人の根っこ

 非力な一撃だろうと、分厚い鉄で首を打たれれば人は死ぬ。ウグルクは覚悟を決めた。アーシェラが剣を振り上げた。持ち方がなっていないなとウグルクは思った。

「オラァ!」

 アーシェラは、剣を力いっぱいぶん投げた。得物はゆるく上昇したあと、重力に任せて落ちていった。

 あまりにも意味が分からなかった。ウグルクは言葉を失い、剣が落ちる先をただぼんやり見ていた。アーシェラが飛び掛かってくることに、彼は気づけなかった。

 垂直に落下していった剣は、崖から斜めに突き出すいじけた樹に突き刺さった。

と、その幹が軋んだ。銀色の狼が着地したのだ。

 地上から二キロ半。光薄らぐ領域。刃に、傷だらけの狼が映る。

 ヴァージニアは剣の柄を咥え、引き抜いた。

 マウフルの執拗な追跡から逃れる内、気づけばこの深度まで追い込まれていた。豹は無音で迫り、ヴァージニアに幾つもの手傷を追わせた。現れては消え、じわじわと追い詰める、マウフルの方がよほど狼らしい狩り方をする。傷と絶え間ない移動が、アーシェラの体力を奪っていた。本来ならば狼に分がある持久力でさえ、劣っている。レベル差は明白。マウフルは間違いなく名誉男性だ。

 女性が得られる経験値は一般的に男性の10~30%だが、ときに例外が存在する。男性比で50%以上の経験値を入手できる女性は、名誉男性と呼ばれた。名誉男性には、選択の余地がある。彼女たちは冒険者を目指せるし、国境を越えられる。

 ヴァージニアは岩塊を飛び渡り、しばし立ち止まってマウフルを誘った。到達ルートを制限すれば、相手の出現個所を一つに絞れる。ダンジョン縦貫道に馴染んだ彼女だからこそできる芸当だ。

 吹きあがる風の唸りに耳を澄ませる。かすかな異音。ヴァージニアは頸骨の稼働と胸骨頭筋の伸縮が許す限りの力で剣を振った。手応えは無い。咥え直した柄に、重み。

 薄暗がりに、二つのタペータムが光る。マウフルが、刃の上に立っていた。

 剣を口から離すのと、マウフルの跳躍は、同時。豹の鋭い爪が背に食い込む。ヴァージニアは頸を捻ってマウフルの喉を顎で捉える。豹は前肢でヴァージニアを強く押し、反動で跳び上がった。鯱のように身をくねらせて垂直上昇するマウフルの速度を、ヴァージニアは捉えきれない。

 落下制御の解除に賭けた一撃だった。失敗に終わったが、有益な知見は得られた。

 先行したヴァージニアは、戦況を理解していない。だが、テルマ・ルイーズとアーシェラが分断されていたのは確認している。テルマが術者との戦闘を担ったのだろうとヴァージニアは推測した。

 となれば、おそらくテルマは術者との戦闘に敗れたのだろう。ルイーズの動向は分からないが、期待するだけ無駄だ。死んだものとして考えた方がいい。その上で、どう動くべきか。

 アーシェラを狙っていた敵への奇襲は成功した。命は獲れなかったが、深手を与えることには成功したのだ。そこでマウフルは、ウグルクと合流して戦力を整ようと考えたはずだ。逃げ回る狼を追いかけて消耗するよりも、二人がかりでアーシェラを叩きのめす方が有益だろう。だから、ヴァージニアを殺しそこねたマウフルは上昇を選んだのだ。

 合流を阻止するには、マウフルを殺すしかない。一人で、やるのだ。いつも通りに。

 頼れる相手など、この世に一人もいなかった。身をささげると誓った男は結婚後に豹変し、ありとあらゆる暴力でヴァージニアを支配した。エステルは、獣化したヴァージニアを醜く臭いと罵りながら交わった。化粧する度、汚らしいと罵った。反論しようものなら殴られ、犯された。ひどく奇妙で、間尺に合わない行為だとヴァージニアはいつも思っていた。醜く感じる生き物と、殴りたくなるほど気に食わない相手と、なぜ肌を合わせたがるのか?

 生活費を受け取るために、膝をついて懇願した。エステルはそのたび、渋りきった顔ではした金をよこした。もっと安上がりに生活できるはずだと責め、一方で食事の等級を落とすことは許されなかった。

 暴力が娘に及んで、ヴァージニアは逃げた。しばらくの間、手にした自由を楽しんだ。あっという間に貧窮した。誰も救ってはくれなかった。マナニアは、女がひとりで子供を育てられるような場所ではなかった。制度も世間も、許してはくれなかった。

 だから、いつも通りだ。一人でやる。

 ヴァージニアは決意を胸に突起を駆けのぼり、鋭く落ちて来たマウフルの爪撃が前肢に食い込んだ。

「なん、でっ!?」

 牙が突き立てられ、首の皮が引きちぎられ、狼の肉体が為す術なく落下する。胴を捻って着地するヴァージニアの直上に金色の被毛が輝く。飛び退く。豹が降り立つ。

 マウフルは噛みちぎった肉片を吐き出し、血染めのマズルを剥いて唸った。ヴァージニアは背中の被毛を逆立てた。

 二匹の獣は、互いのまわりをゆっくりと周回した。このときヴァージニアには地の利が、マウフルにはレベルがあった。飛び掛かる隙を、あるいは不意をついて逃げ出す隙を伺う、わずかな膠着の時間だった。

「下衆」

 放たれたマウフルの言葉には、憎悪がこもっている。ヴァージニアには、その出どころが分からない。

「どこかでお会いしましたか?」

 答えず、マウフルはゆったりと歩を進める。ヴァージニアは地形と豹を共に捉え、どう逃げるかのプランを幾つも組み立てては破棄する。

「男に頼って、男に捨てられて、男に復讐する。下衆な女」

「名誉男性ってすぐそう仰いますよね」ヴァージニアは、どうすればマウフルを挑発できるか考えながら言動を組み立てた。「男に逆らう女が全員ばかに見えてるんですか? 言うこと聞いていればいいって」

「わたしは、頼らない。誰にも」

「羨ましい話ですね。あなたはわたしと違って、そこそこレベルが上がるんですから」

 どういうつもりかは分からないが、向こうが一方的に狙ってくれるのなら好都合だ。会話を引き延ばし、憎悪させ、注意を捉えつづける。それが、原盤を護ることに繋がる。

「きれいだと、思ったのに」

「あの、本当に記憶にないんですけど、わたしたちお会いしたことありませんよね」

「あなたも、一人だと、思ったのに」

 どうやら身勝手なイメージを押し付けられていたらしい。純然たる逆恨みだ。

 名誉男性は比較的レベルを上げやすく、それはつまり、ダンジョンでの仕事を見つけやすいということだ。だが結局のところ、冒険者のほとんどは男だ。そしてほとんどの男は例外なく、レベルの上がらない女を使えないうすのろだと考えている。そのような社会で冒険者たろうとすれば、そうした価値観に迎合するしかない。

 男社会で、ばかにされながら必死に生き延びてきたマウフルにとって、自分は気に食わないのだろう。復讐のため元夫の家を派手にぶっこわし、アーティファクトを盗み出したのだから。元夫は単なる卑劣なろくでなしで、家をぶっこわしたのはルイーズだが、誤解を解く義理などない。

 相手は、子供なのだ。出し抜く余地はある。仕留められるかもしれない。

「なにか、面白いの」

 我知らず浮かべていた笑みを、マウフルに指摘された。ヴァージニアは首を横に振った。

「いえ、別に」

 夢見ていたのだ。こういう世界を。未知と敵に心と命をすり減らし、持てる力の全部を使って暴れたかったのだ。

 ヴァージニアは、おもむろに前進した。マウフルが、数歩下がった。ヴァージニアは、走った。苔と砂を蹴散らし、敵めがけてまっすぐに。

 突然の攻勢に、しかしマウフルは冷静だった。横に跳ぶと、ヴァージニアの無防備な側面めがけて猛然と突っ込んできた。速度と質量がヴァージニアに直撃した。ヴァージニアはわずかな平坦地から押し出され、懸崖に前脚をひっかけ辛うじて落下を阻止した。

 這い上がろうと立てた爪は岩を引っ掻くばかりで、筋肉も傷も発熱するヴァージニアに、体を持ち上げる力は残っていなかった。小石を掻いた狼爪に亀裂が走る。痛みへの反射にヴァージニアは思わず脚をひっこめた。たちまち重力が彼女の肉体を捉えた。

 背を下に、ヴァージニアは落ちていく。あっけない幕切れだった。夢と希望の端緒に立ったその瞬間、終わりが訪れたのだ。女の一生などそんなものだろうとヴァージニアは思った。最後の最後に、ほんのちょっとだけ好きなことをやれた。それで満足しろ、ということだ。

 落下が、不意に終わった。

 誰かが、ヴァージニアの胴に腕を回していた。

 細い腕だった。

「んっぐぐぐぐぐ! 重っ! 思ったより重っ!」

 アーシェラの声だった。

「無理ごめんヴァージニア自分でなんとかして!」

 あっという間に、アーシェラの腕から力が抜ける。ヴァージニアは、背後にあるなにかを蹴った。「ぐえっ!」みたいな声がして、おそらくウグルクのものだった。推進力を得たヴァージニアは、ごくわずかな亀裂に前脚を突っ込んで身体をとどめた。そうして振り向くと、アーシェラがウグルクと空中で掴みあっていた。

「このっ、ふざけっ、テメエ! ふざけんな!」

 ウグルクが、アーシェラの首に左手をかけた。噛まれた右手は使い物にならないようで、体の横に垂れていた。宙吊りのアーシェラは、ウグルクの腕にしがみついている。

「ぜんっぜん……こもってないじゃん、力」

 絞められながら、アーシェラはウグルクを鋭く睨んでいた。

「頸しめて殺すのって抵抗あるでしょ、剣より」

「挑発してんじゃねえよ! 殺されてえのか!」

「それ聞く?」

「うるせえんだよ! だから女は……男の苦労なんか知らねえで、そうやってバカにして、自分だけ! 男の苦労も知らねえで!」

「ウグルク!」

 マウフルの声がした。すがるような声音だった。

「お前は狼を殺すんだよマウフル! 行け!」

 ヴァージニアは亀裂から脚を抜き、断崖を駆け下った。マウフルはウグルクを見上げながら、宙を泳いでヴァージニアを追った。

「男の苦労っていうけどさ」

 アーシェラの声が、縦貫道の壁面に乱反射して響く。マウフルがヴァージニアに迫る。

「ひたすら働いて、奥さんと子供を養う以外に人生を選べなくて、どんどんすり減って……義務ばっかりで、責任ばっかりで、しんどいのは分かるけどさ」

 マウフルが猛禽のように襲い掛かった。ヴァージニアは斜めに跳んで爪撃を避けた。壁に取りついたマウフルはヴァージニアを追った。

「助けてって、ちゃんと言おうよ! あのさウグルク、あたしだってふつうに働きたいし、お金を稼ぎたいし、仕事でだれかに認められたいって思ってるんだよ!」

「は……? なに、なん、おまえ、なに言って」

 ほとんど額がぶつかり合うぐらいの狭い平坦面に、二頭の猛獣は着地した。致命の一撃を繰り出せる間合いで、ヴァージニアとマウフルは睨みあった。

「テルマもルイーズもヴァージニアも! きっとマウフルだって、助けてって言われたいんだよ! 仕事でも収入でも子育てでも、分け合いたいって思ってるの!」

 ヴァージニアとマウフルは前脚を突っ張った。金と銀の被毛が逆立った。ほとんど現実感がないまま、多分ここで死ぬんだろうなとヴァージニアは直感していた。

「恨みをぶつけたいのって、本当にあたしなの? 本当に女なの?」

 ウグルクは、答えない。

「お互いに助けてって言いあえばよかったじゃん! これから自殺しようって時にだって、落っこちる人を助けちゃうんだよ、なにか考える前に! それが人の根っこなんだよ!」

 不意にヴァージニアは、くだらないことを思いつく。

 あのころ憧れた冒険を、夢見た日々よりもずっと楽しく過ごすための方法を、思いつく。

 とても簡単なことだった。自分よりもはるかに強大で、どうやったって勝てそうもない敵を前にしたとき、ただ一言、叫べばよかった。

「助けて!」

 ヴァージニアは、声の限りに吼えた。

 応えるように人が降りてきて、ヴァージニアとマウフルの間に着地した。

 着地した、というのはやや語弊があって、なにしろそいつはけっこうぶざまに落っこちてきたし、なんなら腹から地面に叩きつけられていた。

 痛みに呻くのは、ウグルクだった。

「えっそっち?」

 かなりびっくりしたヴァージニアの身体に、なにかが巻き付いた。ひやりと冷たい感触。巻き付いたものはヴァージニアを宙に引きずり出した。

 わずかな浮遊の後、彼女の身体は、橙色に微発光するくぼんだ足場の上にあった。なにが起きたのかは考えるまでもない。彼女は助けてと叫んだし、みんな彼女の仲間なのだ。

「追いつくまで時間かかったっスね。どんだけ落ちてるんスか」

「すげーしんどい。すげーきちぃ」

「ありがとね、ふたりとも。すっごい助かった」

 テルマとルイーズが、追いついたのだ。ルイーズのガントレットが、ヴァージニアを引っ張り上げてくれたのだ。ウグルクをぶちのめして。

「あのさ、ヴァージニア。こういうの、呑んでるときに言うべきだったと思うんだけどさ」

 アーシェラが、ヴァージニアの頭にぽんと手を置いた。

「みんなで、いっしょにやろうよ。多分そっちの方が面白いからさ」

 ヴァージニアはちょっと目を丸くしたあと、サモエドのように笑った。

「実は今、そうかもしれないなって気づいたところなんです」

「そかそか。良きだね。さあて」

 アーシェラが向けた目線の先には、マウフルとウグルク。四人と二人が、縦貫道で向き合う。

「ごめん、ウグルク」

 マウフルが言った。

「何がだよ? マウフルは俺の指示に従った。お互いに仕留めそこなった。で、合流した。それだけだろ」

 ウグルクは縦貫道を見上げた。

「グリシュナッハは……まあ、いたぶろうとしてやり返されたんだろうな。ジジイはもう、どこにいるんだかさっぱり分からねえ。つまりだ、マウフル、なにも変わってねえ。こいつらをぶっ殺す。できるな?」

 マウフルは確信を込めて頷いた。

「二人で、やる」

「おい、ちょっと感化されてんじゃねえぞ敵に!」

 ウグルクとマウフルは、笑った。

「なんだよなんかいいじゃん。楽しくなってきたじゃん」

 アーシェラがウグルクとマウフルを軽くイジった。ほんの束の間、敵対する全員に穏やかな時間が流れた。ウグルクは強くまばたきし、眼光に鋭さを宿した。

「まだ勝てるつもりかよ、アーシェラ」

「やっつけようなんて思ってないよ、ウグルク。最初からね」

 アーシェラは右手に原盤、左手にアトマイザーを持った。

「改めて確認しよっか。ここから底まで二キロ。先に降りれば、あたしたちの勝ち」

 アーシェラは両手を大きく振りかぶった。ウグルクは青ざめた。

「いいこと思いついたんだよね」

「は? おいばかなに考えてんだ、やめろ、今すぐ考え直せ、おい、おい!」

「せーのっ!」

 ウグルクの制止には当然なんの意味もなく、アーシェラは手にしたものをぶん投げた。

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