ワインの雨2
「空からワイン?」
昼食の時間帯を終え、客足も疎らになったパブリック・ハウスの店内にて、店主ゲーテが不思議そうに復唱する。
グラスを磨く彼の手は止まらず、一見すると洒落たバーのマスターのような渋さがあった。
カウンターに頬杖をつくノキシスが頷く。
彼のワイシャツはひとり息子のエリアスから借りたもので、小柄なおじさんには少々ぶかっとしていた。
元々彼の着ていたワイシャツは、ゲーテの妻が染み抜きをすると持って行っている。
ため息をついたノキシスへ、ゲーテがアイスティを差し出した。
「眼鏡屋の店先のテントから、赤い雫が滴ってきてね。丁度わたしの頭に落ちて、妙な誤解を与えてしまったよ」
「仕方がありません。顔の右半分が真っ赤な状態で担ぎ込まれれば、誰だってぎょっとしますよ」
ゲーテが苦笑する。
扉を破らん勢いで担ぎ込まれた領主の、白い髪と肌を染めた赤い色は、中々に衝撃的な印象を残した。
重たくため息をついたノキシスが、汗をかくアイスティに手を伸ばす。
カラン、不揃いな氷が音を立てた。
「それにしても、テントにワインを飲ませるなんて、豪胆な人物がいたものだ」
「領主様はワインはお好きですか?」
「好きだよ。下戸だがね」
にこにこ、ノキシスが眼鏡をハンカチで拭う。
新品の眼鏡は、早速ワインの赤色で汚れていた。
「新調されたのですか」
「ああ。似合うかね?」
「サミュエルが反対したでしょうに」
「あの子はわたしに夢を見過ぎているよ」
ずれる眼鏡をかけ直し、領主が困ったように笑う。
のほほんとしている彼が、顎の下で手を組んだ。
「わたしには、ぼんくらが丁度いいよ」
「わたくしどもは、あなた様を慕っております」
「ありがとう。せめて監査の前では、最低最悪な領主だと吹聴してくれたまえ」
「御意に」
グラスを置いたゲーテが、恭しく礼をする。
店の外が次第に騒がしくなり、乱雑に扉が開けられた。
現れたのは、ぐったりといった面持ちのサミュエルとエリアスだった。
「ダメでした……」
「屋根の上まで登ったんすけど、赤い染みひとつ見つかんなかったんすよ」
「また奇怪なことになってるあるな」
若くて背が高いといった理由だけで、空から降ってきたワインの調査をさせられた若人ふたりが、疲れ切った様子で椅子に座る。
うさんくさく半眼を作ったノキシスは、グラスの縁を指先で叩いた。
「どういうことある?」
「まず、周囲の建物の高さを見ました。オリバーさんの店の屋根より高いところから、ワインが零されたのではないかと思って」
ゲーテが注いだ水を受け取り、サミュエルが説明する。
エリアスもグラスを傾け、大きく息をついた。
「ですけど、周囲の屋根の高さはおろか、窓の高さまで揃っていたんです」
「考えたら、こんな田舎町にアパートとかないっすよね」
「わたし含めて、おめーら全員田舎者ある」
牧歌的でモノトーンの木組みの家は、はたから見ると愛嬌がある。
三角形の屋根は雪を落としやすい設計で、長い冬の季節に備えていた。
眼鏡屋ことオリバーの店も同様の造りで、3階建ての建物は古くからベーレエーデを飾っている。
外壁がモノトーンで統一されているのは、歴代の領主が領民を抑圧するためだ。
色さえ自由に選ぶ権利を与えない精神。
本家の教えに、ノキシスはげんなりしていた。
「テントは1階にかかっているある。上の階から降らせられねーか?」
「俺たちもそう考えました」
2階から見下ろせば、店先を飾るテントなど真下だろう。
ノキシスの疑問に、サミュエルとエリアスは顔を見合わせた。
「例えばなんすけど、高い位置から液体を零したら、こうやって周りに飛び散るじゃないっすか」
立ち上がったエリアスがカウンターの向こうへ手を伸ばし、水の入ったボトルを掲げる。
テーブルに置かれたグラス目がけて、立ったまま水が注がれた。
辺りに飛び散った水滴から、身を引いたサミュエルが逃げる。
店主ゲーテが、ひとり息子へふきんを差し出した。
エリアスが大人しくテーブルを拭く。
「この、飛び散ったあとがなかったんっすよ」
「乾いたのではないのかね?」
「そうなると、余計に染みがひどく残ると思います。何せ、ワインですので」
サミュエルが取り出した白いハンカチに、べったりとついた赤い染み。
ノキシスの顔を拭ったそれは、主人が浴びた分だけのワインを吸い取っていた。
「つまり、ワインは滴っていたが、発生源がわからないということだね」
「そうなります」
「オリバーに確認は?」
「オリバーさんも驚いていました。あの人、木材を扱うので、商品にかかると困るといっていました」
「そうか」
ふむ。顎に手を当てた領主が、はたと「ある」忘れ去っていた語尾を引っ付ける。
とんとん、指先で頬を叩いた彼は、徐に立ち上がった。
「わかった。確認を取ろう」
「どこへですか?」
「さてね」
マイペースに扉を押し開けたノキシスが、かららん、ドアベルを鳴らす。
慌てて立ち上がったサミュエルは、急ぎ足で彼を追いかけた。
「……ノキさんって、普通にしてる方がモテそうだよな」
「言ってあげないでおあげ」
ぽつりと呟いたエリアスは、残された3つのグラスを片づけた。
*
「ノキ、何かわかったんです?」
再び眼鏡屋の前までやってきた領主と執事が、木組みの家を見上げる。
四角い窓の下には花と緑が植わり、モノトーンの中に清涼感を加えていた。
3階建ての建物は、上にいくほど徐々に通路側へせり出し、ちょっとした圧迫感を与えている。
現在、赤い雫は止まっているらしい。
テントの下に置かれたバケツは、水面を静かにさせていた。
「サミュ、きみはルーブ・ゴールドバーグ・マシンを知っているかね?」
「なんですか、それ」
「ピタゴラ的装置といった方が、馴染みがあるかな?」
耳慣れない単語に不思議そうな顔をしたサミュエルを、ノキシスがにんまり笑う。
隣接する木組みの家を指差した彼が、「あれだよ」囁いた。
黒い三角屋根の下、白い壁に、縦へ横へ斜めへと黒い木材が走っている。
一棟一棟異なる木組みの配置は、統一された景観に個性を与えていた。
そんな中、眼鏡屋の隣に立つ家の木組みに、違和感を見つける。
やけに出っ張った華奢な木材の乱立に、サミュエルは目を細めた。
……ボールを落とす知育おもちゃのようだ。
「……なんですか、あれ」
「直接伺おうじゃないか」
「あっ、ノキ!」
止める間もなく、りりりん、ノキシスがベアベルを鳴らす。
直後、扉を開けた家人が、「領主様がうちにいいいいい!!!!」悲鳴を上げて倒れた。
一通り介抱し、領主はしょぼんと、年若い執事の後ろに隠れた。
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