亡霊は音もなく走る3

 建設途中のまま放置された橋の脚が見えたところで、年若い執事は小さく声を上げた。


「ノキ、あれ!!」


 上空を滑る、顔ほどの大きさの白い影。


 連なるそれが、音もなく視界を横切る。


 のっぺりとしたそれは月明かりに照らされ、青白く光を放っていた。


 ひとつ。

 ふたつ。

 みっつ、と数えたところで、影の滑る速度が上がる。


 一軒の窓へと吸い込まれた白い影を、サミュエルは唖然と目で追った。


「な、なんだったんですか!? 今の!!」

「亡霊の正体だよ」


 気軽に笑ったノキシスが、件の家の扉を叩く。


 どんがらがっしゃーん!!

 ドドドッ!! ごいいいんっ!!!


 扉の向こうから聞こえる激しい音に、顔色を悪くさせたノキシスがサミュエルを振り仰ぐ。

 ふるふる首を横に振った執事は、そっと主人を背に隠した。家主の到来を待つ。


「お、お、お、お待たせ、しま、した……」


 うっすらと扉を開けた人物は、重たい眼鏡をかけた、ボサボサ頭の青年だった。

 何をどうしたのか、片足をバケツに突っ込んでいる。


 曲者が現れた。サミュエルは固唾を呑んだ。


「夜分に失礼します。少々お尋ねしたいことがありまして……」

「面白いことをしているね。詳しく聞きたいのだが、構わないかね?」

「リョウシュサマアアアアアアッ!!!!」


 ひょこりと顔を覗かせた領主に、飛び上がった青年が、がらがらどっしゃーん!! 更なる騒音を轟かせた。






「じ、実は小生、しょ、小説を書いてい、るであります……」


 必死に頭を下げる青年ノルベルトは、か細い声をしぼり出した。


 お茶を淹れようとした彼を懸命に引きとめ、代わりにサミュエルが他人の家のキッチンで茶を沸かす。

 全ては更なる惨事を防ぐためだった。


「小説、ですか」


 ふたつの茶器を運んだサミュエルが、それぞれを青年と主人の前に置く。

 こくこく頷いたノルベルトは、「恥ずかしながら……」頬を真っ赤にさせた。


「小説か。是非とも読んでみたい」

「とっとととととんでもありません!!!」


 にこにこ笑うノキシスに、青年が文字通り飛び上がる。

 本好きの領主は、しょぼんと肩を落とした。


「そうか……。続けてくれたまえ」

「そ、それで、その、……インクが、……乾か、なくて……」


 ノルベルトは語った。

 折角書いた原稿のインクが乾かず、うっかり重ねて絶望した日々を。


 紙同士が張りついてしまい、泣いた日も多かった。

 慎重にはがしたとしても、文字が滲んでしまい、とてもではないが読解できない。


 洗濯物よろしく原稿を吊るも、あっという間に部屋中を紙が埋め尽くす。

 足の踏み場ならぬ、身動ぎする隙間もない。


 このままでは、凝り固まった身体の節々が石膏のようになってしまう!


 ――他の部屋に干す?


 移動する時間がもったいない!

 一刻も早く溢れ出る言葉を紙面にしたためなければ、流れ出る水のように落ちてしまう!


「小生はこの右手がもげようと、息をするように文字を綴りたいのであります!!」

「は、はあ……」


 猛々しいノルベルトの熱弁に、サミュエルは肩を引かせた。

 さっきまでのおどおどとした青年はどこへ消えたんだ? 少年は大人しく黙る。


 悩み尽くしたノルベルトは、ひらめいた。

 部屋の中だけではなく、原稿を外へ干せばいいのだと!


 名案とばかりに彼は橋の脚によじ登り、自身の部屋の窓と梯子をロープで結わえ付けた。

 ロープを輪にすることで、くるくると原稿を取り込める寸法だ。


 しかし、ここに問題点がある。

 ノルベルトは、極度の恥ずかしがり屋だった。


 日中、人目につく時間帯に、この手段は使えない。

 また、人目を避けた夜間だとしても、取り込んでいる最中に人影を見てしまえば、動揺して慌てて原稿を回収してしまう。


 ははーん。フォードマンたちが見たのは、慌てたノルベルトが必死に回収していた原稿だな?

 サミュエルは、うんうん理解した。


「ロープは、毎回回収しているんですか?」


 執事の問いに、ノルベルトがこくこく頷く。


「錆び、が、……落とさな、いと、原稿が、汚れてし、まうので、あります」

「なるほど……」


 錆びだらけの梯子を思い出し、サミュエルの中の疑問が解消する。

 優雅にお茶を飲んだノキシスは、僅かに頬を膨らませた。


「恐らく梯子のどこかに、錆びのはげている箇所があると思ってね」

「……いや。登らせませんよ?」

「わかっているとも……」


 しょんぼり、肩を落とした領主がお茶をすする。

 話し終えたノルベルトは、もじもじと俯いた。


「そ、それで、……小生に、罰則があ、るのでありますか……?」

「いや。あの梯子は危ないからね。出来れば使わず、室内を利用してほしい。わたしは、きみの作品を読んでみたいからね」

「あっあり、ありがたき、幸せ……ッ!!」


 勢い良く頭を下げた青年が、ゴチンッ!! 額をテーブルに強か打ち付ける。

 響いた痛そうな音に、梯子の利用を止めてよかった……。領主と執事は揃って胸を撫で下ろした。

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