田舎の村に生まれて 2

 

 ここは昔のヨーロッパなどではない。この地にキリスト教はない。イスラム教徒でもないだろう。両親や村人が一定の方角へ地に伏して礼拝しているのを見たことがない。まだ領主の館と思われる家から先に行ったことがないのでよくわからないが、目に見える範囲では教会やモスクらしき建物も見当たらない。ここは過去の地球ではないのだろうか。なら、生前の文明が滅びたはるかな未来なのだろうか?

 しかし、家の中にも、まわりの建物や景色にも、近代以降の文明の存在の、かすかな残り香のようなものさえも感じられない。何かしら遺物のようなものが残っていてもいいではないか。地平線に未来的な巨大な建物の遺構がかすかに見えるとか、昔の建築物の一部が今の建物にも使われているとか、金やプラチナなど劣化しにくい金属を使った、高度な技術がないとつくれない宝飾品がまだ残っているとか。

 まだ小さな子供だから見つけられないだけなのか。

 なかなか幼児の身では確かめられなかったこの疑問が一瞬で解決できるような出来事が、麦の収穫をあらかた終え、村で小さな祭りが行われる日に、突然に訪れた。





 村祭りの当日の朝、村の多くの女たちが先日と同じ小領主の館に集まり、祭りの準備を始めた。男たちの姿も見えるが、エルスは前日に、隣の村へ領主に納める麦を運ぶために出ていっていない。エルスは革鎧を着込み、やや小ぶりの片手剣を持って出て行った。滅多にないことだが、この時期は道中に麦の収奪をねらう盗賊がでることがあるという。主立った村の若者は、毎年、馬やロバが曳く十台近くの荷車を隣村まで護衛することになっているらしい。

 母屋の前の広場では木製のテーブルや椅子が並べられ、女たちが布きれで拭いてまわったり、食器を並べたりしている。どこから果物がいっぱいに入ったかごや大皿に盛った料理が運びこまれる。奥の方ではつぶした牛の解体が行われているようで、何人かの男たちの威勢の良い声が響いてくる。

 イシュルとこの前と同じ面子、メリリャとイザークは広場の端の草木の茂った一画に、これまた同じようにゴザを敷いた上で祖末なおもちゃをあてがわれ、おのおの好き勝手に遊んでいた。

 イシュルは手もとでおもちゃをいじりながらも、やはり大人たちの働く広場の方を見てしまう。テーブルの上に置かれる食器や料理、果物など少しでも見なれないものを見ればここはどこだ、自分はどんな世界に生まれたのかと、その考察に耽るのだった。

 食器の形、椅子の形、かごの形、そのかごにつまれた果物にも特異なものはない。昔のヨーロッパではこうだったろう、としか思われない。昨日出かけていった、始めて見たエルスの防具や剣、その柄や柄頭、鞘なども、とりたてて歴史や民俗学、刀剣などに詳しいわけでもないので、昔のヨーロッパはこんな感じだったろう、としか思われない。

 もう少し自分自身が大きくなるまではどうしようもないか。まだ二歳にもなっていないのだ。自分の見れるものはまだごくわずかだ。いずれ驚愕するようなことに気づかされるかもしれない。

 ふと気配を感じて視線を正面にもどすと、マーガレットを小さくしたような素朴な花が一輪、目の前にあった。

「おはな、お花」

 メリリャがゴザの傍に咲いていた花を一輪、引っこ抜いて持ってきてくれた。にこにこして青みがかった大きな目でみつめてくる。お花をあげる、といいたいのだろう。まだうまくはしゃべれないのだ。

「ありがとう」

 微笑みかえして受け取る。

 メリリャの笑顔が大きくなった。

 この時期の子供は、最初の顔合わせで相手に異常に興味を持つこともあるが、基本的にはまだまだひとり遊びが多い。子供どうしでさかんに遊ぶようになるのは、言葉を話せるようになってからだろう。

 もう少ししたらこのふたりともいろいろと遊ぶことになるんだろうな。

 それは微笑ましく楽しみでもあるが、正直、前世で生きた分も合わせると、四十を過ぎようとしているおっさんである自分にはいささか億劫でもある。

 メリリャと見つめあっていると、視界の端でイザークがのそっりと立ち上がるのが見えた。

こちらへ勢い良く向かってくると、メリリャからもらった花を奪い取ろうと身を乗り出すようにして手を伸ばしてきた。思わず花を持つ右手を体の後ろにやり、自分も渡すまいとする。

 イザークがこちらへのしかかるようにして倒れてきた。

 メリリャが横で泣き出す。

 倒されても右手をひょいひょいと動かして花を渡さない。

 イザークは「う〜」とうなると左手でこちらの右腕を押さえ込み、残る右手で花を取ろうとする。そこでこちらもひょいと左手に花を持ちかえる。

 イザークもたまらず泣き出した。

 イザークはもう二歳を過ぎている。からだもひとまわり大きい。上から乗っかかってこられて目の前で泣かれると、まだ小さなからだのこちらとしてはちょっと鬱陶しい。

 さてどうしたものかと思っていると、めいめいのお母さま方がこちらに向かってきた。ふたりの子供たちがそれぞれに抱きかかえられる。

 イザークとメリリャは母親に甘えるようにして泣き続けている。自分は泣いていないのだがこちらも母のルーシにしっかりと抱き上げられた。

 心のうちはいい大人でも、からだは小さな子どもである。こちらも何か心の奥底で疼くものがある。ちょっとつられて自分も泣きたくなってきた。

 空いている右手を母の二の腕にまわし、母の肩に顎をのせ、目が潤んでくるのをこらえながら前を見ると、木々の切れ目、崩れた石積みの壁の隙間から青く大きな月が見えた。昼間だが思いのほかしっかり見える。いくらか欠けた昼間の月の姿は前の人生でもおなじみのものだった。

 はずだった。

 違う。模様が。

 確か兎の餅つきだったか。

 月の表面の模様がまるっきり違う。欠けた円形の右下から中央にかけて広がる色の濃い部分と左側の明るい部分の境界の曲線が、女性の美しい横顔のように見える。御丁寧に、目のような部分や額から流れる髪、耳の形までなんとなくわかる。

 それはどう考えても前世の月とは似ても似つかないものだった。

 不条理な違和感に強い不安を覚えた。

 花が落ちた。

 思わず花を持っていた左手で月を指差す。

「月、つき。母さん、月が見える」

 母親どうし何か話していたルーシが振り返った。

「あら、本当。きれいねー」

 ルーシは頬を自分の顔に押し付けてきていった。

「お月さま、女の人の顔に見えるでしょ? あの女のひとは月の女神さまなの。夜の神さまなの。わかるかな?」

 気を効かして花を拾ってくれたイザークの母が、横から目の前まで花をかざしてくれているのにも気づかなかった。

 母の頬はひんやり冷たかった。





 夕方には無事、エルスたちが帰ってきた。広場には机や椅子が並べられ、四隅には大きな篝火が置かれた。ざっと百人くらいの村人たちが集まってき、自然と宴がはじまる。

 母屋の壁に、双頭の蛇の片方の口から垂直に剣が突き出され、もう片方の蛇がその剣にからみついている、なかなか勇壮な紋章が金糸で刺繍された濃い赤色の布地の旗が掲げられた。このなかば朽ち果てた小さな城の主は、かつてはなかなかの威勢を誇った領主だったのかもしれない。

 その旗を注視している人とか、拝んだりしている人はいない。喧噪の増した広場の片隅にひっそりと掲げられている。

 イシュルは上が十歳くらいまでの子供たちが集められたテーブルに、ちょうどそのくらいの歳の女の子の膝の上に抱えられ、いつもよりたくさん肉の入ったスープを食べさせてもらっていた。女の子はかわいい盛りのイシュルに甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。

 そのせっかくの御馳走も、女の子のお世話もイシュルは気にかける余裕はなかった。

 あの月の姿は、奇妙な既視感と、違和感とを同時にイシュルにいだかせた。今まで何度も見てきたのに、何も変わらない自然の日常の風景なのに、明らかな違いがあった。

 あの月の表面の模様、月面の地形—。

 キリスト教など自分の知る宗教の不在に加え、あの月の存在で、もうここが前世の過去の世界史にはまったくあてはまらない世界であることはほぼ確実だろう。おそらく未来世界でもないだろう。月の表面の地形があんなに変わるとしたら、かなり大きな隕石、いや、小惑星といえるような天体の衝突しか考えられない。月の地殻は冷えきっていて、地表の地形が大きく変わるようなことは起こらない筈だからだ。

 月の地形がすっかり変わってしまうような大きな天体の衝突、そんなことが起こる可能性はどれくらいだろうか。何百万年、何億年に一回、あるかどうか、そんな感じではないか? それほどの時間が経っているのに、人も家畜も植物も、大きな見た目の変化がない。そんなことがあり得るのだろうか。

 異世界、平行世界と呼ばれるような世界なのだろうか—。

 いろんなことが、少しずつ元の世界とは異なり、やがてはその差が大きく異なっていく、あるいは起こることが起きず、起こらないことが起こる、可能性が無限に広がる無数の世界。

 だが、そんな世界の存在は科学的には証明されていない筈だ。

 自分には詳しい天文学の知識も物理学の知識もない。だからこの疑問に科学的に正しい答えは出せない。あやふやな知識で考えても仕方がない。

 そもそも前世の記憶をもって生まれたことが、どうにも説明がつかない——。


 とても不確かなものだけれども、或る予感がある。

 この世界を知ること、いや、知ろうとすることで、自分がなぜ前世の記憶を持って生まれたのか、自分の人生の意味を知り、何かをつかみとれる、そんな予感が。

 そして、その時にはきっと、遺された妻とふたりの子どもたちを想うこの苦しみを、克服することができるのではないだろうか。

 ただの願望でしかないのかもしれないが、そう考えて前を向いて生きていかなければならない。





 篝火が照らすなか、広場の真ん中で村娘たちがかろやかなステップを踏み、ときにくるりくるりと回り踊っている。

 ギターやリュートに似た弦楽器の素朴な音色が流れている。

 彼女たちの踊りが終わると、飲み食いしていた女たちの幾人かが立ち上がり、イシュルたちのテーブルにやってきた。子どもたちを連れ、抱き上げて家に帰っていく。ルーシもイシュルを抱き上げた。こどもたちの宴はここで終わりだ。

 昼間、地平線に顔を出した月は今はもう中天をまわっている。その月明かりに照らされながら、イシュルたちはいつかと同じ、収穫を終え、土の露出した黒々と沈む麦畑の間の小道を家路につく。月の女神の横顔が、ふたりに何かの啓示を与えているかのように光を投げかけてくる。

 エルスは祭りの場に残った。男たちは夜遅くまで飲み騒ぐのだろう。イシュルが寝床についてからも、時々男たちのどっと沸き立つ声が畑を渡って聞こえてきた。

 

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