村の生活、村の老人 5
その日、イシュルはファーロの書斎で巻物や書物をあさっていた。
家の手伝いが少ない日には時々ベルシュ家を訪れ、ファーロの書斎で陽が暮れるまで読書をしたり、当たり障りのない事柄に限ってだが———彼を質問攻めにして過ごすことがあった。
子どもには難解な、ラディス東方の地誌を読破してから三年の月日が流れ、彼がファーロの書斎に来て読むものも、神官や学者によって書かれた書物から、騎士爵をもっていた頃のベルシュ家の古い私文書類、当時ベルシュ家の旗頭だった辺境伯家や、王都の役人との書簡、領地の支出入に関する覚書、当主の日記や日誌の一部、ベルシュ村の納税目録の控えなど、ベルシュ家代々の当主やその家人が書いた肉筆の書類や書簡、手記の類いに移っていた。
高名な神官や学者などによって書かれた、古風な修飾に満ちた難解で空疎な書物よりも、ベルシュ家の肉筆の私文書類の方がこの世界、この国の社会の慣習や人々の思考を直接垣間見ることができ、イルシュの関心をより強く引きつけた。
もともとファーロの蔵書はそれほど充実していたわけではなく、彼の読みたかったラディス王国以外の国々に関する書物や、魔法や魔物について記述された書物などは一冊もなく、早々に他に読む本がなくなった、ということもあった。
乱雑に積み重なった巻物の中から、これはと思うものを慎重に取り出そうとした時、
「違う!そこは線をつなげて書かなきゃならん」
突然、後ろでファーロの叱る声がした。
先ほどからイザークが机に座り、ファーロの前で文字を書く練習をしていた。
去年から彼も読み書きを習い始めたのだが、その進捗具合はあまり芳しいものではなく、近頃はファーロの教えもより厳しさを増している。
イザークは凡庸というほどではなかったが、成長期の子どもの記憶力に、前世の大人の知識と理解力を併せ持ち、自らの意志で積極的に学んできたイシュルとはさすがに比較にならず、もしファーロが彼にイシュルと同じような成果を求めているのなら、それは少し過酷な要求だといえた。
「もうちょっとやる気をだして覚えないといかんぞ。すこし勉強の時間を増やすか」
「ええっ」
イザークが机の前で縮こまっている。が、俯きながらも頬をふくらまし、口をちょっと尖らしたしかめっつらの顔は不満たらたら、どう見てもかしこまっている風には見えない。
机の上には少し日焼けしたような色のざらざらした紙が置かれ、たくさんの文字が書き込まれていた。
ベルシュ家の惣領なだけあって、たまにだが紙とインクを使って勉強もできるのだ。
紙を使って勉強できるのに。でも、ちょっと可哀想かな。
イシュルはしょぼくれているイザークに少し同情を覚え、ファーロに何か声をかけて取りなしてやろうかと口を開こうとした時、今度は外の方からよく響く、鐘のなる音が聞こえてきた。
「来た!」
イザークは飛び上がって叫ぶと、手に持っていた羽ペンを放り投げて部屋を飛び出していった。
今日か。
イシュルも手に取った巻物を元に戻し、イザークの後を追うことにした。
今日は一年に何度かある、エリスタールから行商人が村にやって来る日だった。
「まったく」
ファーロがため息をもらす。
放り出された羽ペンから飛んだインクが、紙の上に点々と染みをつくっていた。
村の広場に壷や木箱、麻袋などを積んだ荷馬車が止まっている。馬は荷車からはずされ、ベルシュ家の厩にでも連れていかれたのか広場にはいない。商人がひとり、積み荷の梱包を開いたりして忙しそうにしている。村人たちも少しずつ集まって来ていた。
先に来ていたイザークは肝心の荷馬車の方にはいかず、その周りに適当な間隔をあけて立っている三人の男たちの一番大きい男の傍に行き、何か話していた。
男たちは行商人を護衛してきた傭兵、というのは少し大げさか、用心棒と言った方が良いのかもしれない——だった。
イシュルも男と話しているイザークのところへ行ってみる。用心棒は皮製の胴鎧を着込み、同じく革製のすね当てや小手も着け、大きな両手剣を背負っていた。村の誰よりも大きなからだ、日に焼けた赤銅色の肌にひきしまった筋肉がなかなかの迫力だ。
他のふたりも同じような鎧を着、武器は背の高い方が槍、小柄な方は弓矢を背負っていた。目の前の大男ほどではないが、鍛えた体つきをしているようだ。
「おじさん、盗賊と戦ったことある? 街道には時々出るんだって父さんがいってた」
イザークが大男を見上げ、瞳を輝かせて話している。
「ああ、もちろんさ」
男が見かけに似合わぬ人懐っこい笑顔で答えている。
村に定期的に来る行商人には領主である男爵家の騎士団から、騎士見習いや従者たちの護衛がつくこともある。今回は騎士団が忙しいのか人手が足りず、商人の方で用心棒をやとったのだろう。
「おじさんは、エリスタールで用心棒の仕事してるの?」
イシュルはイザークの横に並ぶと、ふたりの会話に割り込んだ。
「おお、そうだとも」
男はイシュルに目をやると、イシュルのもっと詳しく話を聞きたい、という気持ちを察したのか話を続けた。
「若い頃はな、南の中海の方の大きな街で傭兵をやってたんだが、金もたまってきたし、歳もとってきたからな、もう少し楽な仕事をしようと思って生まれ故郷に帰って来たってわけさ」
「ふーん。中海の大きな街って、どこ?」
「ブラガってとこだ。あそこらへんの国はみな小さいが、金持ちだからな。傭兵をたくさん雇うのさ」
中海とはこの大陸の南にある海のことだ。
中海の沿岸には、対岸にあるベルムラと呼ばれる南の大陸との交易で、裕福な都市国家がいくつも栄え、ふだんはたがいに牽制し合いながらも、周辺の主に内陸にある大国から攻められれば協力して立ち向かい、独立を保っている。中海の都市国家群の傭兵は有名だった。
ブラガもその有力な都市国家群のひとつだ。
傭兵になればあんな遠くにいけるのか。エリスタールに行って商人になっても、あんなところまで行く機会はないだろう。といっても傭兵になるのはどうだろう。
かつてイシュルが聞いた傭兵や賞金稼ぎにたいするファーロの話からすると、彼らはあぶれ者、犯罪をおかして故郷から追い出されたような連中だ。そしてものすごく強い、とも言っていた。迫力満点の体躯からすると、目の前の男も強いのだろう。過去に地元で犯罪をおかしているのか、あぶれ者だったかどうかはわからない。
大伯父に似ればとにかく、中肉中背、いや、どちらかというと小柄な両親のことを考えると、自分はとても目の前の大男のようにはなれないだろう。運動神経はそこそこのような気がするが、特別な剣の才能があるとは思えないし、習う者もいない。
「おじさん凄く強そうだもんね」
「そうか?ふふ。ありがとよ。坊主」
イシュルが考えている間もイザークと大男の話が続いている。
剣は誰かに習ったのか、と聞こうとしたところで、背後でざわめきが起こり、どこかで聞いたことのある声が聞こえてきた。
後ろを振り返ると、ルセルが生まれたときに産婆をつとめてくれた、メリリャの祖母にあたる婆さんが大きな声をはりあげていた。
「誰か、45シールで合ってるか教えておくれよ」
婆さんは荷車のそばに立つ商人に向かって壷を両手に抱え、まわりを見渡している。何かを複数買って、全部でいくらになるかわからないのか、商人の請求額が信じられないのか、そんなところだろう。
対する商人は苦笑を浮かべ、周りにいる人は指を折って数えたりしている者もいるが、誰もすぐには答えられないようだ。
45シールというのは45銅貨、ラディス王国や周辺国で使われている通貨の単位だ。
イシュルは婆さんの方へ歩いていった。
歩きながら、荷の方に目をやる。売り物は以前に母に連れられて来た時に確認している。今回もその時とたいして変わりはないようだ。壷のひとつが空いており、柄杓のようなものが突っ込まれている。壷には油、と書かれている。手燭など照明に使うものだろう。
「婆さん、ひさしぶり。どうしたの」
まわりに集まっている人々の間をすり抜け、婆さんの目の前に来て声をかけた。
「ん?ああエルスのところの」
「イシュルだよ」
「ああイシュル。おまえ、わかるのかい?」
婆さんは笑顔になって聞いてきた。
「何をどれだけ買ったの?」
「油だよ。一杯7シールで、あたしの持ってきた壷がいっぱいになるまで買ったんだ」
婆さんは両手に持った壷を掲げて言った。
「坊ちゃん。あの柄杓で七杯分、四シールまけてあげて四十五シールにしたんだよ」
商人が話に割り込んできた。
「じゃあ、それで合ってるよ」
婆さんに向かって頷いてみせた。
「ほんとかい」
「うん。一杯七シールで七杯分だと四十九シールになる。そこから四シールを引くと四十五シールだ。間違いない」
ちょっと詳しく解説してやると、婆さんも納得したようだった。
「ほう。坊ちゃんはひょっとして掛算ができるのかい?」
商人が感心して聞いてきた。
「うん。簡単なやつなら暗算でできるよ」
「それは凄いねぇ。今いくつだい?」
「七歳」
「へぇ。誰に教わったの」
「ファーロおじいさんに」
まさか生まれる前からできた、とも言えないので大伯父の名を出してごまかした。
「どうだい。村から出れるなら、おじさんのところで働いてみるかい」
七歳くらいなら、下働きで見習いになるのは少し早いがあり得ないことではない。村の子どもはみな四、五歳くらいから畑仕事や家事を手伝う。
だが、ただ会話の流れで一応声をかけてきたという感じだ。それほど本気ではないだろう。
渡りに船、というわけでもない。エリスタールから近隣の村々に行商をしているのなら、それほど大きな商いではないだろう、おそらく。
どうせならもっと大きな商いをしている商人の方が良い。エリスタールならそんな大きな店もいくつかあるに違いない。
「考えとくよ」
あたりさわりのないことを言って笑ってごまかし、メリリャの祖母に挨拶してその場を去ろうと踵を返したら、目の前に数人、同じ年頃の女の子たちがいた。彼女らも行商の売り物を見に来たのだろう。
その中にメリリャがいた。
目を大きく見開き、少しびっくりしているようだ。
「イシュル、凄いね。読み書きだけじゃなくて、数の計算もできるんだ」
イシュルが小さな頃から自ら読み書きを学び、すぐにそれができるようになったことは、噂となって村の多くの人々に知られていたが、今日の出来事で、彼が商人も感心するような算術もできることが新たに知られるようになった。簡単な足し算や引き算ならともかく、掛算を暗算で、ともなると村人でできる者はいない。
この後、イシュルは村では十年にひとり、五十年にひとり現れるかどうかの天才、神童ではないかと、いささか大げさに噂されるようになった。
イシュルはそのことが、自分が村を出て街で商人になるのにプラスに働くと考えていた。
しかし、彼の目論みどおりにそう易々と事は運ばなかった。
この後、その噂が彼の人生を大きく変える災厄を招き寄せることになった。
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