第11話

 家に着くと案の定母が僕を待ち構えていた。


「おかえりなさい」


 母は固い笑顔で僕に言った。


「ただいま」


 僕は今できる最高の笑顔で母に言った。


「キャリーバックってある?」


 僕は母に聞いた。


「ええ、あるけど……何するの?」


 母が恐る恐る聞いた。


「出ていくんだよ」


 その言葉を受けて母は一瞬目を見開き歯を食いしばると、噛みつくように僕に手にしがみついた。


「やっぱりあの男の所に行ったのね……! あの男に何を垂らしこまれたのかは知らないけど、出て行くなんてこと絶対に許さないから!」


 僕は母のしがみついた腕を振り払い、母を突き放した。


「お前の指図なんて、もう受けない」


 僕はそう言うと床に座り込んでいる母の顔をかがんで覗き込んだ。


「本当の母親じゃあないんだから」


 そう言い捨て僕は母に口角だけあげた笑顔を見せると、二階に上がろうとした。

 母親じゃない、その言葉で母はさらに怒りを露わにした。


「今まで育ててもらってその態度は何!? いいから私の言うこと聞いて、いい子でいなさい!」


 母は立ち上がって僕の腕を掴んだ。


「うるせえ!」


 僕はいつも持ち歩いているカッターを取り出し、母へ向けた。


「あ、あなた自分が何をしようとしているかわかっているの!? 早くそのカッターをしまいなさい!」


 僕の行動で、母は僕から距離をとり震えながら言った。僕を恐れて顔を青ざめさせる母の顔を見て、僕は心の中の自分がゾクゾクと心を躍らせて喜んでいることを感じた。けれどまだまだ喜びが足りない、と僕らは僕の身体を乗っ取って母を傷つけさせようとする。


「死ね!」


 そう言い捨てると僕は勢いよく母の足にカッターを刺した。


 もちろん、本気で殺す気はなかった。

 ただ痛めつけて苦しめて地獄の底に陥れて母を不幸にしたいだけだった。

 足に刺したぐらいでは死なないと思っていた。


――やってやった。やっとお前を傷つけてやった。


 母の血肉に刃物を刺した感触で僕は胸がすっとして、爽快感を得たような気がした。

 けれど事態は僕が予想する以上に最悪となった。

 母は足にカッターが刺さったことでバランスを崩し、近くに会った木のテーブルに頭を打ち、そのまま勢いよく背中から床に倒れ思い切り床に頭を打ち付けた。


 僕の足元にどす黒い血が広がる。


 僕は目の前に広がる、想定以上の情景が信じられず、体中が震えた。


「か、母さん……?」


 僕は恐る恐る呼びかけたが、返答はなかった。

 焦って母の胸元に耳を近づけても、聞こえてくるのは自分のうるさい心臓と吐息の音だった。


「死んでる……?」


 膝の震えが止まらず僕は力なく近くの壁に寄り掛かった。


――ああ、僕は人殺しになったんだ。


 僕は人を殺した、この手で僕は殺人を犯した。

 僕は自分の手のひらを見た。血で染まって手相が濃くなって、それは犯罪者である証の様だった。


 はちきれそうな頭を抱え僕は這いつくばって自分の部屋に向かい、クローゼットに入った。自分の太ももを見ると母親にカッターを刺したところと同じ場所に、過去の自傷の傷があった。怖くなり急いでクローゼットから出た。


 目の間にいつか割った鏡がある。その鏡にはあの醜い人形が映る。


――殺したかった、そうだろ?

――いいじゃないか。

――僕は悪くない。


 人形が笑って僕に向かって言う。


 あの担任が言うように、僕は一番の極悪人になったのだ。


――ああ、僕の人生終わり。


 昨日の夜ごはんのパンとぶどうジュース。


――あれは最後の晩餐か。

――そして僕は裏切り者のユダか。


 僕は床に倒れる哀れな母のもとに行き、裏切り者は裏切り者らしく母に接吻をした。

 母の血の匂いが葡萄酒の様で、酔ってしまいそうだった。


 僕は洗面台に行き、手についた母の血を洗い流そうとした。何度も何度もたわしでこするが血は一向に落ちない。そのうち、僕の手から血が出た。


 僕は手を洗うのを止め、顔を上げるとそこには鏡があった。鏡の中で母がこちらを見て睨んでいる。


――殺される


 僕は恐ろしくなって急いで台所に行き、包丁を手に取った。そして母の元へ行き、死んでいるはずの遺体に、何度も包丁を突き刺した。

 すると誰かが僕にささやいた。


――死ねよ、死んじゃえよ。お前は世界で一番の極悪人なのだから。


 次々と僕にかかわってきた人たちが僕に「死ね」と言ってきた。僕を気に入っていたクラスメートやT、母親、父親、全ての人が僕を殺そうとしていた。


――お前の事、前からずっと嫌いだったんだよ。

――お前は誰からも愛されない。

――いい子じゃないから。

――死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね


「ああああああああああああああああああ!」


 僕は思い切り自分の腹に包丁を指した。全ての臓器に傷をつけるつもりで、最後の力を振り絞った。


 痛みで目の前がぐらつく。ねっとりとした僕の血液は、僕が居ない遠いところにまで飛び散った。


――僕は生きていた。


 もうすぐ消えゆくかすかな命を、最後の身体の抗いで実感する。


 僕はやっと手に入れかけていた希望に、最後にもう一度だけ触れたくて、血だらけの手で震えながら携帯を取り出し電話を掛けた。

 相手はすぐに出た。


「父さん、終わったよ……」


 僕の報告を聞いて嬉しそうに父さんは、訪れるはずのない未来の話していた、僕のおなかに包丁が刺さっているとも知らずに。


 だんだん携帯を握る力も抜け、気が遠のいて目をつぶると、僕の目の前にはいつか見た醜い人形が居た。


「やっぱり君は、僕だったんだね」


 そして人形の目が三日月に変わった。

 きっと僕の死を待ちわびていたのだろう。


「何度も殺してくれて、ありがとう」

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僕は何度だって僕を 狐火 @loglog

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