第8話 【雨上がりに見えるもの】

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 河川敷はさきほどの大雨で非常に足場が悪くなっていた。コンクリートで補正されたところを歩いていったとはいえ、白いソックスに襲いかかる雨水や泥の跳ね返りを常に気にかけないといけないという、中々苛々する道中だった。


 彼が言っていた橋に着き、当たりを見渡した。歩きながら色々と考えていたのだけど、私はなんだかここに誘導された気がする。だから追っ手でもつけられてるんじゃないかと警戒したのだが、そういう気配はない。そもそも、そんな可能性はものすごく少ないんだ。ただ可能性としてある以上は、見過ごしていけないような気がした。


 しかし、やはり気配はない。杞憂だったようだ。元々、私は朝の友人の証言で尼将軍に会いに行き、橘に話を聞き、ここへ来た。三人が共犯にならないといけないという、実にややこしい事態が起こるわけだ。そして彼らが組むメリットはない。それどころか、尼将軍は過去を暴露され、かなりのデメリットを背負ったことになる。


 あの証言を鵜吞みしていいものかどうか。こう思ってしまうのは多分、私が心のどこかで未だに彼女を信じているからだろう。


 青いペンキがところどころ乾いて、パリパリになっている橋。時々同じ制服を着た生徒が通っていくのを見ながら、私は橋の下に向かった。橋の根本には段ボールハウスがあり、それ以外はなかった。


 はて、橘は私に何をしろというのか。


 とにかく、ここの住人が何か知っているのかもしれないと思い、段ボールハウスへと足を進めた。一応、扉らしいところがあったので、そこをノックして「すいません」と呼びかける。一度では返答がないので、何度かしてみるものの、やはり返りがこない。いやそもそも、中に誰かいる気配さえ感じないのだ。


 さて留守なのかなと思って首をかしげていると、おいと背中から声をかけられた。振り向くと、少し汚れたジャンパーを着て、片手にワンコインのカップを持った初老の男性が、ほろ酔い気味の顔の赤さを保ちながら私に声をかけていた。


 見た目で人を判断するのはどうかと思うし、あまり好きではないが、恐らくはこの界隈の段ボールハウスの住人だろう。


「嬢ちゃん、そこは人の家じゃねぇぞ」


「人の家じゃないのに、随分と形が整っているように見えるけどね」


「ああ、今は人の家じゃねぇって言わないとダメか。半年くらい前までは一人、若いのが住んでたんだが、ある日急にいなくなった。俺たちの世界じゃよくあることだ」


「……なるほどね」


 ようやく、橘が私に何を伝えようとしていたのかが分かった気がした。


「もしかして、最近ここで子犬を世話していた女子高生を見なかったかい。私と同じ制服を着て、眼帯をした子なんだけど」


 おじさんは酔いのせいなのか、少し思い出すのに時間がかかったが、そうだそうだ、よく見たぞと、アルコールのせいで制御不能になっている滑舌と声量で教えてくれた。


 ありがとうとお礼を言うと、気をよくしたままどこかへと消えていった。


「さて」


 人家でないと分かったのだから、遠慮は必要ないだろう。私は段ボールハウスの扉を開けて、中をのぞき込んだ。確かに人が暮らしていたという形跡も少しある。黄ばんだ座布団と、消臭スプレーが置かれていたから。


 ただ、それ以上に子犬がいた形跡が圧倒的に多い。毛が大量に落ちていたし、既に開封されていたドッグフードの袋もあった。そして餌を入れるお皿と、水を入れるお皿がそれぞれ一枚ずつ重ねておいてあり、つい最近まで手入れされていたことがよく分かった。


 さすがに少しにおったので、段ボールハウスの捜索を終えた後、念のために河川敷を少し歩いた。


 橘の話では尼将軍の家ではペットは飼えないということだった。しかし、相反して彼女は動物が好きだった。そしてあの段ボールハウスには犬が飼われていた形跡があり、尼将軍の目撃証言もある。おそらく彼女はここでこっそりあの子犬を飼っていたのだろう。そして昔なじみである橘はその事実を知らされていたわけだ。これで彼女が子犬を知らないといったのは明らかな嘘であると判明した。


 さて、問題はどうしてそんな嘘をついたか。単純に考えれば理由は考えるまでもない。殺したのが自分だから、関係を認めるわけにはいかなかった。これが一番単純で、そして妥当な答えになるだろう。


 しかし、子犬を殺さなければいけない理由はなんだ。しかも、子犬が無残な姿にされたのは六時半から七時の間。三十分で、自分が今まで世話をしてかわいがっていた犬を惨殺する理由などできるだろうか。


 そしてできたとしたら、それはなんだろうか。


 なにか、手に届く場所に欲する物があるのに、それに手を出していいか迷ってるような心境だ。手を出した瞬間に何か罠にはまりそうな、そんな予感がする。だから慎重になってしまう。


「……うん?」


 道に何か落ちていた。しゃがんでそれをよく見てみる。裏返っているが、それが我が校の学生証だとはすぐに分かった。こんなところに落とし物とはよくないな、職員室に届けてあげなければと思って、拾ってビックリした。


 裏返っていたから分からなかったものの、それは間違いなく尼将軍のものだった。裏面に水滴はついていないが、地面と接していた表が完全に泥水にやられていて、一瞬だれの物か分からなかったがあの眼帯が少し見えたので、ポケットからハンカチを取り出して泥水を拭き取って判明した。


「ああ――」


 彼女の学生証を片手に、自然と声が漏れた。ようやく、やっと、私はある一本の筋を見つけた。そうか、だから彼女は……。あんなこと言い、あんなことをしたのか。


 全ての矛盾点が払拭された。全ての理屈が噛み合った。


「最悪だ……。こんなの、最悪だ」


 彼女の学生証をポケットに入れて、そんな感想を呟きながら段ボールハウスの方へと戻っていった。色々なことは想定していたが、もし今私の頭にある可能性が真実だとしたら、それはどんな想定より最悪で、後味が悪かった。


 どうやら私は手を伸ばしてはいけないものに、手をつけてしまったようだ。

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