城壁の亡霊はチュンと鳴く3

 石造りの廊下は暗く、カンテラがなければ足許も覚束ない。

『窓』などという侵入経路を、当時の領主は設けなかったらしい。

 閉塞感のある建造物は右に左に上下にうねり、枝分かれして行き先を惑わせる。


 カンテラを持つサミュエルは縄梯子を担ぎ、ノキシスは一本のリードを手首に巻いていた。

 繋がれていたのは、毛足の長いもふもふの犬だった。へっへと舌を出している。

 ノキシスはにこにこだ。屈んでラフコリーをわしわし撫で、毛並みを堪能している。


「時々ノキの服から動物の毛が見つかるの、こういうことだったんですね」

「シリウスの気まぐれで、散歩を任せてもらえるからね」

「あるある口調を忘れるくらい、犬派ですか?」

「ノキさん、犬も猫もだいすきあるー!」


 わざとらしく咳払いし、領主が立ち上がる。

 ゆったゆったと尻尾を振っていたコリー犬が彼を見上げ、次いでサミュエルへ顔を向けた。


「さあ、とっとと行って、おばけをぎゃふんと言わせるある~!」

「ノキ、無理に語尾つけなくていいですよ」

「無理じゃねーある!!」


 ふたり分の靴音と、犬の四つ足の音が狭い廊下に反響する。

 サミュエルは警戒するように周囲に気を配り、ノキシスはゆんゆん揺れる犬の尻尾をにこにこ見ていた。

 是非、明るい外で見たいものだ。領主の内情は平和である。


 過去の探索で記された壁の記号を頼りに、ふたりと一匹が廊下を曲がる。

 ぴたり、犬の足が止まった。


「どうしたのだね? ジャック」

「犬の名前ですか?」

「そのようにシリウスが呼んでいたんだよ」


 へっへと息を弾ませる犬まで屈み、ノキシスがふかふかの頭を撫でる。

 ふと、サミュエルの耳が空気の揺れる音を感じ取った。


「の、ノキ!!」

「ん?」


 不思議そうに小首を倒したノキシスへ、サミュエルが唇の前に「しっ!」と人差し指を立てる。

 ――チューン

 尾を引く高い音に、ノキシスは立ち上がった。


「なるほど。確かに『ちゅん』と聞こえる」

「あわわ……っ、これが怨霊の声……!?」

「どうだろうね。まだ音の発生源から遠いようだ」

「まさか近づく気ですか!?」

「さてね」


 リードを引いて促すと、コリー犬ジャックの前足が動いた。

 てちてち弾むおしりが前進し、時折くるりとノキシスへ顔を向ける。

 ご機嫌に散歩する領主とは対照的に、執事は渋面だった。


 ――さてね、なんて、そんな!

 何でこの人、こんなに危機感がないんだろう!?

 ノキが呪われたらどうしよう。エクソシスト派遣してもらえるのかな!?


 悶々と悩むサミュエルの左手が、不意に強く引っ張られる。

 あだっ、聞こえた主人の声に、少年は即座に反応した。


「ノキ!?」

「だ、大丈夫だ。つまづいただけだよ」

「本当ですか!? 怪我とかしてません!?」


 昼なお暗い暗闇に浮かんだカンテラの明かりのみでは、ノキシスの身に起こった異常を感知することができない。

 肩より伸ばされたノキシスの白い髪が、首を振る仕草に合わせて揺れた。


「ああ、大丈夫だ。手を引いてもらっていて助かったよ。さあ、先へ急ごう」

「ッ!」


 ノキシスの声に、おかしな音が被さる。


 ――チューン、チューン


 はっと周囲を見回し、領主が犬を連れて走り出した。


「こっちだ!」

「待ってください、ノキ! 呪術とか呪いとかって、まだ世の中に横行してるんですよ!? ひとりで突っ走らないでください! エクソシストの派遣予約もしてません!!」


 ただでさえ迷いやすい場所で、明かりもなく主人が単独行動に走る。

 ぞっとしたサミュエルが、必死にノキシスを追いかけた。

 少年の伸ばした手が、領主のジャケットを掴む。


 ばうッ、ばう!! ジャックがしきりに吠えた。

 ――チューンッ! チューンッ!! 鳴き声が大きくなる。


 ノキシスが小さく悲鳴を上げた。サミュエルの腕が、ノキシスを引き寄せる。暗闇が迫った。


「くちゅーんッ!! はっくちゅーん!! ずびッ」


 高いくしゃみの音が、誰もいない部屋に響いている。


 カンテラを高く持ち上げたサミュエルが、ノキシスをしかと握りながら、辺りを見回した。

 主人の歩く方向に合わせて足を動かし、一段と闇の深い足許目がけて吠えている、コリー犬の元まで向かう。


「ばう! ばう!!」

「ひっ、犬!! もーっ、やだあ~! 人間に会いたい~!!」


 高い女性の声だった。

 くしゃみと鼻をすする音を混ぜ合わせ、うわああん!! 泣いている。


 そおっと大穴を覗き込んだノキシスが、口の横に手を添え、そろそろと声をかけた。


「……大丈夫あるか?」

「人!? 人ー!!! お願い、助けてーッ!!」


 床に空いた穴の下。

 牢屋として設計されたのだろう、床下の小部屋から、ひとりの女性が両手を伸ばしていた。

 唖然。サミュエルの表情を表現するなら、その言葉が適切だろう。

 彼はその端麗な顔を、ぽかんとさせていた。






「あたし、田舎から出てきてぇ、それでベーレエーデの領主様に仕えたいって、お城に入ったのだけど、誰もいなくってぇ、迷路で、穴に落ちて! ぐすっ」

「ほーん、そうあるかー」


 みんなの憩いの場であるパブリック・ハウスこと、エリアスの店に来た一行は、先ほど救出した女性から話を聞いていた。

 数日間の泥汚れなどを借りた風呂で一掃し、涙や鼻水でどろどろだったメイクを隙なく仕上げている。

 ピンクの髪をツインドリルにした彼女は、たわわな胸をしていた。


 このパブリック・ハウスの店主であり、まとめ役でもあるゲーテが、女性の前に水を置く。

 すかさず飲み干した彼女は、よっぽどお腹がぺこぺこだったらしい。

 スープスプーンを握った手を離さず、 目の前に置かれたシチューをかき込んでいる。


「それでぇっ、あたし、昔っから動物がダメでぇ、かわいいんだけど、くしゃみが止まらなくなっちゃって!」

「難儀あるねー」

「『ちゅん』って、くしゃみの音だったんですね……」


 ただでさえ無機質な廊下は、エコーがかかりやすい。


 行儀悪く椅子の背もたれで頬杖をついたノキシスと、彼の隣にぴしりと立つサミュエルが、同時に嘆息する。

 カウンターに立つエリアスが、不思議そうに首を傾げた。


「つまり、どういうことなんすか?」

「城壁に、奇妙な鳴き声の生きものが住み着いたと相談されたある。ルーゲン神父に話を聞いたところで、やつが怪談を盛り込んだある。そこから城壁に住むのは怨霊だと話がこじれ、サミュがびびり、あだっ」


 顔を真っ赤にさせたサミュエルが、ノキシスの座る椅子を蹴る。

 エリアスがにやにや笑った。

 友人の悪い顔に、サミュエルがぎろりと剣呑な目を向ける。


 一方、『怨霊』の言葉に飛び上がったのは、シチューをかき込んでいた遭難者だった。


「お、怨霊なんていたのぉ!? もしかしてあたし、一緒の時を過ごしてた!? むりいいいいい」

「多分神父の作り話よ。話の途中で、娘っこが戻っていたある。好奇心旺盛な小娘が城壁に向かわねーように、即興で怪談をでっち上げたにちげーねえある」


 ひらひら、気のない調子でノキシスが手を振る。

 口を噤んでいたサミュエルが、はたと疑問を発した。


「じゃあ、何でノキ、何もないところでつまづいたりなんかしたんですか?」

「運動神経抜群のサミュに、3ミリの段差で転ぶ年寄りの気持ちがわかるわけねーある」

「お労しいっすね」


 エリアスが憐れんだ目で領主を見詰める。

 けほんっ、わざとらしく咳き込んだノキシスの足許を見遣り、まとめ役のゲーテが瞬いた。


「ノキさん、左のズボンの裾が汚れているよ」

「げっ、マリアにごめんなさいするある……」

「……え? ノキ、あのとき本当につまづいたんですか? 何でズボンの左側だけ一周ぐるんと泥まみれなんです? 靴ぴかぴかじゃないですか。何でそんな局地的に汚れてるんです? え?」

「ゲーテ! あとはよろしく頼むある!!」


 がたーん!! 立ち上がったノキシスがカウンターに金銭を置き、そそくさと店をあとにする。

 慌てて追いかけるサミュエルの声が、閉じる扉に合わせて遠退いた。


 リスのように頬いっぱいにパンを詰め込んでいた遭難者の女性が、はっと顔を上げる。


「そう、領主様! ねえ、領主様はどこ!?」

「さっきのお人だよ」

「まさか、あるある言ってた人!? そ、そんな!!」


 パンを手にしたまま、椅子を蹴って女性が立ち上がる。

 店から飛び出した彼女が、領主様ああああ!! 叫んだ。


「いやはや、これは荒れるな」

「サミュ、ふぁいとー」


 取り残されたパブリック・ハウスの親子が、他人事のように呟いた。

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