通り魔は干したてのシャツを狙う3
少年はこみ上げてくる熱いものが何なのかわからず、すすり泣いてしまいそうな喉を懸命に押し留めることに必死だった。
「なんにせよ、わたしが彼を引き取った以上、彼に他の仕事の退職手続きをさせてほしい。きっと戸惑うだろうから、マリア、手伝ってあげてはくれないかね?」
「もちろんですわ。ですけど、ノキさんはおひとりで大丈夫ですの?」
「大丈夫だよ。ありがとう、マリア」
ノキシスの声は、どこまでもおっとりとしていた。
あたたかくて、のんびりしていて、マリアの穏やかさと合わさって、春の木漏れ日のようにとても落ち着ける。
そこには大通りで見たうさんくささも、前任の領主のような凶悪さもない。
サミュエルは混乱し、拭っても拭ってもにじむ視界に忙しかった。
情緒がぐちゃぐちゃで、台風にさらわれた子犬のような心地だった。
領主が目を伏せる。ずれる眼鏡が押し上げられた。
「今、この町は疲れ切っている。市場を見たが、食べものの値段はどれも高く、きっとみんな満足に食事もとれていないのだろう。あの少年も、非常にやせ細っていた」
再び唐突に話題に上がり、サミュエルの肩が跳ねる。
少年が見下ろした自身の手首は折れてしまいそうなほど細く、肉付きの悪いものだった。
「他の子どもたちも同じなのだろう。……わたしは、どうしても本家のやり方には賛同できないよ」
寂しそうな声だった。
……ほんけ? 聞き耳を立てる少年が首をかしげる。
もっと聞こえるようにと、彼は身を乗り出した。
「ノキさん、私はいつでもあなたの味方よ」
「ありがとう、マリア。わたしにはきみしかいないから苦労をかけるが、きみがいてくれて本当によかった」
マリアの慈しみに満ちた声と、ノキシスのうれしそうな声が廊下を鳴らす。
よし! 気合いを入れた明るい声で、領主は靴音を立てた。
「では、わたしは前任が残した悪趣味美術館を解体してくるよ! ……ううっ、浪費された金額を思うと、胸と頭が痛むな……」
「ノキさん、私もおともしますわ」
「いや! きみはあの子についてあげてくれ、マリア。わたしなら大丈夫だよ! わたしはがんばれる子だからね!!」
では! 片手をあげた領主は、廊下を引き返した。
……サミュエルは、自身が見聞きした話を、包み隠さずエリアスたちに伝えた。
エリアスも、エリアスの母親も目を見開き、困惑した顔をしている。
サミュエルはうかがうように口を開いた。
「なあ、今度の領主って、前のと違っていいヤツなのかな……?」
「わ、わかんない……。でも、サミュがウソついてるようには見えないし……」
確かにサミュエルの身体は煤がキレイに落とされ、手にできたしもやけにも手当てがされている。
煤汚れのない少年の顔は、久しぶりだった。
困った様子で、エリアスが母親を見上げる。
難しい顔をした彼女は、うんと悩んで、「父さんに相談しな」と答えた。
「そういや、エリアスの親父さんはどうしたんだよ?」
「サミュが来るちょっと前に、『通り魔が出た!!』って連れてかれたぜ」
「と、通り魔!?」
エリアスの口から出てきた物騒な言葉に、サミュエルが飛び上がる。
誰か怪我をしたのでは!? 慌てる少年から気まずそうに目線を逸らせ、エリアスは首の後ろをかいた。
「そのさらにちょーっと前に、その噂の領主さまが『あるある』言いながらやってきてさ……」
「珍獣みたいなあつかいだな!?」
「んで、父さんと一緒に通り魔事件とこ行っちゃった」
「オレ、見てくる!!」
「バカサミュエル!! お前場所知らねーだろ!? ごめん母さんっ、行ってくる!!」
パブリック・ハウスを飛び出したサミュエルを追い、エリアスもドアベルを響かせる。
残された母親は神妙な顔で息をつき、開店準備へ戻った。
*
「本当なんだよ、ゲーテさん!!」
サミュエルとエリアスが駆けつけたのは、森のすぐ傍にある民家だった。
何棟か並ぶ木組みの家はモノトーンでまとめられ、寒空の下、重たい印象を与えている。
民家の前では、数人の婦人たちがひとりの壮年の男性へと詰め寄っていた。
男の名前はゲーテといい、この町のまとめ役を担っている。
エリアスの父親である彼は、白髪まじりのロマンスグレーの髪色を持ち、大変渋くダンディな顔立ちをしていた。
その彼の隣に、背が低い割りに尊大な態度をした領主ノキシスがいる。
婦人たちから渡された濡れた白い布を、困惑した様子でゲーテは隣の領主へ差し出した。
「父さん!!」
「エリアス、サミュエル!」
駆け寄ったエリアスへ、半身振り返ったゲーテが呼びかける。
耳に心地よい、渋い声だった。
領主は広げた布を表へ裏へ返していることで、周囲は腫れ物に触れるかのようにヒヤヒヤとその様子をうかがっていた。
「その、領主様。先ほどもお伝えしましたが、あなた様のお手を煩わせるようなものでは……」
「いいからとっとと状況を説明するある」
吹き荒ぶ寒風にも負けず劣らず、冷ややかな声だった。
指示された夫人たちは震え上がり、怯えたように顔を見合わせる。
恐る恐る、真ん中の女性が口火を切った。
「その、この頃通り魔が出るんです」
「ほーん。で、なんあるか? この穴」
領主が示した、白い布こと、湿った麻製のシャツ。
ほつれなどを丁寧に繕われたシャツは、背中にぽっかりと大きな穴を空けていた。
大きな穴は、ぼろぼろと不揃いな断面を残し、ファッションにしては前衛的すぎる。
率直に表現すれば、無残な姿をさらしていた。
「こちらが、通り魔にやられたものです」
「…………」
ちらり、ノキシスがゲーテを見遣る。
丁寧な口調で、澄ました顔をするまとめ役は読めない表情をしており、領主は鼻を鳴らした。
股の間にしっぽを入れた犬のように肩を震わせた被害者の女性が、恐る恐る顔を上げる。
「そ、その、……この頃、洗濯物を干していると、こうして穴を空けられるんです……」
「洗濯物」
「あっあたしんとこも! 通り魔が出ていて……!」
「どうもこの近隣の家々を狙った犯行のようです。どの家も、洗濯物しか狙われていません」
「ほーん」
誰かが洗濯物に大穴を空けていく。
それも一度や二度ではない通り魔に、彼女たちは苛立ちと不気味さを抱えていた。
「誰がこんなことしたんだよ!?」
「それがわからないんだよ……。誰も犯人を見ていないのさ」
サミュエルの疑問に、婦人のひとりが項垂れるように首を振る。
つられるように、次々と被害の声が上がった。
「もう何度もこうさ。毎回毎回穴をあけられちゃあ、直しきれやしないよ!」
「あたしんとこも、これで4度目さ! 勘弁してほしいよ、まったく!」
「せっせと直したってのに、うちのといったら全く着てくれなくて!」
「そうそう!!」
井戸端会議をはじめた婦人たちから、サミュエルとエリアスは静かに距離を取った。
そっとゲーテの後ろに隠れ、修復されても着たくない、ちょっと複雑な少年心を守った。
——だって、シャツの背中のど真ん中に、まんまるなワッペンが縫いつけられてたら、さすがに恥ずかしいじゃん……。
一方ノキシスは、ずれる眼鏡を押し上げ、穴の空いたシャツをまじまじと観察している。
徐にゲーテへシャツを押し付けた領主は、眼鏡を外してハンカチでレンズを拭った。
「洗濯物を干していた位置は?」
「聞くんだ!?」
「領主として、仕事しているだけだよ」
「領主ってそんな仕事するんすか!?」
「領主の本来の仕事は、困っている人を助けることだよ」
一蹴するとばかり思っていたサミュエルとエリアスが、困惑の声を上げる。
婦人たちもおどおどとした顔で会議をやめ、うかがうように証言した。
「う、裏手です。家の中だけじゃあ、干し切れなくって……」
「ああ、なるほど。ロープで吊っているのだね」
眼鏡をかけ直した領主が家の裏を覗き込み、ふむと納得する。
森と面した裏手に立てられた二本の棒の間では、一本のロープが風に揺れていた。
「穴ってことは、誰かがハサミで切り刻んだのかな?」
サミュエルがエリアスに思いついたことを話す。
しかしエリアスは顔をしかめ、「ええ……っ」渋い声を出した。
「だとすると、シャツの切られたところ、すんげーモロモロじゃん。よっぽど切れ味の悪いハサミ使ってんだな」
「それは……シャツが濡れてるから、切りにくかったとか!」
ゲーテの持つモロモロになったシャツを指差し、エリアスが首を傾げる。
サミュエルが反論するも、いや、ゲーテに首を横に振られた。
「切れ味の悪いハサミを使って、このような大穴をあけては、時間がかかりすぎるよ。それに家の裏でごそごそされては、誰かに姿を見られるはずだ」
「うっ、たしかに……」
誰も犯人を見ていないのだから、切れ味の悪いハサミ説はどうやら違うらしい。
がっくし、肩を落とすサミュエルを、小さく領主は笑った。
これまでのうさんくささは何だったのか、おっとりとした上品な微笑みだった。
「犯人は、リスだね」
「は?」
「巣材を探していたのだろう。ウサギと迷ったが、ウサギでは高さを登れないからね」
にこにこする領主に反して、一同が間の抜けた顔をする。
――リス? この連続洗濯物ボロボロ事件の犯人が、リス!?
「……リス、ですか」
「げっ歯類がかじった布を見たことはあるかね? 大きな布もこのように細かくして、頬袋に詰めてしまうんだよ」
ゲーテの抱える濡れたシャツを、一同がまじまじと見下ろす。
モロモロとほつれた断面は不揃いで、確かにハサミで作ったようには見えない。
穏やかな領主の説明に、むむっ、サミュエルの眉間に皺が寄った。
「すざい?」
「この地域は雪深いからね。冬を越すためにあたたかい巣を作りたかったのだろう。ただ、この寒さを思えば巣作りも終盤だろうから、もうじき通り魔は訪れなくなるよ」
「食べたんじゃないんだ……」
「さすがにリスも、シャツは食べないんじゃねーかな……」
サミュエルの感想に、エリアスが呆れた声を返す。
――そっか、かじられたんだ。誰ともなく腑に落ちる。
げっ歯類特有のあの歯でシャツを噛みちぎり、頬袋に仕舞って、せっせとあたたかな巣を作っていたのか。
確かに、リスが犯人では、人影なんて見られないだろう。
「……いや、ネズミかな? 巣穴を見つけられれば確実なんだが、如何せん探す場所が広すぎるな……」
「いえ。詳細な犯人の特定は、なさらなくて構いません」
「そうかね? ……あっ」
ゲーテの断りに残念そうな顔をしたノキシスが、はっと何かに気づく。
こほんとわざとらしく咳払いし、「ある」忘れていた語尾を無理矢理つけた。
「事件解決ある!! わたしは帰るある!!」
「似非じゃん! その語尾完全に似非じゃん!!」
「うっせーある! こっちが素よ! 似非とかいうんじゃねーある!!」
「キャラ設定ブレブレじゃん!!」
足音荒く元来た道を引き返すノキシスを、サミュエルが追いかける。
残された面々は唖然とし、エリアスは「サミュのいってたこと、本当かも」と思うようになっていた。
「……どうやら今度の領主様は、少々癖のあるお方のようだ」
残されたゲーテが、ぽつりと感想をこぼす。
後日、予告どおり通り魔は訪れなくなり、代わりに白く重たい雪が降り積もった。
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