薙刀葉蜂

「よし、メシだメシ。マウフル、ジジイ、行くぞ……なんだよ、ジジイ」

 歩き出したウグルクとマウフルを、クルツコは追わなかった。気まずそうな顔で、運河のほとりに立っていた。

「あー、そうか」、ウグルクは表情でだいたい察した。「分かったよ」

「この国に残る消極的な理由さえ、あの青二才がガレキの山に変えてしまったからな。あれは天階時代の優れた遺産だった」

 マウフルは眉をひそめたが、非難ではなく惜別のためだった。

「私は亡命するよ。付き合ってやれなくてすまない」

「気にすんな。ジジイ一人いたってなんも変わらねえ」

 クルツコは補聴器を取り出して、耳に当てるふりをした。ウグルクとマウフルは笑った。

「くだらん芝居で、君たちの人生にばかげた邪魔を入れてしまってすまなかった。これまで、ありがとう。それから……とりあえず、また」

「とりあえず、じゃあな」

 こうしてクルツコも去った。残されたウグルクとマウフルは、運河に沿ってぷらぷら歩いた。

 街灯が夜の川靄を照らしていた。運河最外縁から“銀の鹿角”までは遠い。二人は黙っていた。口を開けば、きっと共有できるものはこの先への不安しかなかった。いくつもの判断に、残ったのは後悔だけだ。それでもマナニアにへばりつくことしか、ウグルクにはできない。苦労して獣の毛皮に牙を突き立てた寄生虫は、一度の水浴びで押し流される。他に選ぶ道がないとは、そういうものなのだ。

「でも、偉いよ」

 六つ目の街灯を越えた闇の中で、マウフルが不意に言った。

「私たちは、誰の足も引っ張らなかった」

「ん」

 ウグルクはおおざっぱに頷いた。誇れることと言えばそれぐらいだろう。

 それからは再び無言だった。“銀の鹿角”で酒もそこそこに食事を済ませ、冷え込む夜を歩き、こんな真冬に羽音なんか珍しいなと思い、すこし前を行くマウフルが倒れた。

 受け身を取らない、危険な倒れ方だった。ウグルクは抜刀し、周囲に視線を走らせた。

 マウフルがなんらかの攻撃を受けた。声を張り上げたり近寄ったりは、ばかのすることだ。敵を見つけ、排除する。安否を確かめるのはそれからで良い。

 街灯の光の中を、何かが横切った。ウグルクは剣を振り下ろした。手応え。乾いた音を立て、石畳の上をこぶし大のなにかが転がる。

 虫のようにも鳥のようにも見えて、ずっと禍々しいものだった。深く黒い、形の定まらない塊だった。そのアーティファクトはふらつきながら再び飛んだ。目で追う先、闇と光の境界線上に、グリシュナッハが立っていた。

 アーティファクトはグリシュナッハの肩に留まった。ウグルクは切っ先をそちらに向けた。

「あの安酒場だと思ったよ」、グリシュナッハが一歩踏み出した。「またクズ肉と内臓の詰め合わせ」

「好物なンだよ」

 ウグルクは答えた。グリシュナッハは嗤った。

「“薙刀葉蜂なぎなたはばち”だ。“毒”のステータス異常を与える。いいよねェこれ。ボクはこういうの大好きなんだ」

 なるほど、マウフルは即死していない。朗報だ。ウグルクは黙った。放っておけばこいつは、こちらの望む情報を勝手にぺらぺら喋ってくれるだろう。そういう男なのだ。手に入れた力を自慢せずにいられない。

「マスター・エステルにもらったんだよ、君たちを売ってさァ。もうマナニアにはいられないねェ、どうしようか?」

 毒を受けた対象は、さまざまな症状を呈する。この場合は意識喪失だろうか。ともかく、ステータス異常は長続きしない。油断しきった間抜けがぺらぺら喋っている間に、魂の情報は修正されるはずだ。

「ところでさァ、どうして薙刀葉蜂なのか分かる? “無花果小蜂いちじくこばち”と迷ったんだけどねェ。まァ学のないバカには分かんないか」

 薙刀葉蜂がグリシュナッハの肩から飛び立った。思わず身構えたウグルクに、グリシュナッハは嘲笑を向けた。

 黒いアーティファクトは、グリシュナッハの周囲を飛びまわった。

「いいかいバカ、どっちの蜂も、エサの内側に潜り込んで食い荒らすんだよ。エサに気付かれず」

「学がなくて悪いな。つまりどういうことなンだ?」

 グリシュナッハは深くため息をついた。

「だからバカとは話したくないんだ、察しろよなァ。こいつで与えたステータス異常は、時間経過で治らないんだよ。魂を不可逆に汚染するんだ」

 心臓が強く跳ねる。ウグルクは奥歯を強く噛み、表情を動かさなかった。だが瞳は、倒れたマウフルに吸い寄せられた。動けない彼女の手、その指先がぴくっと痙攣した。あきらかに自発的なものではない。

「このクソ女の自律神経は完全にぶっ壊れてるんだよなァ」

 屈んだグリシュナッハが、マウフルの手首を掴んで指を添えた。脈を取る真似でもするかのように。

「野ざらしにしておけばどんどん体温が下がっていって、そのうち死ぬ。試してみる? ボクも側にいてあげるよォ、こいつが死ぬところを見たいんだ!」

 グリシュナッハはけたたましく笑った。闇に橙が閃いて、手に無文字のナイフが握られた。刃がマウフルの頬を撫でた。皮膚が裂け、流れた紫黒の静脈血が唇の間を滑っていった。絶叫し、突進し、刺殺したかった。ウグルクは怒りを沈め、柄を握る手に力を込めた。

「治す方法は二つ。レベルアップして、魂の情報をリフレッシュする。“薙刀葉蜂”にもう一度刺されて、解毒する。前者はちょっと難しそうだなァ、マウフルちゃん女だからなァ!」

「……何が、目的だ」

「へェ、察しがいいねェ! 好きだよボクそういうの。どっちが上か見極められる力って、生きるために必須だからさァ! 簡単だよォ、あのクズどもを売れ」

「アーシェラを?」

「うわうわうわ、こいつ名前で呼んでるんだけど。うわうわうわ、だっさ」

 ウグルクはありとあらゆるケースを想定し、逆転の目がないことをただちに理解した。彼は剣を捨て、グリシュナッハの足もとまで蹴り転がした。

「へえ……へえェ」

 思わぬ速度での服従に、グリシュナッハは機嫌をよくしたようだった。

「聞かせろよ、グリシュナッハ。なんでアーシェラたちを追う?」

「マスター・エステルは寛大すぎるんだよなァ。殺せばよかったんだ。慈悲の心なんか与えるから逃げられる。ボクは違う」

「殺すつもりか? おまえの手で?」

「決まってるでしょ、ボクをバカにしたんだ。女のくせにさァ!」

 グリシュナッハは声を張り上げた。怒りがこちらに向かない保証はない。決着を急がなくてはならない。

「先に、マウフルを」

「もちろん! ボクは公平だし寛大なのさァ、マスター・エステルのようにね。これは取引だよ、ウグルク! そしてボクたちは正しく契約を結ぶんだ!」

 ウグルクは黙ってうなずいた。グリシュナッハが指を持ち上げると、薙刀葉蜂がマウフルの腕に着地した。

 針が深くマウフルに突き立てられる。途端に、マウフルは背を反らしてむせた。意識混濁にぬれた瞳が、ウグルクに向けられる。

 マウフルに駆け寄り、抱き起こす。ひどく冷たく、肌は張り詰めたように堅い。なにか口にしているが、聞き取れない。

 アーティファクトは油断なくマウフルの腕に留まっていた。輪郭の定まらない紡錘から、くっきりと鋭い針が突き出している。

「西だ」

 ウグルクは、マウフルを抱いたままグリシュナッハに顔を向けた。

「奴らには、棄てられた駅路を使えと言った。兵務省の縄張りなら、冒険者ギルドも迂闊に動けないからな。その通りに動くかどうかは知らねえ」

「ふーん」、グリシュナッハはウグルクの目を覗いた。「ウソだったらどうしようかなァ」

「なんのメリットもない」

「いやいや、あるでしょ仲間意識がさァ。どうしちゃったの」

「フェアな取引なんだろ」

 グリシュナッハはにやにや笑いを浮かべ、ウグルクの肩を親しげに小突いた。

「あァ、楽しみだなァ! はやく殺したい! そうだ、ウグルクも一緒にやる? もしかしたらマスター・エステルに認めてもらえるかもしれないよ!」

 ウグルクは首を横に振った。 

「そう。まァいいよ、ギルドに怯えながら生きていけばさァ。じゃあね。永久に」

 背を向けたグリシュナッハの肩に、薙刀葉蜂が留まった。彼は機嫌よく、肩を揺らしながら大きな歩幅で歩いていった。

「ごめん、ウグルク」

 息を漏らすような小声で、マウフルが言った。

「悪いのは誰だよ? マウフルか? 俺か?」

 マウフルはウグルクの手を借りて立ち上がり、街灯にもたれた。

「動けるか、マウフル。呑み直しだ」

 ウグルクが肩を貸してやり、二人は“銀の鹿角”に戻った。誰も彼らを警戒していない。エステルの失敗が地上に伝わっているのは確かだが、木っ端冒険者の小さな反逆についての情報はまだ地下をうろついているようだった。

「死人も目覚めるほど酸っぱいクワスを、雷より早く持ってきてくれ。俺には七竈酒リャビーフカを。それから玉菜汁シチィだ、ぐらぐらに煮たのを頼む」

 マウフルは給仕が電撃的速度で運んできたクワスを舐め、シチィを啜った。どちらもすっかり碑ねており、残酷なぐらい酸味がきつい。だが酒と熱が彼女の身体をすこしずつ暖めていき、ウグルクの成り行き語りが終わるころ、マウフルは完璧に覚醒していた。

「なんで、本当のことを」

 まっさきにマウフルは訊ねた。あの場で本当のことを言う理由はどこにもない。確かめようがないのだ。

「ああするしかなかった」、ウグルクは断言した。「あのクソガキを殺すためにはな」

「へえ」

 青ざめた顔に、マウフルは肉食獣の笑みを浮かべた。

「あのアーティファクトは、俺たち二人の手に負えるもんじゃねえ」

 ウグルクはリャビーフカを啜り、顔をしかめて杯を置いた。

「ばかみたいに塩を利かせた脂身を、さっと炙ってくれ! ……それに、街道に行っただとか市内某所に潜伏してるだとか、その手の嘘をつけばどうなる? いくらあのバカでも、冒険者ギルドと連携したかもしれねえ」

「だから、西を」

 ウグルクはうなずいた。

「兵務省の縄張りだって、釘も刺しといた。あのガキが自分に言い訳できるようにな。単独行は仕方ないって」

「追う側は、追われることに意識を向けない」

「そうだぜ、マウフル。あのクズは格付けを済ませたンだ、俺たちは取るに足らねえってな」

 炙った豚の脂身をかじり、リャビーフカをなめ、ウグルクは納得いったように鼻から息を抜いた。

「アーティファクトがアーシェラに向いたところを狙って殺す。俺をナメやがって。命乞いの時間もくれてやらねえ」

「勝負だね」

「あア? どっちが殺すかの?」

 マウフルは楽しそうに頷いた。ウグルクは笑った。

「悪くねえ。だが今は、食って呑んで寝ろ。明日は馬を手に入れる算段からだ」

「出し抜かない?」

「二人でやるんだろ」

 マウフルは苦笑し、クワスを一息にあおった。

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