バックドア

 獣化したヴァージニアが、宙にわだかまる服から飛び出した。エステルの直前で横に跳ねると、柱の一本を蹴って急降下した。

「くだらない」

 エステルが右手を向けると、ヴァージニアの動きが空中で静止した。

「おまえは昔から、本当に――」

 ヴァージニアに顔を向けたわずかな隙をついて、真横からルイーズが殴りかかった。レベル差を無視して相手をぶちのめす、銀のガントレットで。

 銀の拳を、エステルは左の手のひらでたやすく受け止めた。手の甲に刻まれた魔法陣が紫色に発光した。

「返してもらうぞ」

 五指に力を籠めると、指先が闇化ガリウムⅣ-月鉛合金に食い込んだ。エステルはルイーズの腹を蹴った。ダークエルフは真後ろにふっとび、エステルの手にガントレットが残された。

 エステルは右手をぞんざいに振った。つられてヴァージニアの身体が動き、柱に叩きつけられた。悲鳴を上げたヴァージニアは、空っぽになった雨水溜めに落下した。底に貼られたタイルにこびりついた藻が、ヴァージニアの被毛を薄汚く染めた。

「おまえはまた化粧をしていたな」、エステルは雨水溜めの縁に立った。「やめろと言ったはずだぞ。おまえはどうやっても醜い。無意味な努力に時間を割く女は嫌いだ」

「づあああああっ!」

 吼えながら、ルイーズがエステルの背中めがけて拳を振った。半歩横にずれたエステルは、体の横を通り過ぎていくルイーズの手首を掴み、進行方向に向かって力を加えた。疾駆の速度と放り出された勢いを重ねたルイーズの身体は、雨水溜めを飛び越えた。顔から壁にぶつかったルイーズは仰向けにひっくり返り、雨水溜めの斜面を転げ落ちた。

「このっ! んんんこのっ!」

 アーシェラが、握ったままのガントレットに飛びついて引き抜こうとした。エステルは失笑し、腕を大きく振り上げた。アーシェラは天井に背中をぶつけ、腹を下にして垂直に落ちた。

「昔から、意味が分からなかった」

 魔法陣が紫色に発光した。ガントレットが赤熱、気化する。

「女はなぜすぐ暴力に頼る? 私は手を出そうと思っていなかった。おまえなら分かるか?」

 エステルの視線が向く先には、戦意を喪失し、自分を庇うように杖を抱くテルマがいる。エステルは満足して笑みを浮かべた。

「無意味な思索だったな。さあ、原盤を返してもらおうか。マナニアの、未来のために」

 テルマに歩み寄ったエステルが、不意によろけ、片膝をついた。

「……なんだ?」

 エステルは右手を持ち上げようとしたが、動いたのは肩だけだった。

「なにをした」

 語気を強めて、テルマに問う。テルマは首を横に振った。

「おい、ジジイ、頼む、頼むから! よせって、やばすぎるンだってこれは! ジジイ! あああもう知らねえ! マウフル、逃げるぞ!」

「でも」

「殺される! 今ならジジイ一人だ! 簡単な引き算だろ!」

 ついさっき聞いたばかりの声が二つして、足音が遠ざかった。

「銀影団だと。本当に内通していたのか」

 テルマは泣きながら首を横に振った。あまりにもいっぺんに色んなことが起きすぎて、彼女の感情は完全に壊れていた。

「バックドアだ」

 と、今度は誰も知らない声がした。

「きさまの魂を汚染して、“毒”のステータス異常を与えた」

 痛みを押して顔を上げたアーシェラが見たのは、うっすら見おぼえのある老人だった。

「んんん? わー! 銀影団のおじいちゃんじゃん!」

 らっぱのような補聴器を耳に当てていた、どう見てもリタイア世代のご老人だった。

「急げ! 長くはもたぬ!」

 老人はそれらしいことを言った。なにがなんだか分からないが、従う他ないのは明白だった。

「テルマ! ルイーズ!」

 アーシェラは雨水溜めから這い上がる二人に手を貸した。老人の姿を見たヴァージニアが、「あらまあ」みたいなことを言った。

「セルジュ・クルツコ博士」

「いかにも」

 老人はそれらしくうなずいた。

「待て。逃げるんじゃない。殺されたいのか?」

 動けぬままで、それでもエステルの言葉には心を拉ぐほどの威圧感があった。足が竦んだテルマを、ルイーズが担ぎあげた。四人と一人は、セルジュ・クルツコ邸から飛び出した。

「待って待って待って! なになになに!」

 アーシェラはクルツコを追いながら叫んだ。蔬菜畑の合間に小さな民家や農具小屋が点在する小道を、クルツコはびゅんびゅん走っていく。

「やば! やば! 後ろ後ろ!」

 ルイーズの声に振り返ると、クルツコ邸が小刻みに震えていたのでアーシェラは目を疑った。素焼きの瓦が全部まとめて宙に浮いた。なおも振動は止まず、ついには玄関ポーチの柱が一本外れて浮かび上がった。

「うわわわわなんスかあれ! 魔法!? うわわわわ!」

「あの愚かものは、自分の血で喉を潤しても困らんほどの魔力を持っておる」

 クルツコがそれらしいことを言った。

「えっなに、おじいちゃんエステルの知りあいなの? あ! もしかして昔の師匠みたいなエモい関係性?」

 アーシェラが問うた。

「いや全然知らん。見たまんまを言っただけだ」

「来ますよ!」

 瓦が降り注いだ。農具小屋を吹っ飛ばし、畑に大穴を開け、民家をぶち抜いた。土砂とガレキと木片が降り注いだ。

「広場に行くぞ! 止まるな!」

 クルツコが、老人とは思えない大胆なストライドで更に加速した。五人はわずかばかりの雑木林を駆け抜けた。地響きがして、土煙が吹き寄せた。

「後ろー! 後ろー!」

 ルイーズが絶叫する。アーシェラは振り返らなかった。なにが起こっているのか、音だけでだいたい想像できたからだ。着弾した柱が、木々を薙ぎ倒しながらこっちに向かって転がってきているのだろう。

「かんしゃくを起こすと、周りのものを壊すんですよ。わざと大きな音を立てて」

 ヴァージニアが過去を思い出していらついた。

「こんな柱とか転がしてくんの!? やば!」

 五人は常設市が開かれる広場に飛び込んだ。転がってくる柱は、コンクリート製の門を破壊して停止した。地下街の物見高い住人が門めがけて一斉に動く。四人は人の流れに逆らって進んだ。

「群衆に紛れれば、当てずっぽうには打って来るまい……ううむ!」

 クルツコは空を見て唸った。四人は逆に笑った。

 北の空で、邸宅そのものが飛行船のように浮き上がっていた。小刻みに、やがて大きく震えた建物は、宙でぐしゃっと崩壊した。

 礫片が、ろうと状に渦を巻いた。どうやらエステルは風を操り、竜巻を引き起こしたらしい。瓦礫まじりの大旋風がどこに向かうかは、あまりにも明白だった。エステルはダンジョン街もろともアーシェラたちを吹き飛ばすつもりらしい。

 ダンジョン街の人々は、呆然と立ち止まった。

「これはいかん」

 クルツコはもっともなことを言い、迷わずどんどん進んでいった。四人は棒きれみたいに突っ立った人々を掻き分け、クルツコを追った。竜巻が迫って湿った風が吹き寄せ、露天商の敷く絨毯や紐にかかった洗濯物が舞い上がった。

「手伝ってくれ」

 老人が無人の屋台を横から押しはじめたので、アーシェラたちは揃って絶句した。強風を浴びながら屋台にへばりつくクルツコの姿は、まるっきり気がふれているようにしか見えなかった。

「頼む! 時間がないんだ!」

「なんなんほんと!」

 ルイーズが前蹴りを繰り出した。屋台は群衆をはね飛ばしながら十数メートル滑走した。あらわになった石畳に、直径五十センチほどの魔法陣が刻まれていた。

「オークよ、魔法を! 私がプロセッサになる!」

 四つん這いになった老人が魔法陣の中心に手を突いた。テルマは未だに感情が溢れかえったままで口をぱくぱくさせていた。

「テルマ、なんかもうぜんぶ分かんないけど、手伝ってあげて!」

 アーシェラが肩を揺さぶると、テルマはあうあうみたいなことを言いながら動き出した。杖で魔法陣の端をノックする。石畳の一部が沈み込み、次いで横に滑った。かび臭い風が吹きあがった。生じた穴は、階段に続いていた。

「奥へ……」

 自分の血で喉を潤した老人は、力なく呟くと前のめりに倒れ、そのまま階段を転げ落ちていった。砂塵が巻き上がり、四人の肌を打つ。ぐずぐずしている時間はない。アーシェラたちは、とにかく階段へと足を踏み入れた。

 数十段先で、壁に手をついてよたよた歩くクルツコを見つけた。あまりの遅さに苛立ったルイーズが老人を担いだ。吹き下ろす風に背中を押されて階段を駆け下りた先、岩盤に分厚い鉄の扉が据え付けられていた。

「鍵を、すまん」

 クルツコから鍵を受け取ったルイーズが、扉を開ける。光源の分からない光に満たされた、十メートル四方の四角い空間が広がっていた。

 壁には天井まで届く書架、机と椅子が一脚ずつ。机の上には、例のらっぱみたいな補聴器が置いてある。殺風景な部屋だった。

「え、ここなんなの?」

 扉を閉めたアーシェラが、部屋を見回す。

「研究室だ」

 ルイーズに下ろされたクルツコは、のろのろ歩いて椅子に腰かけた。

「私の邸宅は定期的に、公安の査察を受ける……いや、受けていた、か。もうそんな心配はいらん」

 クルツコは笑ったが、相当やけくそな笑い方だったので四人は何も言えなかった。

「冒険者に身をやつして余生を送る、無力な老人。周囲には、そう思わせておいた方がよい」

 アーシェラは、なるべく神妙に見えるような顔をつくってうなずいた。

「ええと、まず、ありがとうございます。助かりました。でも、どうして?」

「原盤だよ。厳重に封印されているものかと思ったが、まさかマスター・エステルが持ち出しているとはな。ともかく、君たちはよくやった。あの、野心と自意識が膨れ上がりすぎて破裂しそうな男から、よくぞ原盤を奪ってくれた」

 クルツコは椅子を引いてアーシェラたちに向き直り、いかめしい表情を浮かべた。圧倒的にあからさまな、これからすごくそれらしい話をします。の表情だった。

「無花果を刻む漆黒の原盤。それが全てのはじまりで――」

「もう聞いたし」

 ルイーズが無慈悲にクルツコの言葉を遮った。クルツコはちょっと絶句してから、首を横に振った。

「いや、すまん。歳を取るとその、なんか説教から始めたくなって」

 クルツコは咳払いして、再び、それらしい話をするときの顔になった。

「君たちがどのようにして、原盤を手に入れたのかは問わん。だが一つ言えるのは、エステルの野心を挫かねばならぬということだ」

「女性への経験値を遮断するっていう、あの世迷言のことですね」

「レベルを操るなど、あってはならぬ独裁だ。中つ原の秩序のためにも、絶対に食い止めねばならん」

 へー。ぐらいの気持ちで、アーシェラはクルツコの話を聞いていた。こっちは食うや食わずやの無職だし、なんなら自殺志願者なのだ。世界の秩序みたいな問題は、けっこう遠いし漠然としすぎている。

「いまや君たちは、この世界の秩序の守り手となったのだ。かくなる上は原盤を封じる為に、三つの探索行を――王の辿った道を――どうとかこうとか――」

 話が長い。

 アーシェラは、なんかだんだんむかついてきた。原盤を封印し、この世界の秩序を守ることで、なんの得があるというのか。秩序なんてものはエステルみたいなごろつきが、こうしないと世界が滅ぶんでおまえの死はコラテラルダメージです。みたいなことを言いながら決めたものなのだ。エステルからすれば、女に経験値を渡さないのだって“秩序を守るため”だろう。ごろつきはいつだって権威とか秩序とかで武装し、アーシェラを、ここにいる四人をぶちのめしてきた。

 ここで、更に何もかもどうでもよくなるような事態が四人を襲った。

「ダンジョン街の高潔なる冒険者たちよ。私はエステル。冒険者ギルドのギルドマスターだ」

 エステルの声が、この地下にまで聞こえてきたのだ。

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