原盤

 塩の荒野は、マナニア経済史に残る大失策の爪痕だ。

 ダンジョンが痩せはじめてからというもの、官僚たちは公金を注ぎこみ、思いつくままに新たな事業を起こしては数年で撤退しつづけた。そのうちの一つが、塩害に強い綿花の栽培である。

 マナニアは白海びゃっかいと呼ばれる広大な内海に面している。その白海に流れ込む大河川を堰き止め、灌漑用水としたのだ。

 やってみて分かったのだが、綿市場はちょっと絶句するほどのレッドオーシャンだった。人類はプランテーションと呼ばれる非常に効率的な搾取装置を開発し、そこらじゅうのひとびとを次々に送り込んでは死ぬよりやや辛い目に遭わせていた。

 政府は早々に綿花事業から手を引いた。投機目当ての山師や、夢を抱いて土地を借りた農民が次々に首をくくった。

 河を堰き止められたことによって、白海はめいっぱい後退した。塩分濃度が上がりすぎて水中生物が軒並み絶滅した結果、チョウザメ漁師も完全に死滅した。後に残されたのが、かつて内海の底であったこの荒野である。

 砂混じりの塩が堆積し、動植物がいっさい存在しない、悪夢のように荒涼とした土地。ここに今、一つの灯りがともる。

 魔法陣の中心に据えられた宝珠から熱のこもった光が放たれ、震えつづけるびしょぬれの四人を包んでいる。

 三十三歳ヒューマン冒険者ギルド嘱託職員、アーシェラ。レベル6

 三十九歳狼人バツイチシンマザアラフォーワープア、ヴァージニア。レベル8。

 七十八歳ダークエルフ非正規介護職、ルイーズ。レベル3。

 二十四歳オークマナニア大学歴史学部魔法考古学科無文字魔法専攻、テルマ。レベル14。

 四人の女性は凍死寸前で上陸を果たし、息もたえだえに魔法を使い、ぐったりと力なく金庫にもたれかかっていた。

「そろそろ始めるっスよ」

「まだ寒い」

 立ち上がったテルマを、ルイーズが恨みがましい顔で見上げた。

「そりゃ寒いでしょうね。冬の夜明け前っスから」

 テルマは取り合わず、宝珠を手に取った。途端に光が失せ、圧し潰すような闇と寒さがどっと押し寄せた。

 いよいよ計画犯罪も大詰め、これよりテルマは、金庫破りをしようとしていた。

 宝珠を金庫に据え、魔法陣を描きはじめる。その筆致はやけにたどたどしく、たびたび立ち止まってはステータスボードで魔法語を検索している。

 残りの三人は、寒さに遠のく意識と戦いながら薪を拾い集め、火を熾そうと必死になった。

「え? ちょっと分かんないなこれ……あああ、CiRiim相変わらずアクセス遅すぎるんスけど」

 炭化汎魂繊維を無効化するための魔法語は非常に複雑で、専攻が違うテルマの手に負えるものではない。だが持ち前の学習センスとステータスボードによって、時間さえかければなんとかなりそうだった。王立魔法-情報学研究所学術情報CiRiimでは、象徴化された古今の学術情報が閲覧可能だ。テルマはインパクトファクター順にソートした学術誌を片っ端から速読した。

「足りるっスかね魔力、宝珠の、やばいか、まあいいや、なんとかならなかったらならなかったで私使うし、いけるいけるがんばれ、ああ? 間違えてんじゃねーか殺すぞ?」

 作業に没入するほど、テルマの独り言は曖昧かつ暴力的になっていった。残り三人は、なんの虚飾もなく言葉通り生死をかけ、ようやく点ったかすかな火を育てた。

 夜が明けるころ、直径十メートルほどの魔法陣が完成した。魔法語を継ぎ接いだ、不格好で非効率なものとなったが、完成は完成だ。

「はー、終わった……」

「おつかれ、ありがとね」

 アーシェラが声をかけた。

「ま、楽勝っスよ。じゃ、仕上げるっスから」

 テルマは強がって、杖の先端で魔法陣をノックした。金庫がきらっと閃き、礫質凝魔岩の宝珠が砕けた。

「え? なに?」

「魔力を使い切ったんスね。いい加減な魔法陣で強引に動かし続けたから。ま、足りなきゃ私を触媒にしてたっスけど」

「そんなことできるんだ! すご!」

「やったらぶっ倒れるっスけどね。“自分の血で喉を潤す”ってやつっスよ、魔法使いに言わせれば。さ、これで炭化汎魂繊維のコーティングは剥がれたはずっス。ぶっつけin situなんで保証はしないっスけど」

「へー……もっとなんかこう、浮いたり雲が割れたりみたいの想像してた」

「終わった?」

 ルイーズが、生あくびをしながら起き上がった。

「おはよ、ルイーズ。なんかできたみたいだよ。後は開けるだけ」

「うーし。ウチじゃんそれやるの完全に」

 ルイーズはハンドルに手をかけ、力任せに回そうとした。しばらくがこがこ鳴らしてから手早く業を煮やし、ガントレットの右拳で力いっぱい殴りつけた。ねじきれたハンドルが砂を蹴立てながら転がっていった。

「よし」

 どこまでも奔走する回転式ハンドルが見えなくなったところで、ルイーズは満足げにうなずいた。もうこれぐらいでは誰も動じず、アーシェラなんかは「すごい! 力が!」みたいなことを言ってルイーズをほめた。

 ハンドルごと鍵まで壊れたのは事実で、四人はとうとう、金庫の扉に手をかけた。

「せーのであけるよ、せーので。せーのっ!」

 重たい鋼の扉を、四人でゆっくりと押し上げる。果たして、金庫の中には――

「え?」

 これは四人が同時に口にした「え?」である。

 期待していたような金銀財宝の類は、なにひとつ入っていなかった。金庫内には拳を突っ込めるほどのスペースしか空いておらず、そこに一枚の板が仰々しく収まっていた。

 てのひらから少しはみ出るぐらいの、黒い直方体だ。厚さは指の半分ほど。こうしたものに、見覚えがあった。

「ステータスボードですね」

 ヴァージニアの言葉に、三人は無言で首肯する。それはどう見ても、ステータスボードだった。

「は? やばすぎなんだけど」

 ルイーズは早くも怒りはじめていた。資産家の別荘を半壊させてまで得たものが、臣民なら誰でも所有している単なる板っきれだったのだ。

「待って」

 青ざめた顔のアーシェラが、低い声で、誰にでもなくうめいた。おそるおそる、ステータスボードを掴む。手の中で、それは黒い。あらゆる可視光線を吸収し、虚無が生まれたように。

 ステータスボードがかすかに震えた。イチジクの実と花を意匠化したような紋章が浮かび上がり、すぐに消えた。

「研修で聞いたことある。これ、多分……原盤だ」

「原盤? なんスかそれ」

 ステータスボードは魔力工学分野の代物で、歴史学部のテルマにとって畑違いだ。訊ねてみるも、アーシェラは水揚げされたニシンのようにびくびく痙攣している。

 アーシェラの畏れを、誰も理解できなかった。だが、この黒い板が何かとんでもなく深刻なものなのだとは、すぐに分かった。

 マナニア臣民であれば、誰もがステータスボードを所有している。行政に見捨てられた棄民ですら、ステータスボードを手放すのは、そうしなければ明日にでも死ぬ場合に限られていた。

 あらゆるステータスボードは象徴界を通じて常時接続しており、誰もが情報を送受信できる。テルマが閲覧していたCiRiim、近隣主婦のコミュニティ、常設市でのお得な情報。公民ともに、ステータスボードがコミュニケーションの要だ。

 だがこの黒い板がステータスボードと呼ばれるのには、ごく単純な理由がある。レベルの管理だ。

 冒険者がクエストや魔物討伐などを通じて得た経験値は象徴界に吸い上げられ、ステータスボードを通じて再分配される。自分がいまレベルいくつで、どれほど経験値を溜めているのかは、ステータスボードにアクセスしなければ分からない。

 臣民管理のために、これほど効率のいいシステムは存在しなかった。故にマナニア黎明期から、ステータスボードと冒険者は一対一で紐づけられてきた。ここまでが一般常識だ。

「ふーむ、なるほど。私たちが持ってるのって、原盤をリバースエンジニアリングしたものなんスね――うわ」

 さっそくオープンアクセス情報を検索したテルマの表情が、一気に青ざめた。

「これ、とんでもないっスよ」

 その後、死にかけのニシンになったアーシェラの代わりにテルマが早口で説明したことを要約すると、以下の通りだ。

 原盤は事実上、すべてのステータスボードを管理している。

「はは、分かんねー」

 ヘラヘラするルイーズを、テルマは睨んだ。

「マナニア全臣民の情報を、原盤から読み取れるってことですよね。噂話の種には便利そうですけど」

 ヴァージニアが噛んでふくめるように言った。

「へー、やば」

 ルイーズはまだぴんと来ていなかった。

「それだけじゃないよ。全然、そんなもんじゃない」

 アーシェラの警告的な口調に、三人はふざけるのを止めた。

「たとえばさ、経験値を不正に入手しようとしたとするよ。象徴界に接続して、数値をいじったりして。普通、それができないようになってるの」

「個々のステータスボードをノードとして扱うんスよね」

「そう。ひとりの冒険者に入った経験値が正しいかどうかを、他のステータスボードが常に検証してるから」

「え、なに? きちぃんだけど。この黒いやつはどういう黒いやつなの?」

 ルイーズは置いていかれまいと一生懸命になった。

「分かりやすく言うと……あたしは研修で、こんな話を聞いたんだ。そのときは、なんかそういう教訓的なやつだと思ってたんだけど――」

 マナニアが影もかたちもない頃から、ひとびとはダンジョンに潜り、その日の糧を得ていた。まだ冒険者にはレベルが――少なくとも目に見えるかたちでは――存在せず、誰がどのぐらい強いのかは、おおむねダンジョンの到達深度によってのみ遡及的に計られていたという。

 ごく簡単に言うと、ばかが間尺に合わない無茶をして死にまくる時代だった。

 ある日、どこかのだれかが、のちにステータスボードと呼ばれるアーティファクトを手に入れた。その黒い板は象徴界にアクセスし、象徴化された情報を人間に分かる形へと変換して画面に映し出す、一種の逆アセンブラとして働いた。このとき人類は、レベル、経験値、ステータスを発見したのだ。

 それは、魂の持つ情報を逆コンパイルしたものだった。輪廻転生の際に参照されているようだが、詳しいことは分かっていない。大事なのは、冒険者にとって、レベルが分かりやすい指標となったことだ。このアーティファクトは冒険者ギルドによって管理され、あらゆる階層のあらゆるクエストに推奨レベルが併記された。ひとびとは、自分に見合ったクエストを受注できるようになった。こうしてダンジョン経済が花開いた。

 だが、いつの時代にも抜け目のない悪党がいる。そいつは、象徴化された経験値が個人の魂と紐づくまでのタイムラグを発見した。経験値が誰のものでもない瞬間があるのだ。長い歳月を重ね、悪党は魔法を確立した。宙に浮いた経験値が、すべて自分に配分されるよう情報経路をいじくった。

 何が起こったかと言えば、当然、悪党のレベルばかりが信じられない速度で上がっていった。寝ているだけでどんどん強くなっていったそいつは、しばらくの間、勇者と呼ばれた。レベルに任せ、たった一人でダンジョン未踏領域を切り開き、国家に膨大な富をもたらしたからだ。

 やがて勇者は、野心を抱いた。暴力で国を支配し、手近な土地を片っ端から平らげ、中つ原に覇を唱えた。あまりにも好き放題やったので、勇者はそのうち魔王と呼ばれるようになった。魔王軍の旗印は、原盤に浮かぶイチジクの実と葉。爾来、イチジクは禁断の果実とされるようになった。

 その後、地形を変えるほどのなんやかんやがあって、ともかく魔王は無事に討伐された。こうした悲劇が繰り返されないよう、不正監視のシステムを織り込んだステータスボードが開発されたのだ。そして現在に至る。

 この話は、冒険者ギルドに入社した職員が研修初日で聞かされる。アーシェラはこれまで、よく言っても寓話か、冒険者ギルドの素晴らしさを吹き込むための与太話だと思っていた。

 ところが、その与太話でギルドの古老に聞かされた、

「無花果を刻む漆黒の原盤……やがて世界に恐怖を振りまくとは……誰も知る由が無かったのだ……」

 みたいな情感たっぷりの語り口と、目の前にあるものが留保の余地なく合致していた。壁に埋め込んで厳重管理していたという事実が、今となっては事実のたしかな重さを感じさせた。

「やば!」

 ようやくルイーズも、ことの重大さに気づいた。うまいことやれば世界征服だって可能なアーティファクトが、手元に転がり込んできたのだ。

「え、え、すげーやべーじゃん。エステル、魔王になろうとしてたってこと?」

「そうも考えられますね。いかにもって感じです」

「じゃあウチらが魔王になるってこと? やだ!」

「あほなんスか」

「なんも良いことなさそうだしね、魔王。でもさ、本当にどうしようか」

 これが実際に原盤だとして、魔王になるのもいいかげんなところに売り飛ばすのも論外だ。四人はまず人生から、次いでこの国からばっくれようとしていただけで、世界全部に迷惑をかけようとは思っていない。

「うん、いいこと思いついた。なんかうまいことしようよ、せっかくだしこれ使って。たとえば、あたしたちの魂をちょいちょいっていじって、めっちゃレベル上げるとか」

「そうすれば、国境は越えられますね」

 おおもとの計画を大きく損なうことなく達成できる。金がレベルに変わっただけだ。

「できんの? やべー魔法いるんでしょ?」

「私には無理っスよ。そもそもこれ、本当に原盤なのかも分かんないし」

「分かんないけど、なんかできたらいいなーぐらいのさ」

「確かめてみましょうか」

 やおらヴァージニアが言った。

「あてがあります。ダンジョン街に住んでいる、変わり者の魔法使いなんですけど」

 ダンジョン流通の仕事をしている内に知り合った老人だという。ヴァージニアとは定期便契約を結んでおり、日用品から得体の知れない呪具まで運んでいた。

「もとは大学の教授だったそうですよ。セルジュ・クルツコ。テルマ、ご存知ですか」

 テルマは頬を指でさすった。

「ぼんやり聞いたことあるっスね。いつだったかな、学部生のときの合コンかな。魔力工学の泰斗らしいっスけど」

「わたしも詳しいことは知らないんですけど、ステータスボードがどうとかいう件で公安につかまって、大学から追放されたとか」

「ああ、思い出したっス。第五世代ステータスボード開発中に仕込んだバックドアを、外さずに出荷したんスよ。よくある凡ミスっスね。幸い、ほとんどが出荷前リコールで回収されたらしいっスけど。僅かな出荷分にはプレミアがついて、好事家が――」

「やべえきちぃ」

 ルイーズが頭をかいた。

「えとつまり、ステータスボードの開発に関わっていて、詳しい人ってことだよね」

 アーシェラが要約すると、ルイーズはようやく話を呑み込めたようだった。

「ガチの人じゃん」

「そういうことになるっスね。見込みはありそうっス」

「じゃあ、会いに行ってみよっか」

 三人が頷く。

「ダンジョン縦貫道を使いましょう。慣れた道ですから、わたしが案内しますよ」

「よーし! 今度こそ国境越え! がんばろ!」

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