのか、相変わらず彼といっしょに歩いているマーヤに話かけた。

「で、マーヤはこれからどこに行くんだ」

「魔法具屋」

 なんだと!

「魔法具屋? そんな店あるの?」

「うん」

「ちょっと待て」

「なに?」

「行きたい。俺も行きたい」

「でもイシュルは商会のひとに会いに行くんでしょ?」

 ああ、くそ! 魔法具屋に寄ってると間に合わないか……。時間が後ろへ押していって今晩、お城に行く時間に間に合わなくなる。セヴィルさんたちには今日会うべきだし、マーヤ以外の宮廷魔導師に会うことも非常に興味をそそられる、はずせない用事である。

 マーヤの顔を見るとにこにこしている。ニヤニヤでないところは非常によろしいのだが。

「じゃあ、明日、わたしが連れて行ってあげるよ」

「おお! 素晴らしい。マーヤはほんとやさしいなぁ」

 ここは露骨過ぎるほどに誉める。

「ふふ」

 マーヤもまんざらではなさそうだ。

 明日、何気に本屋があるかも聞いてみよう……。

「じゃあ、明日、お昼に西の橋の城門前の広場で待ち合わせ」

 西の橋の城門前の広場とは、今日、橋を渡ったところにあった城門の前にあった小さな広場のことだ。

「わかった。お昼に待ち合わせなら昼飯おごるぜ」

「うん、ふふ」

 これはデートみたいなもんだな。マーヤもうれしそうで良かった。

 イシュルは屋敷街を抜け、家々が密着して立ちはじめたあたりで、街を西の方へ行くマーヤと別れ、ベーネルス川北岸の、セヴィルらが仮住まいをしている家へ道をそのまま、川の方へ歩いて行った。

 

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