少年の初恋が悲劇を生む3

 29歳ノキシスが、困惑のまま瞬きする。

 長い白睫毛が上下する様は、オーティスにとっては天使のはばたきにも匹敵するものだった。


「……オーティス? 眼鏡を……」

「ふ、ふん! こんなもの、必要ない!」


 ——今度ノキシスに似合うかわいい眼鏡をプレゼントしよう!!

 オーティスがひしゃげた眼鏡を胸ポケットへ突っ込む。

 彼のノキシスから奪い取ったコレクションが、またひとつ増えた瞬間だった。


 一方、ノキシスはひっそりとため息をついていた。

 帰り道はサミュエルに連れて行ってもらおう……。彼が眼鏡を諦める。

 それより、この苦痛な空間から早く出ることが先決だ。

 ノキシスは、オーティスの片思いに全く気づいていない。


「……それで、何の用かな?」

「お前の報告書に、不審な点があった」


 これまでの緩み切った表情を引き締め、オーティスが厳格な声を発する。えへんっ、咳払いもされた。

 対照的に、ノキシスはげんなりしていた。


 ノキシスはそれはそれは気を張って報告書を仕上げている。

 全ては本家へ近づきたくないためだ。


 しかしノキシスの思いとは裏腹に、オーティスはノキシスに会いたい。

 結果、ノキシスが作成した書類にイチャモンをつけ、こうして彼を呼び出していた。

 ……当然この点も、ノキシスの中でマイナスポイントになっている。報われない。


「それはそれは、毎度のことながらよく見つけるね」

「俺を侮るな」


 底冷えする声を浴びせられ、ノキシスが肩を竦める。


 もうひとつ、ノキシスは報告書にウソを書いている。

 有力者であるオーティスに目をつけられることは、彼にとって死刑宣告に他ならなかった。


 ――未だ泳がせられるということか。

 彼もわたしの行いに勘づいているだろうに、人が悪い。


 胸中でノキシスが悪態をつく。

 ここで決定的なすれ違いが起こっているのだが、正せるものが誰ひとりとしていない。

 お互いが全く別方向へ深刻になっている。


 表面はにこやかに、ノキシスは微笑んだ。


「さて、どこかね?」

「ここだ」

「……失礼」


 オーティスが書類を掲げるも、ノキシスの視界は覚束ない。眼鏡がない彼の目には、「なんか白っぽいものがひらひらしてる〜」程度にしか見えていない。

 さっさと帰りたいノキシスはテーブルに手をつき、よいしょと身を乗り出した。

 がたんッ!! オーティスが反射的に下がる。


「お、おお前ッ! 急に何を!?」

「修正箇所の確認だが?」


 間近に迫った想い人の顔に、オーティスの挙動が不審になる。

 焦点を絞るため目を細めたノキシスが、さらに距離を詰めた。

 ずいっ、遠退く書類をノキシスが追う。

 彼の手が、ソファテーブルの縁を踏み外した。


「あだっ!?」

「!!!!」


 突如自分の膝に落ちてきた片思いの相手に、オーティスの心臓が飛び跳ねる。

 ぎこちない動作で下を向くと、白い頭が膝に乗っていた。びしり、彼が硬直する。


 対して、ノキシスはテーブルの縁で思いっきり膝を打ち付けていた。

 痛みに苦しんでいる最中だ。

 声なき悲鳴を上げ、上質なオーティスのジャケットを握り締める。


 まさかその悶絶する姿にモエモエされるなど、1ミリだって予想しなかっただろう。

 オーティスの震える手が、ノキシスの肩に乗せられた。


「っ、すまない、オーティス。すぐに退こう」

「……いい」

「は?」


 唖然、ノキシスが顔を上げるが、残念。彼の眼はくもっている。

 壮大な誤解を抱かれ、いいにおいと堪能されていることなどつゆ知らず、起き上がろうとじたばたしていた。


「いや、離してくれないか?」

「俺を枕代わりにするなど、お前くらいだ」

「だから離してくれと。いや、すまない。横着をしたわたしの責任だ」


 ソファに手をついたノキシスが、あっさり身を起こす。オーティスは残念そうだ。

 気づかないノキシスは慎重にテーブルから降り、行儀の悪いことをしたと内心で深く反省していた。


「悪いが、眼鏡がないと文字が見えないんだ。返してくれないのなら、わたしに出来る仕事はない。ベーレエーデで確認し、後日郵送しよう」

「…………」

「オーティス?」

「……ああ」


 ノキシスが首を傾げる。

 普段なら嫌味の3つ4つは重ねてくるだろうオーティスが、上の空な返事しかしない。


 ……まあ、いいか。

 これを言質に、とっとと領地に帰ろう。

 明日の朝一でこの地を立とう! わーい、やったー!!


 ノキシスの胸中はご機嫌だった。

 例えその上の空な話し相手の脳内で大変なことになっていようとも、彼には確認する術がない。


「では、失礼するよ」


 内心うきうき、ノキシスが踵を返す。

 しかし、ぴたりと彼の足が止まった。うっかり絶望の顔をする。


 ――扉の位置がわからない!!!


 彼の現在地は、見慣れないオーティスの書斎だ。

 ノキシスの目には、本棚も扉も区別がついていない。


「サミュー!! サミュエルー!! 今すぐ来てくれえええッ!!!」


 両手を口の横に添え、ノキシスが渾身の力をもって叫ぶ。

 ばたん!! 即座に扉が開いた。

 血相を変えたサミュエルが飛び込んで来たのだが、ノキシスの目には「なんか黒っぽいのが見える~」程度にしか映っていなかった。


「ノキ! どうしましたか!?」

「そこが扉か! 悪いが、わたしを部屋まで連れて行ってくれ!」

「あんた、眼鏡どこやったんですか!?」


 急ぎ足でノキシスの元までやってきたサミュエルが、主人の手を取る。

 すん、かいだにおいがサミュエルのものだったため、彼は安心して執事服を握った。


 さて、この光景を快く思わない人物がいる。


 不穏な顔のオーティスが立ち上がった。

 彼には、愛しの妖精が、背が高いだけの小生意気なガキに身を寄せているように見えている。

 先ほどまでの浮かれた気持ちなどしゃぼん玉のように消え失せ、彼はドスの利いた声を発した。


「貴様、誰が入室を許可した?」

「私はノキシス様に仕えております。ノキシス様がご用命でした。それに従ったまでです」

「この屋敷では、俺の命令が第一だ!!」


 サミュエルの胸倉を掴み上げ、オーティスが怒声を上げる。

 睨みつけるように目を細めたサミュエルが、利き手を伸ばした。

 ぱしんっ、抵抗するよう掴む腕を払う。


 緊迫した空気を感じ取ったノキシスが、サミュエルのジャケットを引っ張った。


「すまない、オーティス! 先ほど打ちつけた膝が痛む! わたしたちは失礼するよ!!」

「ッ、ノキシス!!」

「いたいいたい、いたいいたい!」


 怒鳴るオーティスを無視して、ノキシスを足を庇って大袈裟に痛がる。

 主人を引き摺ったサミュエルが、部屋の外へ向かった。


 扉を閉じた瞬間、ノキシスの姿勢が元へ戻る。


「……いや、寿命が縮まったよ。全く、彼になにをしたんだね?」

「別に。それよりノキ、眼鏡新調しましょう。今度はずれないやつ」

「わたしのナイスセンスなあの眼鏡は、そんなにきみの中で不評なのかね?」

「すっごく」


 サミュエルの腕に掴まり、よぼよぼとノキシスが廊下を歩く。


 さて、サミュエルの利き手には、壊れた眼鏡がある。

 くるくると検分を終えた彼が、ジャケットのポケットへそれを突っ込んだ。

 ぺろっ、少年が舌を出す。――彼は元々スリの子であり、手先が器用だった。


 ノキシスはサミュエルが眼鏡を持っていることなど、知る由もない。彼はオーティスに取られたと記憶していた。

 そしてあっさりとすられたオーティスが、サミュエルを滅するべき敵と認識するまで、あと5秒。

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