月の女神



 イシュルは、まずフロンテーラ商会に向かうと、また二階から中に入り、自室で返り血に汚れた衣服を着替えると、脱いだ服をたたんで抱えながら外に出、汚れた服を裏手のゴミ類の溜められた樽に突っ込み、隠してあった旅装を背負い、父の形見の剣を腰に差し、マントを羽織った。

 去り際、イシュルは表通りから商会の建物に一瞬だけ、視線を向けた。

 月明かりの中、人気のない商会の建物は昨晩と変わらず、青く黒く、静かに佇んでいる。

 イシュルは無言で踵を返すと、歓楽街の情報屋、ツアフの店に向かって歩いて行った。

 もう夜も遅い時間だが、街全体がなんとなくざわめき落ち着きがない。大きな通りには未だに城の方へ向かう野次馬たちの姿があった。

 歓楽街も今日は人の姿が少なく、通りを歩く者はみな急ぎ足、店の前に立つ者は何人かで固まって、商売そっちのけでひそひそと話をしていた。

 イシュルはツアフの店のある裏道に入るとすぐ、身を建物の影にひそめ、辺りの様子をうかがった。

 そしてツアフの店の中に注意を向けると、ほぼ同時に店の扉が勢い良く開けられ、以外なことに小さな子どもが中から飛び出してきた。子どもは夜目にもそれとわかる粗末な服装で、開けた時と同じように扉を乱暴に閉め、子どもらしい素早い身のこなしで、裏道の端に身を寄せるイシュルにまったく気づかず彼の前を通り過ぎ、表通りを駆けていった。

 子ども? どうして。

 夜の歓楽街の裏道にある情報屋。大人の裏の世界に、なぜか子どもの姿があった。

 子どもの様子は貧民窟にたむろしている、置き引きやスリを生業としているような子らと雰囲気が似ている。

 少年探偵団だな。

 イシュルはちょっと考え、勝手にそう結論づけた。今日はお城で街を揺るがす大事件が起きたわけだ。こういう時に手っ取り早く状況を把握するのに、子どもを使うのは悪くない手だろう。

 ツアフめ。

 今晩は子どもの出入りが多いのなら、手早く済ます必要があるかもしれない。

 しかし、子どもを夜遅くまで働かせるのはどうなんだ? 子どもの違法就労なんて考え方がそもそもないから仕方がない、と言われればそれまでの話だが。

 イシュルはツアフの店の前まで行くと扉を開け、素早く身を中にすべり込ませた。

 いつも通り、ツアフは部屋の奥で黒いフードに身を隠し、身じろぎひとつせずまるで置物の人形ように座っていた。

「あら、いらっしゃい」

 これでツアフのところに顔を出すのは何度目か。もうすっかり顔なじみの扱いだ。

 いや、顔なじみなどとんでもない、こいつには俺自身の情報をいろいろと他に漏らされた。

「お城が凄いことになってるみたいね」

 ツアフはフードの下からいつもの歪んだ笑みを浮かべる。

 イシュルはツアフの台詞を黙殺し、挨拶も何もなしに無言で机の前にある椅子に座った。

「お城が派手に壊されて、ブリガール男爵も死んだんですって。前代未聞のことだわ」

「街の奥のこんな小部屋にこもってるくせに、よく知ってるじゃないか」

 ツアフの口がさらに歪む。

「まだそんなに詳しい事は知らないの。誰がやったのかしら? 坊やは詳しく知ってるの? だったら買うわよ」

「そうだな。多分この街で一番詳しく知っているのは俺だ。エリスタール城が今どうなってるか、なぜあんなことになったか、なんでも教えてやれる」

 ツアフの口の歪みが消える。彼はイシュルから少し身を引いた。

「どうする? 買うか? ステナ」

「なぜあたしの名を」

 揶揄、皮肉、媚へつらい。常にそんな言葉で飾られてきたツアフの口調が変わった。

「おまえのかわいい娘さんから聞いたんだよ。それよりどうする? この情報はかなり高いぞ」

 イシュルは目を細めた。

「お代はおまえの命だ」

 ツアフが奥の壁に飛びのいた。

「どういうこと!」

 イシュルも椅子から立ち上がり、剣を抜いた。

「おまえ、男爵家に俺のことをばらしたろう? 情報屋が顧客の情報を漏らすとはな。おまえみたいなやつが、そんなに死にたがりとは思ってなかったよ」

 ツアフは奥の壁にからだを密着させ、イシュルから少しでも身を離そうとする。

 このままだと剣の間合いぎりぎりだ。イシュルは机の上に飛び乗ろうかと考えたがやめた。そうすると今度は剣先が天井にひっかかるかもしれない。どのみちぎりぎりでも届けばいいのだ。

「おまえはここで死ぬんだ」

「ちょっと待って。そう、そうよ。お金でどうかしら? いや、違う! そう、ひ、秘密よ。とっておきの情報があるわ。それで手を打たない? ね?」

 とっておきの情報、のところで一瞬ひっかかりそうになる。

 危ない危ない。

 ツアフは必死だ。それはそうだが、その眸にわずかに愉悦が交じっているように見えるのはどうなんだ? 死ぬ瀬戸際なのにな。

 これは…さっさと終わらせてしまった方がいいだろう。

「だめだな。ひとの命は他のものであがなえるもんじゃないだろう?」

 ツアフの顔が凍りつく。

「俺はそう思うようにしている」

 イシュルの後ろの扉が突然、吹き飛ばされる。イシュルはツアフの前に風を集めた。

 剣を振りかぶる。

「ひい〜っ」

 ツアフのおぞましい悲鳴。

 イシュルは自身とツアフの間にふたつの圧縮した空気の壁をつくった。今回はかなり難しいことをしないといけない。

 イシュルは振りかぶった剣をツアフの頭に振り下ろした。同時に一枚目の空気の壁をツアフの前頭部にぶつける。剣先はできるだけ同じタイミングで、ツアフの頭のフードに触れるあたりで寸止め。

 ツアフの頭が壁に打ち付けられ、前に傾いたところでもう一枚の空気の壁を後頭部に滑らすように入れ、前後のふたつの空気の壁を前後に大きく素早く、振動させるような感じで揺らした。

「かは…っ」

 ツアフはおそらく脳震盪を起こし、気を失って倒れこむ。

 イシュルは机を飛び越えるとツアフの前に屈み込み、ツアフのローブを脱がし、かつらを剥ぎ取り、脱がしたローブで口にぬられた紅を拭って落とした。

 イシュルの額に汗がにじむ。今やってること自体が鬱陶しい上に、魔法で空気を振動させるように動かすことがとても難しかったからだ。

 空気の振動、というものが感覚的に掴みづらいせいなのか、この世界の風の魔法では精度的に適応させるのが難しいのか、空気を直接振動させようとすると根こそぎ魔法力、集中力や思考力を持っていかれるような感覚に襲われるのだ。

 魔法具で得た空気の動き、揺らぎに対する鋭い感知能力も、なぜか同じ空気の運動であるはずの振動、例えば音に関する感覚、聴覚に大きな変化を及ぼす事はなかった。

 この世界では空気は振動するもの、音が空気の振動である、というようなことは知られていない。それは魔法具を生み出す聖堂教会はもちろん、神々も知らないのかも知れない。

 イシュルはツアフの背を壁にもたれかけさせ、彼の鼻の近くに手をかざした。息はある。

 ツアフは黒いローブを脱がすと、丸首の生成りのシャツに焦げ茶のズボン、というラフな服装だった。指輪やピアスなど装身具も身につけていない。見たところ魔法具を持っている様子はない。

 ツアフは自分の身を隠し、気配も感じさせない魔法具を所持している筈なのだ。

 どこに魔法具を隠している? まさか俺と同じで肉体と一体化しているのか?

 イシュルは首をひねった。

 あれか。服の下に何かあるのか。

 ちょっとそれはいやなんだが。

 とりあえず二の腕あたりに腕輪みたいなのをしてる可能性もある。そこからはじめるか。

 イシュルはツアフの右腕から裾をめくり上げた。特になにもない。続いて左腕の方をめくり上げた。

「!!」

 イシュルは目を見張った。

「これは…」

 ツアフの左腕には手首の上あたりから肘にかけて、刺青が施されていた。

 思わず唾を飲み込む。これはただの刺青ではない。

 その刺青は魔法陣を楕円形に潰したような形をしていた。黒一色で彫られている。外側を太い罫線、すぐ内側を細い罫線で縁取られ、その内側は見慣れない文字や記号、複雑な模様で構成されている。

 イシュルはその刺青に手を当てた。魔法具、という物ではないからか、特に何かを感じることはないが……。いや、逆に、こちら側の放つ魔力を弾くような感じがしないでもない。

 確かモーラの話では、ツアフが聖堂教会の秘密組織を追放された時、ツアフの父はあえてツアフの所持していた魔法具を没収しなかった、みたいなことを言っていなかったか。

 単に自分の息子を不憫に思ったから、それだけじゃない。

 その理由がこれだったのではないか。

 刺青は彫られてからかなり時間が立っているのか、形が歪み、傷か何かで薄くなっているところもある。それでも効力を発揮するのだ。この刺青は魔法具としてかなりの強度をもっている、と言えるかもしれない。ちょっとくらいどこかを削ったり傷つけたりしたくらいではその能力は失われない、ということなのだろう。

 おそらく刺青の部分を傷つけたくらいでは、その傷が治癒するまで一時的に使えなくなるくらいで、それこそ時間と手間をかけて刺青を消していくか、皮を剥ぐか腕を切り落すとかしないと、この“魔法具”は無効化できないのだろう。

 聖堂教会か……。 

 魔法具を唯一生み出すことのできる聖堂教会。彼らにはこんな技術もあったのだ。

 彼らはどんな秘密を握っているのか。神々の、いや、この世界の何を知っているのか……。

 イシュルはまくっていた袖を伸ばしもとに戻すと立ち上がり、意識を失ったツアフを見下ろした。

 荒治療になるが、この腕を切り落としてしまおうか。

 そうすれば、彼を聖堂教会から、過去から、完全に切り離すことができるのではないか。

 イシュルにはステナは殺しても、ツアフを殺す気はなかった。イシュルにはもちろん精神医療の知識などない。だが、何かをしなければいずれステナによって、ツアフ自身の命が失われることになるだろう。

 残されたモーラが可哀想だ、というのはもちろんある。だがそれ以上に、ツアフが抱え込んだ苦しみを見過ごすことをしたくなかった。

 愛する人を自ら手をかけ失い、その苦しみを背負い続けていかなければならない、それが彼に狂気と破滅しかもたらさないというのなら、この先彼に何の救いがあるというのだ。

 それでステナという人格を、こちらの秘密を漏らしたことを理由に殺すことにしたのだ。

 だが、ただステナという人格を「殺す」だけで、ツアフは破滅から逃れることができるだろうか。

 すぐに、あるいはいつか、ステナの人格が復活してしまうのではないか。

 ツアフ本人が情報屋をやり始めてしまったら、結局意味がないのではないか。

 精神医学や心理学の専門知識がない以上、あとは自分の考えでやってみるしかない。


 はじめてツアフが女装した情報屋だと知ったとき、あの時はたまたま歓楽街に向かうツアフを見つけて尾行したが、その時のツアフはいったいどちらの人格だったのか。夜遅くだろうが店じまいする時はどちらの人格なのか、どこでツアフの人格に戻るのだろうか。

 ひとつの可能性として考えられること。それはツアフがステナの人格に入れ替わるのは、この情報屋の店、この部屋に入った時、ここで情報屋の商売をしている間だけではないか、ということだ。

 ツアフを尾行した時、彼は変装などしていなかった。もし店に向かう前にステナの人格に入れ替わっていれば、彼はその時点でかつらをかぶり、口に紅をさし、ローブを着込んで出かけたろう。

 そして、ツアフはあの時店に近づくと魔法具を使い、おのれの姿を消した。さっきステナを殺そうとした時、彼女は魔法具を使わなかった。つまり彼女は自分があの刺青、魔法具を持っていると自覚していなかった、あの魔法具に関する知識を持っていなかった、ということだ。

 ステナが店を閉めた後、どの時点でツアフと人格が変わるのか、そちらの方は確認していないが、そこから導き出される推測、それがツアフがステナでいる時間帯は歓楽街の情報屋をやっている間に限られるのではないか、ということだ。

 そして、ツアフとステナは、お互いの記憶を共有していない。ステナは俺のこと、フロンテーラ商会に勤める見習い商人で、傭兵ギルドに登録していること、俺の名前、ベルシュ村からでてきたイシュルという名の少年であること、は知らなかった。

 テオドールで以前に、ツアフがステナの人格になって情報屋をやっていた時、モーラの話からもふたりの間に記憶の断絶があったとうかがえる内容があった。

 ツアフは情報屋をやっている店に行き、そこで商売している間、自分の記憶がなくなることを不安に思ったりしなかったのだろうか。彼はそれをどう思っていたのだろうか。

 イシュルはツアフの肩をつかみ、何度も揺すって彼を起こした。

「おい、起きろ! 起きろ!」

「う……」

 ツアフが目を醒す。目に力がない。まだ意識がはっきりしないようだ。

 彼はしばらくの間焦点の定まらない目でイシュルの顔を見つめ、呻くように声を出した。

「きみは……」

「ツアフさん。大丈夫ですか」

 イシュルはステナに接するときと同じ態度にならないよう、口調を改めた。その方がいいだろう。

「ああ、確かイシュル……。ん、ここは」

 ツアフは周りを見渡す。

 彼の表情に驚きと、そして困惑が浮かんだ。

「……」

 それが少しばつの悪そうな表情に変わる。

「きみは」

 彼はイシュルから目をそらし、俯いた。

「ここがどこだか知っているのか」

「ええ。ちょっと訳ありで、よく利用していたんですよ」

「それは……、ええと、セヴィルさんだったか、彼から頼まれて?」

 まぁ、そう考えるのが妥当なところだろう。

「なぜそんなこと聞くんです? ぼくがどんな情報を買っていたか、憶えてないんですか」

 そこでツアフは顔を上げ、はっ、とした顔をした。

 俺が情報屋をやっている中年の女性らしき人物と、傭兵ギルド長のツアフが同一人物だと知っている。そのことをツアフは理解したのだ。

 そしてもちろんそれだけじゃない。

「まさか知っていた…? きみはいったい」

 ツアフはこちらの余裕ある態度に、もうひとつの気にかかること、それを確信できたようだ。

 ツアフとステナ、ふたりの意識や記憶がつながっていないこと、つまり人格が違うことまで俺が知っている、ということを。

「ちよっとした偶然でね、モーラさんから彼女の身の上話を聞く機会があったんです」

 目線に力を込めてツアフを見つめる。

「もちろんあなたの身の上も。その時に」

 夜の川面の灯りに照らされた、平凡な女の顔が記憶に残っている。

 あの時の彼女の表情。彼女は誰に縋りつきたかったのか。

「彼女、とても心配してましたよ。あなたのことを。なぜ心配してたか、わかりますよね?」

 ツアフが苦しげな表情をした。そして目線をそらし、額を両手で覆って考え込む。

 彼はいわば確信犯なのだ。ツアフはこの店に来ると、人格がステナに変わることを知っていた。わかっていて、それを繰り返していたのだ。

 お互いに記憶、いや、感情がつながることはないのに、ステナはツアフの記憶や感情から生み出された、偽の人格なのに。

 それでも彼は、夜になるとこの店に通い続けたのだ。

「もう情報屋はやめるべきだ」

 イシュルは口調を改めた。

「このまま続けても、あんたはこの先奥さんと同じ運命を辿るだけだ。そんな実りのないことを繰り返して何になる? あんたが一番気に掛けなきゃいけないのは亡くなった奥さんのことじゃなくて、今生きてるあんたの娘さんのことなんじゃないか? 彼女まで、ステナのように不幸にするつもりか」

 ツアフは両手を降ろし、目を大きく見開いてイシュルを見つめてきた。

 その眸は大きな穴のようで、その底に何があるか窺い知れない。

 イシュルは足下に投げ捨てたかつらとローブを拾ってツアフに押し付けた。

 ツアフは差し出されたものを力なく掴んだ。

 この変装道具はツアフとステナ、どちらが用意したのだろうか。

「きみはいったい……」

 ツアフの眸にわずかだが力が込められる。

 もういいだろう。

 イシュルはツアフの質問を無視し、扉の吹き飛んだ出口に向かう。

 去り際、振り向いてツアフに言った。

「これから先は、あんた自身が決めることだ」

 これ以上のことはできない。

 他人ならなおさらだ。最後は自分自身で何とかしなきゃならない。

「頑張りなよ。さようなら」

 イシュルの姿は出口の向こうに消えた。




 街中からフロンテーラ街道に入りそのまま南下する。イシュルは街並を抜け、麦の収穫が済んだ、夜空に黒く沈んだ畑に挟まれた街道をひとり歩いて行く。

 念のため、できるだけ早く男爵領を抜けた方がいいだろう。

 これからフロンテーラに直行し、セヴィルとイマルに会って、ふたりにベルシュ村のことを話さなければならない。

 イシュルがフロンテーラに着く頃には、エリスタールでの出来事がもうフロンテーラにも伝わっていて、ふたりの耳にも入っているかもしれない。セヴィルとイマルは、イシュルがレーネの風の魔法具を隠し持っていたと知って、彼にどんな態度を取るだろうか。

 彼らが、なぜベルシュ村が襲われる前に男爵なり辺境伯なりに名乗りでなかったのか、なぜ今まで秘密にしていたのか、と、イシュルを詰るようなことを言ってくることも、あり得ないことではない。

 ベルシュ村で虐殺が行われることなど、誰も予見できなかったろう。イシュルのことをやみくもに非難するのは理にかなったことではない。だが、村の犠牲者の遺族にとってはそう簡単に納得できるものではないだろう。イシュル自身も同じ遺族なのだ。その心情は痛いほどわかる。

 彼が風の魔法具を所持することになったこと、それは森の魔女レーネがイシュルの存在に疑念を抱き、イシュルを自分の家に呼びつけたことがそもそもの原因である。レーネのより強い魔法の力を、新しい魔法具を得ようとする行動が、汚れのない純粋な探究心からくるものであったかどうかは疑わしい。彼女はまだ八歳の子どもであったイシュルをなんのためらいもなく殺そうとしたのである。

 彼女がイシュルを魔女の家と呼ばれた自宅に招かなければ、彼女はまだ生きていたかもしれない。

 もしも、という可能性の話をすれば、きりがない。

 もし赤帝龍がクシムを襲わなければ、もし辺境伯がベルシュ家に疑念を抱き、風の魔法具の探索を命じなかったら、もしベルシュ村の領主がブルガールでなかったなら。

 もし、イシュルが風の魔法具を持っていなかったら、もし彼がレーネと同じように、王都に行き、宮廷魔導師を目指していたなら。

 ベルシュ村の惨劇は当然、イシュルの責任だとは言えない。だが、彼にその責任がまったくない、とも言えない。少なく過失と呼べるようなものはあるかもしれない。

 イシュルはセヴィルとイマルに責められたなら、それは甘んじて受け入れるしかない、と思っていた。

 ベルシュ村の事件、家族の死、メリリャを助けられなかったこと。その責はまさしく自分にとっては自ら背負わなければならない十字架、そのものなのだ、イシュルはそう思っていた。

 イシュルは後ろを振り返った。

 夜明けが近づきつつあるのか、地平線の東、遥かな山並み向こうの空、その下の方は微かに明るくなってきている。それは地平線を北に走り、エリスタールの街並、その中心にそびえ立つ、無惨に変わり果てた城の姿を浮き立たせている。

 その十字架を自ら降ろすようなことはしない。だからあれをやった。

 この苦しみをいつまでも己が胸に刻みつけておく、その覚悟がある。だから男爵らに復讐した。辺境伯も見逃すつもりはない。

 イシュルはまた前を向き、歩きはじめる。

 だが、その十字架に押しつぶされないよう、せいぜい気をつけていかねばならない。押しつぶされてしまえば、ツアフのようになるだけだ。

 イシュルは夜闇の中、先の方、月の微かな光に照らされた青白い道を見つめた。遠くで夜鳥の鳴く声が、近くで虫の奏でる羽音が聞こえてくる。

 イシュルはふと思った。

 別に独りが寂しいわけじゃない。

 風の魔法具だってある。

 だがこの先、何かで挫けそうになった時、おのれ独りでは立ち行かなくなった時、俺がツアフを助けたように、俺に力を貸してくれるような存在が、いつか現れることがあるだろうか。

 イシュルは月の光に照らされた白い道の先を、ただぼんやりと見つめた。

 

 その時だった。

 突然キーンと耳鳴りがし、バチン、と何かが切り替わるような音がした。

 先に伸びる白い道、それだけを残してすべてが真っ黒な闇に覆われる。風がなくなった。感じることができない。空の位置に丸い月が輝いていた。

 見上げてみれば、月は狂ったように黄色く輝くただの円盤、視線を下に戻すと白い道の先に、メリリャがひとり立っていた。

 彼女は昔の、村にいた頃の服装をしていた。えんじ色のスカートに白いブラウス。懐かしい姿。

 これは幻か。夢の中か。

 俺はいつの間にか眠ってしまったのだろうか。

 狂った月の光はメリリャだけを照らしている。

 彼女は口を開いた。

「気をつけろ」

 その声はメリリャの声、だがしゃべっている者は違った。

 ふてぶてしい、強い視線。美しく、だが皮肉に歪んだ唇。

 彼女にこんな表情はできない。

 その者はメリリャの姿でイシュルに語りかけてきた。

「赤帝龍にはせいぜい気をつけることだ」

 何!?

 イシュルを一気に現実に引き戻すような、生臭い言葉。そして女の声。

 これは夢なんかじゃない。あのメリリャはいったい……。

「赤帝龍に気をつけろ」

 そして彼女は笑った。

 激しい哄笑。メリリャは嘲りと狂気を漲らせて笑い続けた。

 こいつ……。

 メリリャは笑いをやめ、睨めつけるようにイシュルを見た。

「この娘の姿をされるのがそんなに嫌か?」

「きさまっ、おまえ誰だ!」

 イシュルが叫ぶ。

「せいぜいもがき苦しむがいい……」

 女はイシュルの問いに答えず、最後に小さく、呟くように言うと姿を消した。

 彼女の頭上にあった、薄っぺらな黄色い月も消える。

 気づくと、イシュルは元いた場所に立っていた。

 近くに虫の羽音、風の流れ。

 戻って来た……。

 イシュルは背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

 あれはいったい。

 黄色い月。イシュルの悔恨を、傷を抉るようにメリリャの姿をして現れた者。

 なめやがって。

 拳を握り、ぎりぎりと歯噛みする。

 あれは俺に対する挑発か。

 あいつは赤帝龍に気をつけろ、といった。それが言葉通りならそのまま警告、ということになる。

 確かにこの後、あの宮廷魔導師に誘われる形で赤帝龍と対決することになるだろう、ということは考えていた。そうすればどこかで辺境伯と接触する機会もあるだろう、と。

 あれは警告か挑発か。

 狂った月。メリリャの哄笑。

 あれはまさしくレーリアだ。月の女神だ。

 冥府と運命を司る神。

 しかもエリスタールで事を終えて、これからフロンテーラに向かおうとする、このタイミングで。

 俺は、やつの掌で踊らされているのか。

 それはわからない。レーリアがはじめて俺に接触してきたのなら、主神であるヘレスもすでに接触してきている、と言えないこともない。

 あの貧民窟の神殿で会った美しい女神官、主神ヘレスとの接触が仮に友好的なものであったとするならば、序列では当然ヘレスの下にくるレーリアが、俺のことを好き勝手にできるものではない、だろう。おそらく。

 自分に都合の良過ぎる考えか?

 ただ、少なくとも彼らが俺を「見ている」。それだけは言えるだろう。

 でなければ、俺もツアフのように気が触れたか、だ。

 イシュルはただ茫然と、その場に立ち尽くした。



 

 エリスタールを発って三日目の朝、イシュルは無事男爵領を抜け、オーフスを、そしてフロンテーラまでをも見渡せる、あの丘陵の上に再び立った。

 あれからふた月ほども経ったろうか、季節はもう初冬、明るく晴れた空は澄み渡り、濛気もまったくなく地平線の遥か彼方まで、フロンテーラの先の方までもはっきりと身渡せる。あのときはイマルやゴルンらがいた。道の先には草笛を吹く子どもを乗せた荷車がいた。

 今は自分ひとりだ。

 この先、フロンテーラにはセヴィルやイマル、そしてあの宮廷魔導師の女の子がいる。そして視界の左の方、フロンテーラの東方、低い山々の連なるその向こう側に辺境伯領の首府アルヴァがある。レーヴェルト・ベームがそこにいる。そしてさらに視線を左にずらし、険しく深くなる山並みにはクシム、赤帝龍がその周辺にいる筈だ。

 あそこに行けば何がある?

 俺は赤帝龍と戦うことになるかもしれない。

 レーリアの言ったことは警告だろうか。それとも赤帝龍と戦わせたいがための挑発、何かの罠でもあるのだろうか?

 罠でもいい。この壮大な景色、神々の掌で踊らされているのだとしても、俺はただ己の道を信じて行くだけだ。

 イシュルは丘を下って、その先を歩いて行った。


 

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