【幕間】 リフィア・ベーム登場



 辺境伯領の首府、アルヴァの市街地の北東部、東の山脈から西に長く伸びた山裾、その丘陵部に辺境伯の居城、アルヴァ城がある。近隣一帯の古名からとってベムストラ宮殿とも呼ばれる。

 アルヴァ城はその外郭部、丘陵部の裾に街の南を流れるベーネルス川から引き入れた水堀を備え、城の中央、内郭部との間にも幅広の水堀を有する。そしてその城の中央を二分する堀を跨ぐ形で、コの字型の回廊が城を巡り、その回廊に隣接するようにして領主の居館や城塔、謁見の間やその他大小のホール、賓客のための宿泊施設、庭園、役人どもの働く政庁、使用人の居館など無数の施設が存在した。

 その南側、城の正門に接続し、賓客を迎える時など何かの行事が執り行われる時以外、普段はまったく人気のない回廊を、ひとり、カツン、カツンと甲高い靴音を無遠慮に鳴らし、足速に歩く人物の姿があった。

 アルヴァ城の回廊はその美しい佇まいで広く知られている。美しい曲線を描くアーチ型の白亜の柱が回廊の両側に立ち並び、床には繊細で控えめな模様を描く白い大理石が敷き詰められていた。

 その人物はその白い道をひとり、歩いていく。

 そしてその人物は城の中央を分断する水堀を渡り、アルヴァ城の中心部へと進んで行く。

 その快活な、それでいてどこか冷たさを感じさせる足音は、いよいよこの城の支配者である辺境伯の許へ近づこうとしているのに、何の慎みもまた脅えもその欠片さえ見せず、ますます大きく高く響き、あたりの静寂を突き破っていった。

 やがてその人物は、回廊に面した謁見の間、時に夜会や祝事なども催される広いホールの前に姿を現した。

 謁見の間は同じアーチ型の柱が八本、さらに高く天井まで伸び、最上部まで吹き抜けの建物全体を支えている。

 回廊はここで直角に北に曲がる。その北に伸びる回廊の一番奥に、その人物の目指す辺境伯の執務室がある。

 その人物は回廊から、普段は城の者も無用な立ち入りを控える謁見の間に、何らためらうことなくそのまま足を踏み入れ堂々と斜めに横切っていき、再び回廊に復帰した。

 その人物は謁見の間を近道に使ったのだった。

 その人物は北に伸びる回廊も同じ調子で歩き続け、やがて北の最奥、回廊が今度は東に曲がる角のところまで来ると、その回廊の外側に面した大きな扉の前で立ち止まった。すると同時に、一瞬の遅れもなくその扉が観音開きに開けられ、室内から黒服に身を包んだ初老の男の姿が現れた。

 その部屋は落ち着いた黒茶色の木板の壁に四囲を覆われ、中にはいくつかの椅子や調度品、壁際には姿勢を正したメイドら数人の使用人が立っていた。

 この部屋はおそらく辺境伯の執務室に通ずる控えの間であろう。初老の男は、その部屋の入口に立つ人物に左手を胸に当てうやうやしくお辞儀をすると言った。

「父君がお待ちかねにございます」

 その人物は黙って頷くと、部屋の中に入っていった。




 黒檀でろうか、重厚な趣の机の上に雑多に置かれたいくつかの書類、それらに疲れた様子で目を向け、辺境伯、レーヴェルト・ベームは深いため息をついた。

 腰を少し座面の前にずらす。彼のため息に合わせるように、複雑な彫刻の飾りがついた背の高い椅子が、小さな音を立てて撓った。

 机の上の書類、その一番上にはつい先日、ブリガール男爵家から届けられた書簡があった。その横にはエクトル・ベルシュ、と乱れた筆跡の署名のある、ベルシュ家当主のレーネの魔法具に関する口述書があった。口述書はところどころ血で汚れ、ベルシュ家当主がどんな状態で口述したか、その有様を容易に思い浮かべることができた。

 レーヴェルトはその口述書から目をそらすと、ブリガール男爵家の書簡に目やった。からだを起こして机の上に右肘をつき、額をもむ。眉間に深い皺が刻まれ、その端正な顔が歪んだ。

 ブリガール男爵家の書簡には、風の魔法具を持つ疑いのある少年がエリスタールに潜伏しているという情報を得た、現在捜索中である、という通報とともに、エクトルの口述に追補する形で、レーネの焼死時に彼女から呼び出されていた少年が疑惑の少年と同一人物で、レーネが焼死する以前に本人から風の魔法具を譲渡されていた可能性が高いことが判明した、とあった。

 それはベルシュ村の事件後に保護された、疑惑の少年と友人関係にあったベルシュ村出身の少女が証言したものだという。

 レーヴェルトはその書簡を読んだとき、なんとも胡散臭く信憑性にかける、と判断したのだが、今日の朝になってエリスタールからその少年が男爵らを殺害し、エリスタール城を強力な魔法で破壊した、という驚くべき報がもたらされたのだった。

 レーヴェルトは視線をどこか遠くを見るように彷徨わせ、今度は両手を自身のからだの前で組んだ。

 かつて“王国の剣”とも呼ばれた、イヴェダの剣の継承者が実際に存在したのだ。

 今はまだその少年がどこにいるのかわからない。その少年がエリスタールを離れたのはほぼ確実だろうが、ベルシュ村に戻ったのか、あるいは王国の追及を逃れ国抜けしようとしているのか、なんとも予測がつかない。

 さきほど内外務を取り仕切る書記官らと第二騎師団長を呼び、その少年の足取りを掴むよう手配したが、その少年を発見捕縛し、もしくは雇い、引き入れて、クシムに居座る赤帝龍討伐に当てるこちらの狙いは、そう易々とは事が運ばないだろう。

 かの少年は王国の大罪人となった。だが王家もそんなことなどおかまいなしにその少年を手に入れようとするであろうし、聖王国からも横やりが入るかもしれない。

 問題はブリガールに出したベルシュ家に対する強制捜査の命令を、その少年に知られてしまった場合だ。もしそうなればこちらの思惑も工作もすべてが瓦解し、おそらく当家もブリガールと同じ運命を辿ることになるだろう。

 とにかく、その少年をいち早く見つけ出すことが肝要だ。彼がブリガールに出した命令を知ってしまったのなら、手を尽くして懐柔し、彼の報復を回避せねばならない。彼を懐柔し味方にするにはどんな方法があるだろうか。金か、名誉か、女か、それとも誠意か。場合によっては広く公の道、正義を説くのもよかろう。それはその少年がどんな人物かによる。

 まだ詳報は入ってきていないがブリガールの居城を破壊した、という点にひっかかりを覚える。ただおのれの魔法の力に溺れ、若さ故の無分別が引き起こしたものなら気にせずともよい。だが男爵家を家ごと、政治的に抹殺する止めとして行ったのか、他に何かの意図や思惑があるとするのなら、若年とはいえ一筋縄ではいかない人物と見なさざるを得くなる。そうであれば我が胸襟を開き、すべてをさらけ出して情理をもって全力で説き伏せることが必要になるだろう。金や名誉、うすっぺらな正義を説いてどうにかできるものではない。

 男爵家のことはもうどうしようもない。考慮する必要のない、終わった話なのだ。彼らは失敗した。王家はこの失態を許さないだろう。男爵家は間違いなく廃爵になり領地は召し上げになるだろう。平時であればこちらもただではすまないところだが、今はそれどころではない。現地の状況確認と当面の治安維持はオーヴェ伯爵に依頼することとなろう。当然王家からも大臣配下の者や騎士団が分派されるだろう。旧男爵領は当分王家の直轄地となるだろう。

 レーヴェルトは椅子から立ち上がり、机の上の書類を自ら重ね、端にどけた。

 その顔に微かに皮肉な笑みが浮かぶ。

 これからこの部屋に来る者に血染めの書類を見られるのはよろしくない。

 レーヴェルトは椅子に腰を降ろすと顎に手を当てた。

 彼が呼びつけた者。その人物のことを思えば、次に彼が考えることはおのずと決まってくる。

 赤帝龍とクシムの情勢である。

 クシムに送った第一陣、我が第一騎士団、騎馬二百歩兵三百、当家に仕える魔導師三名、攻城大弩弓五、領民から招集し編成した輜重隊他、は、結局後方の輜重隊を除きほぼ全滅した。

 他方、多額の資金をもちいて現地ギルドに工作し手配した傭兵部隊も、役に立たなかった。

 その傭兵部隊、魔導師と弓兵を主体に赤帝龍を牽制、隙を見て大弩弓を撃ち込み、とどめに山中にて下馬した騎士らを重装歩兵として突撃させる、という正攻法をもって攻撃を実施したが、結果、赤帝龍にまったく打撃を与えることができず、それどころか強力な反撃を受けて前線の部隊は壊滅してしまったのだった。

 しかし、このまま手を拱いているわけにはいかない。クシムの銀採掘を少しでも早く復活させなければ、いずれ遠からぬうちに我々は破滅に追い込まれる。

 イヴェダの剣を持つ少年をあてにするわけにはいかないのだ。

 先日、近日中に王家より宮廷魔導師が複数名派遣される旨、内示を受けた。次こそは乾坤一擲、彼らの力を借りて、我方も切り札を出さねばならない。

 扉を叩く音がする。

 来たか。

 レーヴェルトの思案はそこで途切れた。

 彼は姿勢を正すと、扉の外にいるであろう家令に声をかけ、訪問者を執務室に招き入れた。

 長い回廊をひとり闊歩してきた、その人物がレーヴェルトの前に立つ。

「父上。リフィア・ベーム、お呼びにより参上いたしました」

 レーヴェルトの前に美しい銀髪の少女がいた。

 



 レーヴェルトは笑顔をつくって自分の娘、リフィアを見た。

 彼女の出で立ちは黒革のブーツに白いタイツ、同じ色のチュニックを細い黒色のベルトで絞めただけという、いくら娘とはいえ、辺境伯本人の面前に出るにはいささか礼に失するものだった。

 しかし彼女にその事を臆する風は見えない。

「今日も練兵場に出ていたのかね」

 彼女は微笑んだ。長く美しい銀髪が微かに揺れる。

「はい、父上」

「そうだな」

 ふたりは多くを語らない。彼女が練兵に顔を出せば上は正騎士から下は新米の兵卒まで、皆奮い立って訓練に励む。

 レーヴェルトの「そうだな」の意味は、兵の士気と練度を上げることに心を砕く彼女の意図に賛意を表わしたものだった。

「それで今日は何をしたのかな」

 彼女の笑みが大きくなった。だがその青い眸には柔らかい笑みとはまるで異なる、鋭い光が現れてくる。

「弓兵二十名、槍兵二十名を相手に軽く」

「そうか」

 これもいつものことなのだ。彼女は弓兵に槍兵、合わせて四十名を同時に相手どり稽古したのだった。

 辺境伯息女リフィア・ベーム、彼女は王家の至宝といわれる幾つかの魔法具のひとつ、“武神の矢”と呼ばれる魔法具を有していた。戦の神、武神イルベズの名を冠する魔法具である。

 それはまさしく戦うための魔法、早く動き、力を増し、己のからだを硬くする、つまり腕力や脚力などを全身の筋力を強化することにより飛躍的に向上させ、同時に肉体そのもの、身につける防具をも硬化させ防御力を高める、無系統補助型の戦闘に特化した魔法を発動する魔法具だった。さらに動体視力の向上や視野の拡張、殺意などの気配を感知する能力も付加され、しかもどの能力も既存の同種の魔法具ではとても比較にならないほど強化されるという、まさに王家の“至宝”と呼ぶにふさわしい魔法具だった。王家の魔法具、“武神の矢”を知る者は彼女の持つ魔法具を、まさしく武神の戦う力そのものが地上にあらわれいでた、“奇跡の魔法具”と評した。

 リフィアがなぜ王家の至宝とも呼ばれる希少な魔法具を有することになったか、それは彼女の祖父、レーヴェルトの父、クラエスが王家の出、それも先代王アグエスの弟、王弟であったことに由来する。

 クラエスは若い頃より権力欲が旺盛で謀略を好み、アグエスから疎まれ、王都から離れた辺境伯家に養子に出され遠ざけられたが、彼は以前から王家の魔法具をひとつ相続していた。それが王家の至宝“武神の矢”だった。彼自身は剣武を好まず、その治世においても自領やその周辺で大きな異変や動乱は起こらず、彼の生前にその魔法具を有効に使う機会は訪れなかったが、“武神の矢”が彼自身を守る最高の魔法具であったことに変わりはない。そしてクラエスは己の死期が近づくと、自らの子らを差し置いて、幼少から多方面で優れた資質を示し溺愛していたレーヴェルトの長女、孫娘であるリフィアに自身の魔法具を授けた。

 以後、リフィアはその希少な魔法具の力を借り、おのれも精進して、齢十五にして兵四十名を相手に“軽い”稽古をするまでになったのだった。

「……それで今日そなたを召したのは」

 レーヴェルトは笑みを引っ込め表情を引き締めた。

「この前にも話したが、クシムへの出陣のことなのだ」

「はい」

 だが彼女は笑みを浮かべたまま、表情を変えない。眸に浮かべた鋭い光はむしろ弱まっていく。

「フロンテーラから内示があって、近日中に宮廷魔導師が派遣されて来ることになった。いよいよだ」

「ふふふ」

 彼女は声に出して笑った。

 武を好むとは思われない、白い華奢な手が薄く開いた唇に当てられる。

 いよいよ赤帝龍と相見える。彼女はそのことがうれしいのだ。父であるとはいえ、辺境伯家の当主を前に、思わず笑いを声に出してしまうほどに。

 その姿にレーヴェルトは困ったような笑みを浮かべた。

「派遣される魔導師は四名、内訳は……」

 レーヴェルトは表情を引き締め、魔導師の名と、彼らが使う公に知らされている魔法を説明していく。

「明日には第二騎士団長を呼び、正式に命を下す。その時はそなたにも同席してもらおう」

「はい、父上」

 彼女は満面の笑みを浮かべ、歌うようにはずんだ声音で答えた。

「その時に、部隊の編成や作戦を話し合うこととしよう」

 リフィアはその美しい切れ長の眸を細めた。

 レーヴェルトは彼女の微妙な表情の変化を読みとり声をかける。

 娘はただ武に優れるだけではないのだ。

「もう策が浮かんだのかな」

「はい、それはすでに我が腹中に」

 彼女の目が開かれた。青い眸の色が赤色に変わっていく。

 レーヴェルトは震撼した。

 彼女の魔法具が発動する時、その青い双眸は赤く変わるのだ。王家の魔法具、“武神の矢”はそれを持つ者の体内に宿る、と言われていた。

「父上」

 彼女は微かにその声音を強め、妖しく光る眸を再び細めて言った。

「かならずや赤帝龍討伐を成し遂げてみせましょう。わたくしめにお任せを」

 

 

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