地の底へと

 銀影団の判断は遅れた。次の瞬間、稲妻のように飛び出したヴァージニアが原盤を咥え、崖を一気に降りていった。アーシェラたちは盾を解除し、垂直に落下した。

「あああ、くそッ! マウフル、狼を!」

 ウグルクはアトマイザーを追った。マウフルは槍のように降下した。

 もたついた数秒で、ヴァージニアは百メートル以上稼いでいた。銀の被毛が閃く美しさに、マウフルは見とれた。いつかマウフルは、その姿に身勝手な理想を託した。どこの誰にも依存せず、自らの足で目指す場所へと向かう一匹の狼。憧れは単なる幻想で、ヴァージニアはけちな泥棒に過ぎなかった。それでも今、狼は美しい。

 マウフルは狼を追った。わずかな斜面を蹴って加速し、飛びかかった。縦貫道を知り尽くすヴァージニアはマウフルの致命打を回避して壁面を飛び渡った。マウフルにとっては、夢のような時間だった。憧れは、憧れのままに自分を翻弄した。狼の筋肉は強くしなやかに稼働し、思いもよらない経路を選んだ。狙いを定めて突進し、避けられるたび、獣の香りを残した熱い空気をマウフルは嗅いだ。

 このままずっと、憧憬との追いかけっこを続けていたかった。だが身もふたもなく、二人の間には大きなレベル差があった。底まで一キロを残し、ヴァージニアの動きが乱れはじめた。惜しむような思いで、マウフルはしかし、一切手を抜かなかった。最後まで全力で疾駆した。灼けるように熱い体を心で動かして、とうとうマウフルは憧れに追いついた。

 終着点まで、五十メートル。マウフルの爪がヴァージニアの肩に食い込む。二頭の獣は、ひとかたまりになって滑り落ちる。互いに体力を使いきって、重さを支えることができず、だが運はマウフルに味方する。地の底まであと五メートルというところに、岩が大きく張り出していた。二頭の滑落はそこで止まった。

 マウフルは大きく口を開け、ヴァージニアの頸椎に歯を立てた。一噛みで殺せるのだと、顎に軽く力を込めてヴァージニアに知らせる。

「はいちょっと! そこまで! おしまい! 終わり! おーい!」

 真下から、呑気な声が聞こえた。マウフルが目を向けた先には、だだっぴろく安定した地盤があった。堆積し、風化した泥炭の大地。ダンジョン縦貫道の終点。

 アーシェラが、なにかを高く掲げている。マウフルは絶句した。放り投げたはずの、黒いアーティファクトだった。

 笑い声をあげたヴァージニアが、咥えていたものを吐き出した。マナニア臣民ならだれもが持っている、単なるステータスボードだった。

 あのときアーシェラは、原盤とステータスボードを重ねて持ったのだ。真正面のウグルクとマウフルにはそうと分からないが、横に立つヴァージニアたちはアーシェラの意図をすぐに呑み込んだ。

 振りかぶった際に原盤を手放し、実際に投げられたのはステータスボードだけだった。いっしょに投げたアトマイザーが目くらましになって、銀影団はこの初歩的な手品にだまされた。

「もう戦う意味ないでしょ! 終わりだってば! 終わり終わり!」

 マウフルはウグルクの姿を探した。彼はアトマイザーを手に、失意の表情でゆるゆると降りていた。

 終点に着地したウグルクは、マウフルを見上げた。わずかな逡巡があった。まだヴァージニアは底に着いていない。人質に取ることができる。

「放してやれ、マウフル。俺たちの負けだ」

 ウグルクは結局、力なくそう言った。

 ほっとしている自分がいることに、マウフルは気づいた。ヴァージニアはマウフルの牙から逃れると、一蹴りでアーシェラたちの許まで飛んだ。

 ウグルクはその場にひっくり返って、深く降りて来たダンジョン縦貫道を見上げた。

「行けよ」

 ぶっきらぼうに、そう言った。マウフルはウグルクに寄り添った。

「え、いいんスか。私たちを逃がしたら」

「まーあまあまあまあまあ!」

 テルマの言葉を、アーシェラが雑に遮った。

「ありがと、ウグルク。助かったよ」

「は? あほなんスか? こいつらは」

「はいうっさいー」

 ルイーズがテルマを担いだ。

「わ、うわわわ、なにするんスか!」

 テルマはじたばたしたが、ルイーズはびくともせずにのしのし歩いていった。

「はー疲れた。つか顔溶けてんだけどウチ。どっか化粧できるとこあっかな」

「薬局でメッカバルサム売ってますよ。床屋で瀉血もできます」

「ウチ無理だし瀉血。結核風メイクあんま好きじゃない」

「でしたら、銭湯でラベンダーとハッカと重曹の――」

「ヴァージニア」

 テルマとルイーズを追う獣の背中に、マウフルが声をかけた。ヴァージニアは背中越しにマウフルを観た。豹は、緊張したように尻尾で地面を払った。

「その……ありがとう。とても、きれいだった」

「いいえ。こちらこそ、夢が叶いました」

 絞り出したような感謝の言葉にあっさりと答え、ヴァージニアは美容入浴剤を用意してくれる銭湯についての話に戻った。マウフルはかすかに笑みを浮かべた。

「じゃあまたね、ウグルク!」

 アーシェラが手を振って、二人に背を向け走り出す。合流した四人にはなんの緊張感もなく、入浴剤に麩は必要か? とか、ワレモコウ水はガチで豊胸に良い。みたいなどうでもいいことを議論しながら遠ざかっていった。

 ウグルクとマウフルはしばし、互いに言葉もなくじっとしていた。ひどく消耗していた。戦闘の興奮が引けば、後悔と焦燥は身を焼くようだった。盗まれたアーティファクトのうち、一つを回収。対象を取り逃がす。端的に、クエスト失敗だ。単なる仕事ではない。ギルドマスター直々に下された密命なのだ。

「ウグルク! マウフル!」

 二人を呼ぶ声がした。見上げると、グリシュナッハが空中でじたばたしていた。ウグルクは肥った身体を掴み、地面に下ろしてやった。

「あのクズどもは!? 殺した……まさか逃がしたんじゃないだろうな!」

 取り澄ました態度を保とうといつも必死な男が、怒りに震えていた。ひどいやり方でとっちめられたのだろうなとウグルクは想像した。

「これだから嫌なんだ、使えない冒険者どもだな! ボクが付き合ってやってるっていうのにさァ!」

 喚き散らすグリシュナッハに、ウグルクはなんの感情も湧かなかった。こいつは一生こうなんだろう。

「ボクがマスター・エステルに報告するよ。オマエたちが逃がしやがったってな! マナニアにいられないようにしてやる! 覚悟しろよクズども!」

 ウグルクは一瞬、こいつをぶちのめすべきかどうか考えた。殴ったり反論したりするだけ無駄だとすぐに思い直した。

「おい! 落下制御はどうした! あのジジイは……あああ、なにもかもがボクをイライラさせる! 足を引っ張られてばっかりだ!」

 グリシュナッハは無文字の短剣を高く投げつけ、岩に突き立てた。伸びきった柄を縮め、体を引っ張りあげる。どうやらそれを繰り返し、一人で縦貫道を這い上がっていくつもりらしい。

「すげえ時間かかりそうだな」

 ウグルクは完全に他人ごとの口調で言った。マウフルはちょっと笑った。

「これから、どうするの」

「さあな、国外逃亡でもするんじゃねえの」、ウグルクは投げやりに答えた。「なんにせよ、とりあえずジジイの落下制御がないと帰れねえぞ」

「ダンジョン街かな」

「帰って昼寝してんだろ、ジジイはすぐ疲れるからな。俺たちも、ちょっと休んだら行くぞ」

 ウグルクはそのまま寝息を立てはじめた。マウフルも、ウグルクの腹に顎を乗せて目を閉じた。ひとまずは、平穏だった。



 冒険者ギルドの執務室で、エステルはグリシュナッハの自己愛にまみれた語りを辛抱強く聞いていた。彼によれば、ウグルクとマウフルは女どもと取引し、逃がしたのだという。

「あのクズどもはボクをいたぶったんです。鼻も折れて意識不明になって……つまり、ボクが気絶している間になにもかも終わっていたんですよ!」

「なるほど。それはひどい話だ」

 半分以上嘘だろうとエステルには分かっていた。だがエステルは寛容だ。とくに、さして大学に行かずふらふら遊んでいるのに、どういうわけだか留年せず進級できるような学生には。

 人を見る目だの、教養だの、怪力だの、忍びのわざだの、そんな才能など実世界ではなんの役にも立たない。仕事において重要なのはただ一つ、要領の良さだ。どれほど服従できるかだ。

 グリシュナッハには目をかけておくべきだろう。これから先も、あらゆる難事を要領よく切り抜けていくはずだからだ。

「ひどい目に遭いました。ボクはただの学生だっていうのに!」

「ギルドマスターとして、冒険者の蛮行を謝罪しよう」エステルは引き出しから黒い直方体を掴みだし、机に置いた。「謝意のあらわれに、これを」

 グリシュナッハの瞳に、喜色と戸惑いが浮かぶ。嘘でうまく切り抜けられたことに対する安心と、思った以上にうまくいってしまったことへの困惑だ。

 押し付けた負い目は、いずれ役に立つ。それが権威からのものであればなおさらだ。

「さあ、どうした。遠慮なく持っていきたまえ」

「でも、これは……」

「“毒”のステータス異常を与えるアーティファクトだ」、エステルはグリシュナッハの言葉をあえて誤読した。「君の思うままに飛翔する。冒険の際には役立つだろう」

 それでもまだ、グリシュナッハは受け取ろうとしない。エステルには分かっていた。

「もちろん、君が卒業するまでは紐付きだ。大事に使ってもらえるとありがたい」

「そ、卒業するまで?」

 グリシュナッハは卑しい笑みを浮かべた。渋れば渋るほど、紐付きだのなんだのと付帯条件が重なっていくことを察したのだ。こちらの誘導に引っかかる程度の、ちょうどいい知性。エステルはますます、この男を気に入った。

 エステルは多くを語らず頷き、アーティファクトをグリシュナッハの方に押し出した。

 グリシュナッハが触れた指先を中心に、アーティファクトの表面を青い波紋が走った。直方体は見る間に変形し、蜂と鳥を混ぜたような形を採った。

「うわ、なんだこいつ!」

 翼を打ったアーティファクトがグリシュナッハの周囲を飛びまわり、身をかがめた肩に留まった。エステルは黙っていた。ここで失笑を浮かべ、男の尊厳を傷つけるようなことを彼はしない。

「あの、それで、あの女と銀影団はどうするんですか?」

 黙って話を聞くのではなく、質問をしてきた。気を許しつつある。いい傾向だ。

「放ってはおけんな。君、生意気な女がいたらどうするか、分かるかね」

「……殺す?」

 あまりにもばかすぎて笑いそうになったが、エステルはこらえた。

「それも一つのやり方だが、もっといい方法がある。躾けるのだ。こちらの言い分は常に正しいのに、どういうわけかあの連中は噛み付いてくる。だからいくらか殴って、自分の愚かさを分からせるのだよ」

 グリシュナッハの眼の色が変わる。輝きだ。この男は、自らの欲望を後ろ暗いものだと思い、これまで耐えてきたのだろう。そう思えば哀れだ。

「あの女たちは、君たちの追跡を振り切った。つまり、それなりに価値がある。殺すよりも躾けるべきだ」

 エステルは立ち上がった。

「マスター・エステル?」

「私が躾けてやるんだ。感謝はされないだろうが、それこそ男の仕事というものだよ、グリシュナッハ」

 名前を呼んでやると、グリシュナッハは、ほとんど陶酔の表情でエステルを見た。

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