蕩尽と邂逅

 マナニアでは、奇妙な逆転現象が起こっている。主であるはずのマナニア市街よりも、従たるダンジョン街の方が栄えているのだ。

 この地下街はダンジョン経済の拠点であり、ということはマナニア経済の中心地だ。なにより、直しても直しても沈下する地上より、地盤がはるかに安定していた。

 五キロの地層に遮られながら、どういった原理か陽光が差し込み清々しい風が吹き、温泉も沸く。陰気な市街を離れてダンジョン街での湯治に行くことは、富裕層の楽しみとなっていた。

 アーシェラたち四人のすかんぴんにとって、これまで湯治場など人生にまったく関係のないものだった。今は違う。原盤を転がせば巨万の富を得られるし、よしんば失敗したところで死ねばいいのだ。そういうわけで四人は、少ない金を持ち寄って最高級のサービスを受けることにした。

 良質な温泉水に大麦、小麦、米、麩、ラベンダーを混ぜて煮立たせ、ろ過したもの。これに重曹とわずかなホウ素を加えれば、もっとも優れた美容入浴剤となる。四人は入浴剤入りの湯船にじっくりとつかり、泥と塩と苔を落とした。ついで、メッカバルサム乳液で全身の角質ケアをした。

 風呂上りにはろうそくの火で陰毛を脱毛し――テルマはかたくなに拒否した――高い柵に囲われた一角で寝椅子に横たわった。地下五キロでの日光浴だ。

「いやおかしいっスよ」、張り出した庇のつくる影に顔だけ突っ込んで、テルマは震えあがっていた。「燃やすて。毛を燃やすて。あほなんスかみんな。変な樹液塗るだけならまだしも」

「はえーし」

 ルイーズの回答はぐっとハードボイルドで、テルマは言葉を失った。

「たしかに怖いよね。えっ火が昇ってくる!? そんなとこまで!? ってなるし」

 同意しながら、アーシェラはしっかり腋毛まで燃やしているのだ。テルマは不審の目をアーシェラに向けた。

「でも娼婦風メイクだと今、腋も股も生やしっぱなしが流行りらしいですよ」

「やば! ウチ焼いちゃったし」

 使用人がやってきて、ワレモコウ水とニワトコ水と麝香とアルコールを混ぜた豊胸液によるバストマッサージを四人に薦めた。無料オプションだ。テルマ以外の三人が施術を受けた。

「やばいねこれ、至上の快楽だね。お金持ちすごいわ」

 豊胸マッサージを受けながら、アーシェラは蕩けるような表情になった。

「ウチあとで娼婦風メイクしてもらうから。静脈描いてもらうから」

「なにが楽しいんスか化粧なんて。見た目で判断するやつ相手にしてるんスか?」

「ア?」

「ア?」

 テルマとルイーズの睨みあいがはじまった。二人に挟まれたヴァージニアは、いつものことだと言わんばかりにまったく気にせず、のびのびと胸を揉まれている。

「かわいくなりたくないやつこの世にいんの?」

 ルイーズが噛みつき、テルマはため息をついた。

「不世出の剣術家にっスよ、そうは言ってもあいつヨット乗れないし。みたいなこと言うやつどう考えてもあほっスよね? それと一緒っスよ」

「ウチ剣術家じゃねーし」

「私はいつも思ってるんスけど、皮肉って皮肉を言いたい相手にだけは通じないんスよね」

「ア?」

「ア?」

「まーあまあまあ」アーシェラが割って入った。「見た目をうんぬん言ってくるやつはぶっとばしていいと思うよ。それはそれとして、化粧するとなんかこう、いける! って気持ちになるんだって」

「それな!」

「は? 伝わらないんスけど」

「今ならこの世の全てに勝てるぞ! ぐらいの。誰かに見せたいっていうのはもちろんあるけど、自分を強くしたいからやってるよ、あたしは」

「それな!」

 テルマは頬を指でさすった。彼女なりに、なんとか理解を示そうと努力しているらしい。

「ややこしい論文を、一本読み通せたときみたいな?」

「わかんねーけどそう!」

「雑」

 テルマは呆れ、笑った。

「ま、たまには悪くないかもしれないっスね、陰毛燃やすのも。火が昇ってくるの楽しそうだし」

「いや楽しくはねーよ」

 ルイーズの回答はそうとうハードボイルドで、テルマは言葉を失った。


 プロのアーティストにばっちりメイクを施された四人は、元気いっぱいでダンジョン街に繰り出した。常設市の屋台で、ざくろ果汁にじっくり浸してしっかり焼き上げた羊肉を喰らった。もちろん酒も飲んだ。クロスグリの果汁を絞り入れた、軽快に発泡するクワスだ。

「やっとまともなクワスにありつけたっスね」

 “銀の鹿角”でねたクワスにけちをつけたテルマは機嫌を良くし、杯を重ねた。クワスのどろっとした酸味に、クロスグリの鋭い酸味と渋みが加わり、ぐっと良い。

 彼女らは陶然とした時間になかば目的を忘れており、なんなら明日に回す? ぐらいのトーンでいた。人生最後になるかもしれないこの大蕩尽を、めいっぱい楽しんでおきたいというのが本音だった。

「なんなら明日に回す?」

 アーシェラは口に出すばかりでなく、

「ほら、あたしたち酔ってるし失礼じゃん、このまま行ったら」

 分別のついた大人なりの賢さで言い訳まで付け足した。全員ちょっとそっちの方になびきつつあった。

「いえもう、このまま行きましょう。逆にだるくなりますよ」

 ヴァージニアひとりが、誘惑を振り切った。一日空けたら逆にだるくなりそうなのはもっともだったので、四人はよたつきながらセルジュ・クルツコ元博士の家を目指した。

 平野いっぱいに広がるダンジョン街の、北の外れだった。時空間を捻じ曲げて高く佇立する岩壁の際に、どこか隠れるようなたたずまいの一軒家。あたりは草と低木が茂る湿った泥炭地で、ここだけ陽光が避けて通っているような暗い雰囲気だ。

 庇を列柱が支え、玄関は開放的なホールにつながっている。典型的なドムスのつくりだった。マナニア黎明期に建てられたものだろう。沈下しないまともな地盤を得た当時のマナニア人は、嬉々として内地趣味を花開かせたのだ。しかし手入れはされていないようで、屋根に葺かれた素焼きの瓦は歯抜けだし、ぼろぼろの柱には枯れたつる植物が巻き付いている。

「隠者って感じなんスね」

「お支払いは確実でしたよ。後援者がいらっしゃるとかなんとか、いつも自慢されてました」

「国内じゃないっスね、多分。バックドア問題でキャリアの息の根完全に止められたみたいっスから」

「よーし、行ってみよう!」

 アーシェラが音頭を取り、ふらふらしながら石段を上った。

「すいません! セルジュ・クルツコ教授はご在宅ですか!」

 よっぱらい特有の、音量調整をまちがえたばかでかい声と距離感をまちがえた気やすさでアーシェラは叫んだ。返事はない。

「おお? なんだなんだ、いないのかな?」

 そのままアーシェラは大胆不敵に突き進んでいった。彼女は湯治と脱毛とメイクと豊胸マッサージとクワスでかなり無敵になっていた。

 玄関ホールを抜けて、陰気なアトリウムに踏み込む。吹き抜けの直下に掘られた雨水溜めは緑色に濁っている。かつてなにか植わっていただろう植木鉢は横倒しになり、割れ砕け、まともな生き方を自ら手放した人生の痕がむきだしになっている。アーシェラは依然として大胆不敵だったので、素焼きの神像を蹴飛ばして「おっと失礼」みたいなことを不用意に言いながら、なおもよちよち進んでいった。

 雨水溜めの脇には、一脚の寝椅子があった。周囲には無数の本が積まれていたが、どれも日にさらされ色あせていた。寝椅子にはだれか横たわっていた。アーシェラは自分の大胆不敵さにやや翳りが生じるのを感じた。

 その男は読んでいた本を閉じると、寝椅子から立ち上がった。アーシェラは一瞬にして非大胆不敵となり、縮みあがった。

「当然、世を捨てた魔力工学の者に頼るとは思っていた。浅知恵だな」

 エステルは、出会いがしらに四人を鼻で笑った。

「考えたのはおまえだろう。ばかなことをしたものだ」

 視線を向けられた瞬間、ヴァージニアはまっさおになって項垂れた。

「おまえには目をかけていたはずだ。なぜこんな下らんことをした」

「あ、その、ごっごめんなさい……」

 思わず謝って、テルマは屈辱感に奥歯を噛みしめた。身に着いた習性だった。

「おまえもだ。私は給与の支払いを拒んだことも、おまえをくびにすると脅したこともない。違うか?」

 ルイーズもまた、テルマと同じだった。長身を恥じるように背を丸め、首を横に振り、そうしてから自らに怒りを覚えた。

 たっぷり時間をかけて三人を脅しつけてから、エステルはようやくアーシェラに目を向けた。そして何も言わず、視線をそらした。

 エステルのやり方を、アーシェラはよく分かっていた。興味がないことを態度で示すのがもっとも屈辱的だろうと、この男は判断したのだ。それが分かっていてなお、アーシェラは顔が熱くなり、体から力が抜けるのを感じた。これまでずっとされてきたことが、体に、心に、深く刻み込まれていた。傷をふさぐのはほんの薄皮で、かすかに身じろぎするたび裂け、新鮮な血が噴き出すのだ。きっと永久に。

「だが、おまえたちは私の想像よりも有能だった。銀影団を退けるとはな。三時間以内には殺されていると思った」

 評価されたことにわずかでも喜びを感じてしまう自分の心根がおぞましくて、アーシェラは泣きそうだった。この男の得意技だ。他者の尊厳を奪い、めちゃくちゃに叩き壊してから、ほんの欠片だけをもったいぶってこちらに返す。おまえの適正な価値を測ってやった、とでも言いたげに。何度も繰り返されれば、それは刷り込みとなる。そうやってエステルは多くの部下を支配下に置いてきた。

「だから、私が来たのだ。話をしてやろうと思ってな」

「まっ……魔王じゃん」

 ルイーズが声を振り絞った。エステルは顔をしかめた。

「私が喋っているんだ。なぜ邪魔をした。答えろ」

「だから、魔王になんでしょ、エステル! 原盤使って!」

 原盤の力を用いれば、冒険者が集めた経験値をひとりに集約できる。大昔、それをした悪党は自らの国を興し、魔王と呼ばれたのだ。

 エステルは目を丸くしたあと、隠すことなく失笑した。

「ばかすぎる。あまりにも」

「ア?」

 ルイーズの威嚇に、エステルは取り合わなかった。

「魔王とはな。呆れたぞ。おまえたちは実話と比喩の区別もつかないのか? あんなものはただの教訓だ。よくまともに受け取れたものだ」

 エステルは雨水溜めを回り込んで、アーシェラたちにゆっくりと近づいた。怖気づいた四人はじりじりと後退した。エステルは口の端を持ち上げた。嘲笑を隠さなかった。

「私が魔王になって、どうするというのだ。それでマナニアが蘇るか? 忠実なマナニア臣民ならば、そんなことは考えにもよぎらない」

「じゃあ、何をするつもりなの」

 アーシェラは声に出したが、怯えきった舌が喉の奥に潜りこもうと必死だったので、ささやくような声量にしかならなかった。

「改元と同時に、女への経験値流入を遮断する」

 エステルは言った。ごく簡潔に、まったく誤解しようのない言い方で。

「……は?」

 四人には、一切合切なにひとつ理解できなかった。エステルは眉間に皺を寄せた。

「女が中途半端に経験値を得ることこそ、マナニア経済の最重要課題なのだ。その分を男に回して、今よりもずっと深くダンジョンに潜ってもらう。女は男を今以上に支え、子を産む。この中つ原に散らばる卑小な国ぐにを、より精悍でより強靱な男たちが、取り返す。マナニアは新時代と共に息を吹き返すのだ」

 エステルはかなり丁寧に説明したが、それでもアーシェラたちには理解不能だった。

「え? え? 待って、え? えーと……男はもっとめっちゃ死ぬほど働いたり戦争行ったりして、女は家にこもって子供をぽこぽこ産めってこと?」

「悪意のある言い方に聞こえるな」

「あるわ!」アーシェラは反射的に怒鳴った。「バカなのか!」

 この反撃は想定していなかったようで、エステルは一瞬、沈黙した。

「感情的になるんじゃない。女の悪いところだ」

「は? は? は? 感情的になるな? なるだろ嫌でも! はあ? この世に存在しないわこれで感情的にならないやつ! 全員不幸になるじゃんそれ!」

 エステルはため息をついた。

「いいだろう、すこし付き合ってやる。仮に誰もが不幸になるとして、では、他にどうすればマナニアを救えるというのだ。対案も出せないのか?」

「ああああ!」アーシェラはあまりの苛立ちに、拳を強く握りしめながら叫んだ。「滅びろ!」

「もとより、女と議論できるとは思っていない。これで終わりだな」

 エステルは、右手をゆるりと持ち上げた。暴力の気配に思わず身をすくめたアーシェラの頬めがけて、素早く振り下ろした。

 だが、エステルの平手はアーシェラに届かなかった。橙色に微発光する盾が、エステルの打撃を遮っていた。

「問題設定がおかしいっスよ」、テルマは膝をがくがくさせながらエステルを睨んだ。「臣民まるごと不幸になってまで、なんでマナニアを救わなきゃならないんスか? それ、そこまでして残すほど価値のあるものなんスか?」

 右手の甲に刻まれた魔法陣が青く発光した。エステルは盾を握り潰した。

「なぜそこまで愚かなのだ、おまえたちは」

「下がって、アーシェラ!」

 ヴァージニアの声に応じ、アーシェラは跳び退った。アトリウムに散らばる鉢や陶片が、エステルの背後で浮かび上がった。

「躾けてやろう。感謝はしなくていい」

 素焼きの散弾が飛来し、テルマが生んだ無文字の盾に突き刺さった。

「ありがと、テルマ! やるじゃん!」

 アーシェラが肩に手を置くと、テルマは泣きながら顔を上げた。

「やばいっスよねこれ、かなりやばいっスよね」

 腹が立ちすぎて挑発したのはいいが、ここから先は完全に無策だったのだ。震えている間にも次々と陶片が飛んできて、盾を激しくノックした。

「えぐいことになっちゃったねえ。もうぶちのめすしかなさそうだよ」

 言ってみたが、なんの作戦も思いつかないアーシェラだった。ダンジョン縦貫道の戦いでは、こちらに圧倒的な利があった。それでもレベル差によってあそこまで追い詰められたのだ。エステルは銀影団の全員を足し合わせたよりも高レベルだろうし、勝利条件もない。

「言って分からない相手は、痛めつけるしかない。おまえたちも銀影団に対してそうしたのだろう」

 エステルは右腕をゆっくりと持ち上げた。その動きに追随して、雨水溜めの汚水が渦を巻きながら持ち上がった。水は鋭い先端とらせん状の溝を持ち、回転しながら突っ込んできた。

 水のねじと盾が触れ、橙色の火花が散る。盾に無数の細かい亀裂が走る。

「跳んで!」

 ヴァージニアの号令一下、四人は横っ飛びに跳んだ。盾を砕いた汚水は直進し、石壁を数十センチ掘り進んでから先端を引き抜いた。雨水は形を保ったまま蛇のように鎌首をもたげ、ねじ穴を開ける対象を選んだ。

「ウチが」

「わたしが」

 ルイーズとヴァージニアが同時に言った。二人は視線を合わせ、頷きあった。

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