村の生活、村の老人 1
イシュルが二歳になった数旬後の、晩秋のとある日、朝早くからイシュルと両親は家を出、村の収穫の祭りが開かれた小領主の家に向かった。
親が畑仕事などをしている日中、イシュルのような幼児はよくその家に預けられ、家の下女や近所に住む老婆などに面倒をみてもらう。たいていは母のルーシが連れていくのだが、今日は父のエルスもいっしょだ。
また領主の館で何かあるのかと思えばそこは素通りし、少し道幅の増した家から歩いてきた道をそのまま先へと進んでいく。
突き当たりには城壁にかくれて今まで見えなかった、数件の家と木々に囲まれた広場があった。真ん中には立派な屋根つきの井戸と、イシュルが生まれて初めて見る、ロシア語に似た形の文字が刻まれた石碑があった。
その向こう側の木々の生い茂った一画に、数十人ほど人々が集まっている。
イシュルたちはそこへ向かって歩いていった。
人々の集まる、木々に囲まれた奥の方に、白い石で建てられた小さな神殿のような建物があった。
表面をきれいに整形された石の壁でおおわれ、前面には同じ石造りの屋根を支えるように、細かい縦筋の入った四角い柱が六本立っている。柱は三本ずつ左右に分かれ、真ん中には人がひとり通れるようなスペースがあり、柱の奥には錆びた青銅の扉があった。
集まった村人らは雑談をしながら何かを待っているようだった。
「あれ、なぁに?」
建物を指差し、母に聞く。
「神さまのいるところよ」
母が答えてくれるが、まだ幼児ゆえか、詳しくは説明してくれない。毎度毎度、なかなかもどかしい。
「イシュル、聖堂教っていうんだ。あの神殿のなかに、たくさんの神さまが祭られてるんだよ」
「エルス、まだイシュルにはそんな難しいことわからないわ」
ルーシがたしなめるが、父の説明は貴重なものだった。キリスト教ではもちろんないし、イスラムや仏教でもない。神殿の外観の意匠や、多神教であることからすると古代ギリシャの宗教に似ているといえるだろうか。
やがて領主の家の方から、足下まである裾の長い白い服を着、小さな冠をかぶり、片手に錫杖のような物を持った中肉中背の老人を先頭に、同じ白い服を着た背の高いこれも老人、その後ろに同じ服装で両手に壷のようなものを持った十歳くらいの少年が歩いていきた。
村人の雑談が止んだ。
ふたりめの背の高い方の老人が扉を開け、少年が壷を持って中に入り、中にある蝋燭に壷から線香のようなものを出して火をつけていく。
奥の方には何体かのいかにも神様らしい姿をした、立派な彫刻の石像が何体か見える。神殿の中はそんなに広くなく、ひとが数人も入ればいっぱいになりそうだ。
やがて少年がで出て来、先頭を歩いて来た神官が代わって中に入り、お祈りを始めた。
音がくぐもっていて、イシュルのところまでは何を言っているのか聞こえてこない。途中で村人たちがいっせいに跪いた。
立っているのは幼いイシュルだけ。イザークやメリリャは来ていないようだ。
神殿の前には扉の左右に、背の高い神官と壷を持った少年が、神殿に背を向けこちら側を向いて立っている。
昔、どこかで嗅いだことのあるような香の匂いが漂ってきた。
ぼうっと立ったままでいると、扉の向かって右側に立つ背の高い老人が視線を向けてきた。おごそかな表情を崩し、にやり、と親しみと、いたずらでもしてるかのような悪びれた表情でイシュルに笑いかけてきた。
村人たちは跪いていて、老人の顔を見ている者はいない。
やがて神官のお祈りが終わり神殿から出てくると、一拍おいて村人たちがいっせいに立ち上がった。
神官は手前の村人たちと二言三言ことばをかわすと、背の高い老人とともに帰っていった。残った神官の少年はまた神殿の中に入り、壷を真ん中の神像の前に置き、ひとり祈りはじめた。
これで儀式は終わりなのか、村びとたちが散っていく。
エルスたちもイシュルと手をつなぎ帰ろうとするが、イシュルは両親の手を引っぱり、抵抗した。
「見たい!見たいの」と、ぐずりながら両親の手をそのまま引っぱって神殿の目の前まで連れていく。
「…尊き豊穣の神の思し召しにより豊かなる五穀の実りを賜ること、土の火の水の神の思し召しにより豊かなる五穀の実りを賜ること、精霊の加護を賜ること、世をあげてかしこみ御礼を奉り…」
神殿の中から少年の拝む小さな声が聞こえてくる。
祈りの内容は秋の実りを神に感謝し、来年の豊作を願うものだろう。世界が変わっても、宗教が違ってもあまり変わりはないようだ。
中には中心に女神、左右に楽器や錫杖、魔法使いが持つような大きな杖、剣をもつ男神や女神が並んでいる。
イシュルたちが神殿の入口に佇んでいると、祈りを捧げていた少年が振り返り、彼らの前に立った。
「すまないね。お祈りの邪魔をしてしまって」
エルスが少年に声をかける。
「いいえ。とんでもありません」
少年は大人びた態度でエルスに応え、視線をイシュルにやった。
にっこり微笑んで、「神さまのことが知りたい? いい心がけです」と言って、神殿の中にいる神々の像の説明を始めた。
真ん中の、人と同じくらいの大きさの女神像が主神、太陽の神さまで、天地を創造した豊穣と救済の神でヘレスという。その左側に主神よりひとまわり小さく、夜と冥界、運命を司る月の女神レーリア、先日の月の表面の、美しい女性の横顔のそれ、その隣が武神でイルベズ、詩歌と音曲の、美と快楽の神、邪神や悪しき魔を統べる神、精霊を統べる王、と続き、右側には風、火、土、金、水の、五行の世界観に近いのだろう、神々の像。
少年は興にのって、外見はただの幼児であるイシュルに、明らかに難しすぎる説明を続ける。もちろん彼には充分理解できるのでむしろありがたいくらいだが、神々の名前まで一度にすべては覚えきれない。
両親も少し困った苦笑を浮かべている。長くなってきた少年の説明をどこで終わらせるか、声をかける頃合いをはかっているようにも見えた。
そこへ突然、後ろから声がかかった。
「神官見習い殿、そろそろ屋敷の方へ戻られよ」
さきほどイシュルに笑いかけてきた、背の高い神官が立っていた。
「伯父さん、今日は。さきほどはお疲れさまでした」
エルスがかるく会釈してその神官に声をかけた。
おじさん?
「おお、エルス」
その神官は笑顔になってエルスに顔を向ける。母とイシュルにも笑顔を向けてきた。その笑顔のまますぐに少年に向き直り、
「昼食の用意ができている。午後のお務めもある。さ、参りましょう」というと、エルスにうなずくようにしてかるく挨拶し、恐縮する少年をつれて小領主の屋敷の方へ戻っていった。
「おじさんって、誰?」
エルスとルーシに向かってすかさず質問する。
「エルスのお父さんのお兄さんに当たる人よ。イシュちゃんのお爺ちゃんのお兄さん」
「ふーん?」
わざと少し首を傾けてあやふやな返事を返す。両親は「まだわからないかぁ」などと話している。
つまり、あの小領主の家はイシュルの家の親戚に当たるわけだ。田舎の村にはありがちなことだ。この村の多くの住民も互いになんらかの血縁関係があるのだろう。
さきほどイシュルに笑いかけてきたのもそれで納得できる。単に幼い子どもだから、というだけでなく、イシュルの大伯父に当たる人だったからだろう。
両親と手をつなぎ、まっすぐ家に帰る。
晴れ渡った高い空には鳶か、一羽の鳥が森の上を飛んでいるのが見えた。麦を刈りとられた黒々とした畑にはところどころに藁が干されている。豊作の感謝の祈りを神に捧げ、そろそろ秋も終わろうとしている。
イシュルはなんとなく気持ちも軽く、愉快だった。
この世界、少なくともこの村の地方では、信仰にきびしい戒律はなさそうだと思ったからだ。
イシュルの大伯父に当たるあの老人の小さないたずら、村人たちのあっさりした態度、イシュルの家の中にも祭壇のようなものは見当たらなかったし、両親も毎日祈ったりしていない。
異端裁判や魔女狩りなどは御免こうむりたい。きびしい戒律で抑圧された生活を送るのは二十一世紀の日本人であった自分にはつらい。
そして、少しずつこの世界のことが明らかになっていくのもうれしかった。
自分にとっては少し不思議な、新しい世界だったから。
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