執事さんのマスターキーとメイドさんのマスターキー2
がしがし頭をかいたホフマンが、一台の赤い自転車を差し出す。
へこみや傷の多いそれはノキシス愛用の自転車であり、しかし今日の領主はその自転車を押して現れた。
いわく、『サドルを下ろしてほしい』とのこと。
畑の持ち主であるホフマンはきょとんとし、次いで大きな声で笑い出した。
下がったサドルを確認した領主が、満足そうに頷く。
ホフマンの畑仲間である男たちも愉快そうに笑い、子どもたちが元気に駆け抜けた。
「ノキさんに足がつかねぇって言われたときにゃ、どうしようかと思ったぜ!」
「サミュの仕業よ。あのスタイリッシュ少年、腹立つくらい脚長ある」
「ははは! サミュのやつ、すっかり色男になっちまって!」
「ちげぇねえ! こんな田舎に置いとくにゃあ、もったいねぇって話だ!」
がはは! 男たちが愉快そうに笑う。
ため息をつくノキシスが、背中にじゃれつく子どもを背負い、よいしょと立ち上がった。
きゃあ! 歓声が上がる。
「12を超えたところでダメだったあるね。サミュに力で敵わねーある。ノキさんおじさんよ」
「ノキさんでおじさんなら、俺らじいさんだわ! ははっ、若い若い!!」
ホフマンに肩をバンバン叩かれ、いててとノキシスがよろめく。
畑仲間も明るく笑い、「そっすよ、ノキさん!」「まだ29でさぁ!」賑わいだ。
「おーい、あんたらあ! 荷物運ぶの手伝ってくれぇい!!」
不意に畑の奥から、首にタオルをさげた男が大声で呼ぶ。
彼の足元では牧畜犬のコーギーがてちてち駆けており、主人の行動を今か今かと待っているようだった。
そちらを見遣ったホフマンたちが、いけねっ、バツの悪そうな顔をする。
「力仕事のこと忘れちまってた。ノキさん、ほどほどのところで切り上げてくれよ!」
「わんころがいるある」
「ああ、春は新芽がうまいんで、作物がやられねぇようにってぇ、番犬ってとこでさあ」
「じゃな、ノキさん!」
申し訳ないといった顔で断りを入れた大人たちが、続々とタオルをさげた男の方へと向かう。
残されたノキシスと子どもたちは顔を見合わせ、子どもたちはワッと喜んだ。
「ノキおじちゃん、あそぼうよ!」
「おれ、かくれんぼしたい!!」
「あたしおにごっこ!」
「ねえねえ、またおはなししてよお!」
華やぐ子どもたちにおされ、はたはたと瞬いたノキシスは、困ったように微笑んだ。
その中で、ひとりだけ背の高い少年が慌てたように子どもたちを制する。
「だ、だめだって! 領主さまは忙しい人だって、父ちゃんいってたよ!」
「でもドナだって、ノキおじちゃんとあそびたいんだろ!?」
「そっ、そうだけど……」
しどろもどろ、頬を赤くした少年が口ごもる。
ほら! 勝ち誇ったように胸を張る少年が、ノキシスの腰にしがみついた。
堪らず、領主がおかしそうに笑い出す。
そんな和やかな空気を裂いたのは、ひとりの少女の泣き声だった。
背負った子どもを下ろしながら、領主がそちらへ顔を向ける。
赤毛をおさげにした少女は、泣きながら彼らの方へ歩いてきた。
「うわああああんっ、ミーちゃんがいないよぉおおおお」
「サリー、どうしたの!?」
慌てて駆け寄ったドナが、サリーと呼んだ少女の前で屈む。
両手でまぶたをこするサリーは、大粒の涙をこぼしながらしゃくり上げた。
「ひぐっ、ミーちゃ、ミーちゃんがいなくなったあああああ」
「ミーちゃん?」
「サリーがお世話してるネコだよ! ちゃいろのまだらなの!」
「ふむ、ネコか」
ドナとともに膝をついたノキシスが、考えるように顎へ手をそえる。
どうしようと領主を見詰める子どもたちへ、彼はやんわりと微笑んだ。
「みんなで探そう。サリー、ミーちゃんはいついなくなったのかね?」
「ひっ、わかんない。ぐすっ、朝ごはんのときにはいたの!」
ぅぇえっ、ミーちゃあああああん!!!! たまらず泣き出すサリーの頭を撫で、ノキシスはその場から立ち上がった。
ふむと辺りを見渡し、とんとん、指先で頬をたたく。
「サリーの家は?」
「ここから近いよ。ほら、ドナん家のふたつとなり」
ドナの父親は、農家の頭でもあるホフマンだ。
ホフマンの家は畑に面しており、その二軒隣の家も、彼らの今いる位置からよく見えた。
うさんくさい丸眼鏡を外したノキシスが、ハンカチでレンズを拭う。
眼鏡をかけ直した彼は、にこりと微笑んだ。
「では、木の上か、高いところを探そうか」
「でもミーちゃんまだ子猫だから、木にのぼったことないよ!?」
「なら、なおのこと急ごう。きっと近くにいるよ」
領主に促され、ちびっこたちがわらわらと木の上を見上げる。
しばらくして、ひとりの子どもが「あ!」と叫んだ。
「ミーちゃんだ!!」
「どこ!?」
「ほら! あそこの枝!!」
こぞって子どもたちが見上げた先、若葉を茂らせた広葉樹の高い位置に、茶色のまだらをした毛玉がいた。
小さな身体で必死にブリッジを作る子猫は、パニックを起こしているのか、シャーシャー鳴いている。
木へ駆け寄ったサリーが、目に涙をためた。
「ミーちゃん!!」
「おそらく降りられなくなったのだろう。わたしが登っておろすよ」
少女を落ち着けるように微笑みかけるノキシスが、辺りを見回して赤い自転車を見つける。
木の下まで自転車を押した彼は、がちゃんとスタンドを立てた。
「……ノキおじちゃん、まさかとは思うけど、この自転車を踏み台にするの?」
「そのまさかだよ」
——絶対に危ないよ。子どもはこくりと固唾を呑んだ。
ノキシスは上質なジャケットを脱ぎ、それをひとりの子どもへ差し出した。
ぎゅっと受け取ったその子が、こくこく頷く。——絶対に危ないよ。
「領主さま、……自転車支えた方がいい、ですか?」
「いや、危ないから離れていておくれ。危ないからね」
二回も危ないっていった。
ドナがスッとまぶたを閉じ、ノキシスが自転車に足をかける。
子どもたちは、一斉に両手で目をふさいだ。
——彼らはこの5年間の付き合いで、充分察したことがある。
そう、彼らの領主は、大変に運動おんちだということを。
あだっ!? 上がった悲鳴と同時に、がちゃあああん!!! 自転車の倒れる音が響き渡る。
子どもたちは悲鳴を上げ、ふさいでいた視界を解放した。
「ノキおじちゃん!?」
「……なんとか登れて、よかったよ」
ハラハラした彼らの視線の先、木のまたに寄りかかるノキシスに、子どもたちの肩から力が抜ける。
ノキシスはブリッジを作って震える子猫へ手をのばし、そっと抱き上げることでその身柄を確保した。
ほっと息をついた領主が、木から降りようと真下を見下ろす。
想像以上に地面から離れた距離に、彼は空笑いを浮かべた。
「……すまないが、誰か大人のひとを呼んできておくれ」
ノキシスは、自身の苦手分野を熟知していた。
つまるところ、彼は運動がとことん苦手だった。
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