ワインの雨1

 システィーナから届いた手紙を破り捨てたオーティスが、その険しい顔を凶悪にさせる。

 手紙には、「本物のエクソシストになるため、修行してきます」といった内容が記されていた。

 それはまさに、彼の愛しの妖精ノキシスから、憎きサミュエルを引き離す作戦が失敗したことを物語っていた。


 憤慨するオーティスが重厚な執務机を拳で殴る。

 あまりの剣幕に、控える使用人等が取り繕った顔の下で冷や汗をかいた。


「おのれ、ただでは済まさんぞ……」


 吐き捨てられた声は、地を這うような忌々しいものだった。


 こうしている間にも、サミュエルはノキシスとともにいる。

 何だったら執事という立場上、彼はノキシスの着替えだって手伝える。


 着替え……?


 はっと思い至ったオーティスが、その厳格な顔を嫉妬に歪ませた。


 ――俺でさえ、衣一枚めくったことがないというのに!!


 ノキシスが知れば、迷うことなくちょっと専門的な病院を紹介しただろう。

 歯噛みするオーティスは激昂のまま机を殴った。

 どすり、鈍い音が上がる。


 荒れ狂う主人の姿に、使用人等が震えた。

 どうやら次期当主最有力候補であるオーティスは、ノキシスのことを心底嫌っているらしい。

 蒼白な顔の使用人等の間を駆け抜けた憶測は、一夜にして邸宅中に知れ渡った。






 ふふんとドヤ顔を決めたノキシスが、新品の丸眼鏡を押し上げる。

 オーティスによって握り潰された先代眼鏡を彷彿させるうさんくさい仕様に、サミュエルはげんなりとため息をついた。


「やっぱり、これでこそわたしある!」

「欠片も似合ってませんけどね」


 ご機嫌な主人とは裏腹に、不満そうな年若い執事が頭を振る。

 にこやかに笑った眼鏡屋の店主が、ふきんで手を拭いながら口を開いた。


「お気に召していただけて、何よりです」

「さっすがオリバーある! 今度はきちっと大事にするよー」

「調子が悪くなったら、いつでも持ってきてください。修理します」

「わかったある!」


 鏡を覗き込んでうさんくささを確認したノキシスが、晴れ晴れとした笑顔で頷く。


 こじんまりとした店内は、眼鏡よりも時計がひしめいていた。

 ポッポと飛び出した鳩時計をサミュエルが見上げる。


「面白い時計ですね」

「ありがとう。オルゴールがついているものもありますよ」


 柱時計にかけられていたぜんまいを手にしたオリバーが、文字盤の中心にぜんまいを差し込む。

 迷いのない手付きでくるくる回した。


 かちん、音を立てた柱時計の中身に明かりが灯り、中に収められた木製の人形が動き出す。


 月夜を背景にした舞台はガス灯に照らされた情景を描き、シルクハットを被った人形が手回しオルガンを回す。

 その仕草に合わせてオルゴールが音を立て、ノスタルジックな曲を奏でた。


「わあっ、すごいですね!」

「マリアが好きそうなやつある」


 サミュエルが感嘆の声を上げ、ノキシスがまじまじと柱時計を鑑賞する。

 照れたようにはにかんだ店主が、忙しなく前髪を梳いた。


「その、からくりを作るのが好きなんですよ」

「これすごいあるね。よく出来てるある」

「ただその、……作りこみすぎてしまって、中々売れる値段にまで落とせないんです……」

「……確かに、庶民のお財布には、ちと厳しいある」


 がくりと肩を落とすオリバーを横目に、手書きの値札を目にしたノキシスが苦い感想を述べる。

 ゼロの数の多いそれに、サミュエルはげっと口許を引きつらせた。

 領主が扇子で自身の肩を叩く。


「こんな田舎町で商いするより、もっと都会の富裕層を狙った方が売れるある」

「いえ! 僕はこの町に骨を埋めるので!!」

「もったいねーある……。ま、気が向いたらいつでも言うよろし。紹介状くらい書いてやるある」

「あっ、ノキ!!」


 ひらりと片手をあげたノキシスが、かららん、ドアベルを鳴らす。

 慌てた店主の見送りの言葉を背景に、閉じかけの扉を開いて、サミュエルが飛び出した。


 外の明るさに立ち止まるノキシスは、眩しそうにうつむいていた。

 彼より背の高い執事が主人を見下ろす。


「……ノキ? 大丈夫です?」

「平気ある。この頃日差しが凶悪ね。眩しくてしょぼしょぼするある」

「まあ、暑くなりましたし。……あれ?」


 ノキシスのワイシャツを汚す赤い染みに、はたとサミュエルが気づく。

 湿り気と水玉を残すそれは付着したばかりのようで、少年は怪訝そうに主人の肩を叩いた。


 顔を上げたノキシスの頬を、つつ、と赤い雫が滑る。


 髪も肌も白い彼に、その色は目立った。

 どうやら額から垂れているらしい。

 顎まで滑り落ちた赤色が、ぽとりとワイシャツに滴った。


 ぎょっとしたサミュエルが咄嗟にハンカチを取り出し、ノキシスの顔へ押しつける。

 それにびくりと肩を跳ねさせた領主が、衝撃に眼鏡をずらせた。


「ノキ!? どうしたんですか!?」

「なにがだね!?」

「血が!!」


 おろおろと慌てる執事の姿に、手のひらで額を拭ったノキシスが瞬く。

 次いで頭上を見上げ、慌てて目を閉じた。

 彼の額に、新しく赤い液体が跳ねる。


「上から降ってきているようだね」

「血の雨ですか!?」

「恐ろしい天気だね。……ワインのようなにおいがするが……」


 すん、鼻を鳴らしたノキシスが、水っぽい赤い液体のにおいを嗅ぐ。


 店先でおろおろする彼等に、通行人等の視線が集まった。

 彼等が一様に、サミュエルと同じくぎょっとした顔をする。


「ノキさん!? 怪我してるのかい!?」

「誰か医者を!」

「大丈夫か!? 何があったんだ!?」

「な、なんでもない! 少し汚れただけだ!」


 町の人々に詰め寄られ、困り果てたノキシスが頭上を指差す。

 店先を飾るワインレッドのテントから滴る赤い雫に、彼等が違った意味で慌てふためいた。


「誰か怪我してるのかい!?」

「い、医者を……!!」

「血の雨か!? まさか、怨霊の仕業か!?」

「た、大変だ!! 早くゲーテさんに知らせねえと!!」


 あれよあれよと、まとめ役ゲーテの経営するパブリック・ハウスまで連れていかれたノキシスは、諦め切った顔で、大人しくしていた。

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