森の魔女 2
門の鎖をはずし、奥へと行く。
「そろそろ刻限だ。急ごう」
ポーロがイシュルの頭越しにエルスに話しかけた。
両脇に広がる雑木林の下には、先日の初雪で積もった雪がまだ所々残っている。三人の吐く息が白い。
あの夏の暑い日、謎の門の前でポーロに咎められてから数ヶ月が経ち、初冬のこの日、イシュルは父のエルスと、村では数軒しかない木こり兼猟師のポーロに付き添われ、奇しくもその門の先に行くことになった。
村では「森の魔女」と言われている、その魔女の棲む家へ。
あの日、あの後イシュル達は、ポーロから半ば脅しつけられるようにして厳しく怒られ、森の入り口の門に近づくことを禁じられた。イザークは父のエクトルの名まで出されて怒られた。イザークは顎をおもいっきり引き、俯き加減になって泣きそうな顔をしていた。
帰り道、イシュルはルセルにその日あったことを、親や大人たちから聞かれない限り、こちらから話すことはするな、と言いきかせた。
村の大人たちは、何かを隠している。それが何なのかは皆目わからないが、あの門には重い嫌な雰囲気が漂っていた。そしてポーロの怒り様。こちらからは穿り返さない方がいいだろうとその時は思ったのだった。
時々もたげてくる好奇心を抑えながら、農事に家事に、そして剣術の稽古に精を出す日々が続いたある日、夕方に、ファーロがひとりでふらりとイシュルの家に訪れた。
ファーロはルーシや子供たちを遠ざけ、家の食卓の端にエルスと向かい合って座り、小声で長いこと話し込んでいた。
あくる日、イシュルはエルスから、思わぬ話を切り出された。
午後から森に住む、もう何百年も生きている老婆に会いにいく。いっしょについてこい、と。
「レーネという、村では昔から『森の魔女』と呼ばれている、魔法使いだ」
エルスの横で黙って立っていたルーシは不安そうな表情を隠そうともせず、両手を胸の前で組み、揉みしだいている。
魔女か。村に魔法使いがいたのだ。身近な存在ではない、滅多にお目にかかれない存在だと思っていたのに。子供たちには隠されていたのだ。
始めて読み書きを教わりに行った、あの日のファーロの怖い顔が目に浮かんだ。
「魔法使い? そんなのがいたんだ」
エルスは無言で頷く。
エルスには魔法使いの存在を今まで隠してきた、子供達に伏せてきたことに対しては何の屈託もないようだった。
「別にいいけど。でもどうして、急にそんな話になったの?」
「昨日ファーロ伯父さんから話があってな、レーネ婆さんが会いたいそうだ。おまえにな」
エルスは難しい顔をして腕を組んだ。
「おまえは村では神童だと、評判になっている。婆さんは、どこかでその噂を聞きつけたんだろう。今さら村のことに関心を持つようなひとじゃないんだがな」
「ファーロ伯父さんには黙っていたが、あそこの家の家人、女中が怪しい」
「それはなぜ?」
「レーネ婆さんのところには月に一、二度、麦や肉、酒などを持っていくのが昔からの習わしだ。だいたいはベルシュ家の者が持っていく」
貢物?
「森に住む魔女は、村の守り神だとか?」
少し茶化して言うと、エルスはにこりともせず首を横に振り、
「あの婆さんがいるから、森の奥深く、山の方に棲む魔物もこちらまで降りてこない、という者もいるが、どうかな。なぜだか知らんがやたらと長生きしてる、ただの婆さん、って感じだが」
父もそれほど詳しくは知らないようだった。
出かけしに、母が「気をつけてね」と言ってきた。母の後ろから、ルセルが不安そうな顔でこちらを見つめてくる。
父は微笑み、ふたりに安心させるように言った。
「大丈夫だよ。魔法使いといっても、だいぶ耄碌した婆さんだ。今までも村に悪さなどはしてこなかったんだし」
家を出ると森の脇の小道を北に向かった。やがていつかのダルレの家が見えてきた。
どうやらあそこに向かっているらしい。あの門の先、森の奥に魔女がいるのだ。
森へと続く道に曲がると、急に寒さが増したような気がした。緩やかに曲がる道を進むとあの日と寸分変わらない、頑丈な門が見えてきた。
そして門扉の横にはあの日と同じ、いかつい顔をしたポーロが腕を組み、佇んでいた。
門の奥の道も手前の道となんら変わらず、右に左に、緩やかに曲がりながらあてもなく続いていた。
「イシュル、心配することはないぞ。レーネさまを恐れることはない。森の奥で、珍しい薬草などを採って暮らしている、ただの気のいい婆さんだ」
ポーロも父と同じようなことを言ってきた。ただし「さま」と、尊称をつけて。
確かに村人に悪事を働くような存在ではないんだろう。
「でも、人里離れたところに住んでるよね」
ポーロは少し鼻白むような表情になって、
「魔法の修行の邪魔になるのだ。昔はとても偉い魔法使いだっらしいからな」と、取り繕うように言った。
「魔法使いなんてのは、ひとと交わるのを嫌うのが多いのさ」と、エルス。
ポーロはエルスよりひとまわり以上は歳がいっている。どちらも魔法使いを怖がることはない、と同じようなことをいっているが、エルスはまだ若いせいか、「森の魔女」に対して敬うような気持ちはあまり持っていないようだ。
怖がる必要がない、というのなら、あの頑丈な門構えはなんだ。母の示した不安そうな表情は、単に本人が心配症だから、ですましていいものなのか。
あの、いささか大げさな造りにも思える門については、なぜか聞くのがためらわれるような気がして、今は黙っていることにした。
しばらく三人で黙々と歩き続けると、少しだけ道が狭くなり、周囲の木々の高さが増してきた。もうしっかり森の奥に足を踏み入れていた。左右に広がる木々の枝葉が、自分に向けて覆いかぶさってくるような気がする。
何度目かの緩い、長く曲がるカーブを過ぎると、道が直線になり、その先の行き止まりに、周りを大きな木々に覆われた魔女の家があらわれた。
その家は、いかにも物語にでてくるような、素朴な田舎風のこじんまりとした家だった。白い洋漆喰の壁にふたつの窓、その間に木製の扉、屋根の上には石積みの煙突。煙突からは薄く煙が出ている。
森の奥にひとり棲む、物語にでてくる魔女の家とはこうです、という見本そのままだった。
「……」
家の手前でなんとなく足が止まってしまい、なんとも言えない感慨に呆然としていると、左からポーロが進みでて、扉の前までひとり歩いて行き、扉に着いている小さめのノッカーを掴み、扉を叩いた。
すぐに扉が開き、わずかに開いたすき間にポーロが首を突っ込むようにして、扉の向こう側の誰かと話している。約束の時間にすこし遅れたことを詫びているようだ。扉の向こう側に誰がいるのかは、姿がほとんど見えず、よくわからない。
ポーロがこちらに戻ってきて言った。
「俺たちはここら辺でまっているから、おまえひとりでレーネさまに会ってこい」
エルスが一瞬不審な顔をポーロに向けるが、ポーロはこちらを見たままひとつ頷き、
「心配することはない。顔が見れて、少し話ができればいいそうだ」
ちらっと父の顔を仰ぎ見て、ひとり扉の方へ歩き出す。
ノックもせず、薄く開いた扉を開け、足を踏み入れる。
中に入るといきなり居間のような部屋で、いろいろな物が目に飛び込んできた。奥に暖炉があり、火がくべられている。その手前に燭台や何かの銀器、書物が積み上げられた机、右側に書棚、暖炉の横の壁際には壺がいくつか並べられ、壁には複雑な模様が織られたタペストリーや、古そうな額縁で飾られた小さな絵画が幾つか、無造作に掛けてある。
左側すぐ手前には小さなテーブルと椅子が二脚、相当に古く、かなり傷んでいる。その奥の壁に少し大きめの絵が飾られている。若い女の肖像画だった。黒いローブを身につけて、右手にお馴染みの杖を持っている。うねるようなカーブの彫刻がされた木の杖だ。魔法使いの杖、というやつだ。この絵の女は若いころのレーネではないだろうか。だとすると、レーネは若い頃からかなり高位の、あるいは高収入の、実力のある魔法使いだったという推測が成り立つ。肖像画など、余程の金持ちか貴族にしか縁のない代物だ。そして絵に描かれた魔法の杖は、かなり高価な立派なものに思える。
暖炉から火のはぜる音が聞こえる。人の気配がしない。部屋の左側、奥の方はとなりの部屋へと繋がっている。当人は奥の部屋にいるのだろうか。机の上や書棚にある書物に目をやる。ここからでは背表紙に書かれた文字は小さく、掠れたりしてとても読み取れないが、その多くは魔道書ではないだろうか。
そちらに向かって歩き出そうとした時、奥の部屋の方から物音がした。カップを盆にのせて両手に捧げ持った、黒い服に包まれた老婆が現れた。
「よう来た。そんなところに立っていないで、早うお座り」
老婆は左手の椅子の方へ顎を振ってみせた。
魔法使いらしい黒い衣装、その裾は足元まである。背丈は自分より低い。本人は微笑んでいるつもりなのか、渇いた声音にはやさしさが感じられたが、顔は深い無数の皺に覆われ、どんな表情をしているのかよくわからない。足が悪いのかカタカタと体を少し上下に揺らしながらテーブルの前まで歩き、盆から茶の入ったカップを置いた。
窓を背にした椅子の方に座る。たいした体重でもないのに、ぎしっ、と椅子が軋んだ。
「名はなんと申したかの」
老婆は立ったまま聞いてきた。ほとんど歯が抜けているのか口をもごもごさせて話すが、なぜかはっきりと聞き取れる。
「イシュルです」
「誰の子じゃ」
「エルスの」
「ふむ。エルスとは確かファーロの息子だったか」
ファーロの息子ではないが。
「おまえはファーロの孫になるのか。いつのまにかあの坊主も年をとったものじゃ」
説明してもあまり理解してもらえそうもないのでそのまま聞き流す。
それよりも大伯父を子ども扱いするのなら、目の前の年寄りは最低でも百年くらいは生きている、ということになる。ほんとうに何百年も生きてきたのだろうか。
「さっ、遠慮せず飲みなされ」
老婆は立ったままだ。カップを手にとり口をつける。村で客に出したり祭事に飲むものとほぼ同じ茶の味だ。ただほんの少し違う茶葉か何かの香料が混じっているのか、村のものとは少し違う香りがする。
「おまえは五歳で書物を読みこなし、村の誰もできぬ算術ができるとか」
本題がきたか。この老婆がわざわざ自分を呼び出してまで聞きたかったことという。
「算術は誰に教わったのかえ?村に誰かえらい人でも来たのかえ」
「うう、うん。自分で。なんとなく」
生まれる前から知ってました、などと言えるわけもない。適当にごまかす。
「ほう…そうかえ」
こちらを見る老婆の顔にはなんの表情も浮かばない。
「掛け算や割り算もできるらしいの。しかも暗算で」
「大きな数字のときは誰も見たこともない方法で、紙に書いて計算して見せたとか」
よく知っている。やはりベルシュ家の家人に聞いたのか。村に行商が来た時、メリリャの祖母を助けてから、村に商人が来た時など、何度かベルシュ家に呼ばれて取引に立ち会ったりもしたが。
頷いてみせると、
「王都には、なんといったかの…関数、だったか、そんなものを研究している学者もいたが」
さぐりをいれてきているのか。
魔法使いというのはかなりの知識階級なのか、耄碌してる筈なのに、専門外だろうに、「関数」などという生まれ変わってから始めて聞く、懐かしい言葉を出してきた。平方根や三角関数くらいなら、王都の学者か知らないが、建築や天文に携わるような者なら誰でも知ってるんじゃないか。
「かんすう?なにそれ」
すっとぼける。
「本当は知っておるのではないか」
はじめて老婆がしっかりと視線を向けてきた。目の周りの皺がさらに深くなる。
「ほんとに知らないよ」
何か相手を納得させる切り返しを…あれ?
かくん、と首が下がる。何かおかしい。
急に、あがらえない力で意識が下へ、ひっぱり込まれるように感じた。
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