報告書は慎重に
執務机いっぱいに書類を広げたノキシスが、事務用の眼鏡をかけ直す。
普段のうさんくさい丸眼鏡とは異なり、ずり落ちてこないそれは、レンズが分厚いことを除けば、至って普通の眼鏡だった。
広げた書類を手に取り、忙しなく視線が書面を行き来する。
数字の敷き詰められたそれは、予算にまつわる報告書だった。
窓の外はとっぷりと日が暮れ、月が煌々と輝いている。
深夜を示す置時計は秒針の音を響かせ、紙の擦れる音、そしてペン先の滑る音だけを執務室に満たしていた。
コツコツ、扉がノックされる。
ノキシスの手が、僅かに止まった。
しかし顔を上げない彼は、インクビンにペン先を沈めながら、「どうぞ」口先だけで応答する。
――サミュエルの勤務時間は、とっくに終わっている。
こんな夜更けに来訪するのは、マリアしかいないだろう。
訪問者の予測を立て、彼は変わらぬ仕草で数字を綴った。
「……マリア、すまないが、濃いめの紅茶を淹れてくれないかね?」
書類から目を離すことなく、領主が紅茶を要望する。
沈黙を返した訪問者は、一言も発することなく踵を返した。
ノキシスは変わらず書類を見比べ、帳簿を合わせている。
戻ってきた訪問者が、沈黙を守ったまま、机に紅茶を置いた。
こつり、音を立てた茶器に、領主の意識がそちらへ向かう。
「ありがとう」
手探りでカップを探り当て、彼は淹れたての紅茶を口に含んだ。
「げほッ」
直後、困惑に満ちた顔で口許を押さえ、動揺する。
――あっっっっっっま!!!!!!
え? 甘い? こってり甘い!?
わたしが頼んだの、濃いめの紅茶……おや? カップの底に、砂糖がキラキラ沈んで……。
「ノキ、素だと静かですよね」
「サミュ!?」
砂糖でキラキラしているティーカップの底から、傍らの人物サミュエルを見上げ、領主が驚いた声を発する。
年若い執事はぶすりと拗ねた顔をしており、想定外の人物にノキシスは慌てた。
「どうしたんだ、サミュ。きみの勤務時間は終わっているはず……あるぅ……」
「語尾、無理矢理すぎません?」
「油断していたよ。今日のノキさんは終了だ。こちらを見ないでおくれ」
「その口調、そんなに照れながらやってたんですか!?」
片手で顔を隠し、ノキシスがそっぽを向く。
愕然とつっこんだサミュエルだったが、はたと口を噤み、再びぶすりとした顔へ戻った。
「……なにを拗ねているのかね?」
「拗ねてませんッ。マリアじゃなくて、悪かったですね!」
つんと顔を背けたサミュエルが、悪態をつく。
おやおやと目を丸くした領主は微笑み、顎の下で手を組んで頬杖をついた。
「間違えてすまなかった。この時間、きみは寝ていると思ってね」
「まだ起きてます! 子ども扱いしないでください!!」
「ははは。では、酒が飲める年になったら、改めよう」
ベーレエーデが属する国は、16歳を成人としている。
サミュエルは15歳。あと1歳たりない。
ますます不機嫌そうになった少年を置いて、領主は砂糖の沈んだ紅茶を飲み干した。
――あっ。年若い執事が気まずそうな顔をする。
「……ノキ、報告書のそれ、まだ終わらないんですか?」
うかがうように問いかけた視線の先、数字の並んだ、小難しい書類。
苦く笑ったノキシスが、目頭を揉んだ。
「難航していてね。サミュ、きみにとっての『豪勢な食事』とは、なんだろうか?」
「豪勢? うーん、マリアの作ったハンバーグですかね。あと、エリアスんとこで食べるビーフシチュー」
「なるほど、参考にさせてもらうよ」
緑のラベルの巻かれたインクビンへペン先をつけ、領主が『ハンバーグ』『ビーフシチュー』とつづる。
ぎょっとしたサミュエルは、不安そうにノキシスへ視線を落とした。
「ノキ、そんな適当に書いていいんですか?」
「今、書類を偽装していてね」
「何してるんですか!?」
しれっと告白した領主に、少年執事が慌てふためく。
サミュエルを見上げ、ノキシスは茶目っ気をこめて片目を閉じた。
「くれぐれも内密に頼むよ」
「頼まれなくたって、黙ってますよ!」
「わたしは悪徳領主だからね。金ぴかの宝飾品に身を包み、毎日高級食材をふんだんに使った、豪勢な食事をとっているんだ」
「いや、ノキの前の領主って、確かにそんなクソヤローでしたけど、ノキ全然違うじゃないですか! 粗食派じゃないですか!」
にこにこ微笑むノキシスは、落書きするように報告書に文字を綴っている。
ノキシスの本家ゲルトシュランクは、悪名高い。
それこそ前任の領主ともども、領民から金を巻き上げ、横暴な振る舞いをしている。
田舎町ベーレエーデは、その本家の有する土地であり、過去これまで本家から教育を受けた暴君等が領主として派遣されてきた。
当然ノキシスもそのように教育を受けており、彼なりの『悪徳領主』を精一杯演じている。
その本家へ提出する資料を作成しなければならないのだが……、金を巻き上げないタイプのノキシスでは、本家の期待する数値に大きく達していない。
足りていない金額については、『必要経費として浪費した』ことにして、こうして報告書を偽装している。
本家に知られれば、最悪ノキシスの首は物理的に飛ぶ。
むしろ、ひとおもいに死なせてくれれば、まだいい方だろう。
どのような責め苦を与えられるのか、まるでわからない。
考えれば考えるほど悪い想像をしてしまうため、ノキシスは苦手な本家から距離を置いていた。
そんな本家へ提出しなければならない報告書。気を遣わないわけがない。
「……俺、ノキが不当に評価されるの、イヤです」
「困ったね。ぼんくらが一番都合がいいんだよ、サミュ」
「だってそれ、ノキがわざと『あるある』言うからじゃないですか!」
サミュエルはムキになって反論した。
——ノキは本当はいい人なのに、何でこうもわざと悪徳領主になろうとするんだろう!
そんな本家なんか、ほっとけばいいのに!
報告書の中のノキシスは、贅沢三昧に振る舞う成金趣味の小悪党だった。
領民から得た金に目がくらみ、せこく着服している。
足りない金額に関しては、「寒波と害虫で不作でして」との言い訳を用意している。
ちなみに昨年は、イノシシがおりてきたことになっていた。
実際は、この架空の金を使って、領地の整備を行っている。
先日は「運行機か除雪機がほしいね」とサミュエルへのほのほ話をしていた。
事実と報告書の間には、ウソがたくさん塗り固められている。
さて、込み入った事情を知らないサミュエルが文面を覗き込み、顔をしかめる。
めちゃくちゃな内容に、少年の気は遠くなった。
「支出の項目、おかしくありませんか!? 何ですか、この『ネックレス』って!」
「なにをいっているんだ、サミュ。わたしの先月の買いものは、ダイヤがゴロゴロついた首飾りだったじゃないか」
「うそばっかり!!!」
「A5ランク牛のステーキも追記しよう。フォアグラを書きすぎてしまったからね」
「ノキ、夢を見るなら、ベッドの中でどうぞ!!」
報告書へ綴られる妄言に、焦ったサミュエルがノキシスの手首を掴み上げる。
はははっ。愉快そうに笑った領主は、のんびりしていた。
「大体! ノキ、フォアグラとか食べたことないでしょう!?」
「そんなことないよ。報告書のわたしは、丸々と肥え太ったムチムチの成金貴族なのだからね。フォアグラなんて序の口だ」
「こんな枯れ枝のような手首で、なに寝言ほざいてるんです!? ひょろひょろの細もやしの方が適切ですよ!」
「ひどくないかね!?」
がっしり、主人の手首を掴み、余った指先を見せつける。
一周ぐるりと回された手にはゆとりがあり、がーん、ノキシスはショックを受けた顔をした。
「くっ、何故だ……! 自転車もこぐし、草むしりだって手伝うというのに!」
「運動習慣、スターターなタマゴクラブですか? ノキ、腕立て伏せできます?」
「……サミュ、きみは?」
「俺ですか? 余裕ですよ」
腕さわります? と差し出した二の腕に、領主が触れる。
途端、絶望の顔をした。
神妙に額の前で指先を交差させ、執務机に沈む。
「……今、わたしの生活習慣は関係ないんだ。うん。それより、書類をはやく終わらせて、本家へ送らねば……」
「貧弱」
「これから成長するんだ!!」
29歳ノキシスが、年甲斐もなく15歳少年へ抗議する。
にやにや笑った15歳は、机のティーカップをお盆へのせ、もう一度腕を机上へ伸ばした。
「じゃ、とっとと寝てくれませんか? 夜更かしすると、伸びませんし育ちませんよ。筋肉」
「成長期はきみの方だろう? 心配しなくても、わたしももう寝るよ」
「……また、子ども扱い」
「うん?」
かたん、お盆が鳴る。
尋ね返そうとサミュエルを見上げたノキシスへ、少年が「べっ」と舌を出した。
踵を返した年若い執事は、そのまますたすたと退室していく。
残された領主は、背もたれに身を預けた。
――サミュエルは少々気難しいが、根の優しい子に育ったものだ。
微笑ましいと、親戚のおじさん目線で少年の成長を喜ぶ。
ペンを持ち直したノキシスが、インクビンへペン先を浸そうとした。
「あれ?」
そのペン先が、空中を虚しく引っ掻く。
——あれ? インクビンがない?
机から忽然と姿を消した筆記の友に、ノキシスが散らかった書類をパタパタ持ち上げる。
しかし見つからない相棒の姿に、彼は焦った。
「……いや、間違えて被せてしまったのかね? 困ったな、あれがなければ文字が……」
ぶつぶつ独り言をつぶやき、はたとひらめく。
――不自然に二度横断した、サミュエルの腕。
派手な音を立てて立ち上がった領主は、慌てた様子で扉から顔を出した。
カンテラをさげたサミュエルは、暗い廊下をすたすた進んでいる。
「サミュ、待ちなさい! きみ、わたしのインクビンを知らないかね!?」
「気づくの遅すぎません?」
カンテラの明かりまで駆け寄ったノキシスへ振り返り、サミュエルが澄ました顔をする。
少年が自然な仕草で、お盆を遠ざけた。
夜闇にぼんやり浮かび上がる緑色のラベルは、ノキシスの友達、インクビンのものだ。
「もうおやすみになるのでしたら、インクビンは必要ないのでは?」
「強硬手段に出たね!? あと一行! あと一行だけなんだ!」
「眼鏡取り上げますよ」
「いじめっこが過ぎないかい!?」
ノキシスは壊滅的に目が悪い。その視力の悪さは、レンズの分厚さが物語っていた。
両手で眼鏡のつるを押さえた領主が、恐ろしい脅し文句に震える。
すたすたと歩みを進めるサミュエルの行き先は、ノキシスの寝室だった。
——俺だってノキの執事なんだから、ノキの世話くらいできるんだ!
15歳、育ち盛りの少年サミュエルが背伸びする。
彼はノキシスに頼ってもらいたくて仕方がなかった。
しれっと澄ました顔で、サミュエルが振り返る。
「あとは俺が片づけておくんで、早く寝てもらえませんか?」
「きみこそ早く休みなさい。わたしは大人だ。自分のことは自分でできるよ」
「……マリアには頼るくせに」
「うん? うわあッ!? 暗闇で眼鏡なしはきつい! やめなさい、返しなさいっ、サミュエル!」
鮮やかな手並みでノキシスの顔から眼鏡を奪い、崩れ落ちそうな身体を支える。
よろよろする領主は、目が悪い。
本ばかり読んできた彼は、眼鏡がなければ日常生活を送ることさえできないほど、視力が悪かった。
対するサミュエルは、元々スリの子である。
手先の器用さと、獲物を狙う俊敏さは未だ健在で、少年は主人のことを『この人金づるだから、俺がしっかりしないと』との目線を見ていた。
髪も服も黒いサミュエルを見つけることができず、支えられるままにノキシスが背の高い少年にしがみつく。
はんっ、少年が鼻で笑った。
「ポンコツ」
「きみっ、制服を全身黄色にするよ!?」
「くっそダサいですね。さすがは悪趣味領主様。凡人には理解できない、独特な感性をお持ちです」
「言葉で殴らないでくれ!!」
寝室へ誘導されるまま、ノキシスがよぼよぼ歩く。
あれよあれよという間にベッドへ座らされ、寝支度を整えられてしまった。
ぐぬぬ、領主が呻く。
「サミュ、眼鏡を……」
「明日の朝持ってきます」
「ひどい!!」
――サミュエルは大体いい子に育ったが、少々いじめっこの気質があるようだ。
しれっとした少年の声に、領主は涙を呑んだ。
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