第10話
「本当かい?」
その父の言葉に驚き、僕は顔を上げた。心を読まれ僕は動揺が隠せなかった。僕の心の中の声が一気に静まる。
「本当は私のことを恨んでいるんじゃないのか?」
父は僕の心を見透かすように僕に言った。
「苦しそうだ」
そう言って父は席を立ち僕の隣に座った。
「全て吐き出していいんだぞ」
そう言って僕の背中を暖かい手で撫でる。
――お前に何が分かるんだ?
――苦しめたのは誰だ?
――ふざけるな
また僕の心の中の怒りの声が湧き始めた。
「辛いだろう?」
――うるさい、うるさい、うるさい、お前に何が分かる?
「そんなにいい子でいなければいけないのか?」
“いい子”、父のその言葉で、僕の心の中の声を発さないよう押さえていた理性が、消えた。
僕は机を叩きながら勢いよく席を立ち、父を思い切り睨んだ。
「いけない! いけないんだ! いい子じゃなきゃ、優しくなければ、勉強が出来なければ、人気者にならなければ、母さんに捨てられるんだ! あの担任のように人生をめちゃくちゃにされる!」
「あの担任って?」
父は僕に反してやけに穏やかだった。冷淡、とはまた違う落ち着きようだった。
「あの担任は母さんに人生がつぶされたんだ! 僕のせいで、あいつの人生はぼろぼろになった! あいつはきっと今でも僕を恨んでる!」
僕はあふれる涙のせいで、うまく呼吸が出来なかった。
「どいつもこいつも偽善者ぶりやがって! 誰も僕の気持ちなんてわかってくれないじゃないか! 母さんは僕のクローゼットの異臭にだって気づかないんだ! 僕がそのクローゼットの中で何をしているかなんて、これっぽっちも想像しないで、僕をいい子だって褒めちぎる!
僕がクローゼットの中で足を切ったりごみを散らかしたり暴れたりしているに、こんなに苦しんでいるのに、誰一人として僕の苦しみに気づいてくれないんだ! どうせお前だってそうなんだろ? きっと母さんの自慢話に騙されて僕に会いに来たんだろ? 僕はそんな人間じゃない! 僕に幻滅してさっさと消え失せろ!」
僕は思いっきり叫び、しまいにはオレンジジュースの入ったコップを床にたたきつけた。
僕は息が上がり、まるで部屋で例の発作が起きた後の様だった。
割れたコップの破片が僕の足を音もなく切って、僕の穢れた血が流れる。
けれど心根を全て吐き出した疲労感と絶望感で、僕は何もできずただ茫然と立っていた。
僕がこんなにも心の中の声を発したのは初めてだった。父はきっと呆れて帰ってしまうだろう。僕は何だか掴んだ希望のひとかけらを、自ら叩き割ってしまったような気分になった。
しかし父は、そんな僕の予想とは大きく外れ
「血が出ているじゃないか、こっちにおいで」
と優しく言い、叫び暴れた疲れからぼうっとしている僕をお手洗いへと連れて行った。
そして手洗い場で優しく僕の足の血を洗い流した。
――なぜ僕の前からお前はいなくならないんだ?
僕は父の行動が理解できず僕の足を洗う父の手を、じっと見ていた。ひりひりと痛む足を包む父さんの手は、僕の血を洗い流す冷水の冷たさを忘れさせるほど暖かかった。
「健一」
父は僕の足を洗いながら僕の名前を呼んだ。
「ごめんな、こんな歳まで一人にして」
その言葉に僕は思わず涙ぐんだ。
僕を拒否したりしない、父のその優しく暖かいその言葉に、僕は足だけでなく心まで包まれているような気がした。
僕の足が洗い終わると、父は店員に僕の割ったコップの謝罪をし、新しいオレンジジュースを頼んでいた。
僕が割ったコップなのに、父が謝罪した。
それは何だか僕の知らない愛のような気がした。
僕は未だにぼうっとして、少し頭痛がしていた。
「大丈夫か?」
店員と話し終えた父が僕のもとに来て、僕の頭を撫でながら言った。その手つきは幼い子供をあやすようだった。そんな子ども扱いをも受け入れてしまう程、僕は心はほぐされてしまっていた。僕は黙って頷いた。
父は微笑み僕の隣に腰かけた。
少しに沈黙の後、父は口を開いた。
「私は健一を育てたかった」
その言葉で僕は父を見た。
「けれどそうさせなかった、君の母さんは」
僕は父の言っていることが良く分からず、何も言わずに父を見続けた。
「知りたいかい? 君の出生の真実を」
僕はその父の言葉に、考える間もなくゆっくりと頷いた。父は一瞬宙を仰ぎ、一つため息をついた。
そして僕を見て、話し始めた。
「私と妻が出会ったのは暖かい春だった。私が妻に一目ぼれしてね。出会ったばかりなのにすぐにプロポーズした」
父はとても優しい顔をして話していた。
「けれど妻は体が弱くあまり長く生きられないと医者に言われていた。だから私のプロポーズを断った。でも私は諦められなくて懲りずに何度もプロポーズしたよ。そのかいあって妻はプロポーズを受け入れてくれた」
あんな女のどこがよかったのだろうか、と僕は自分の母の顔を思い浮かべる。それと同時に抱く、体が弱い、と言う知らなかった母の情報への疑念。
「そして間もなく君が出来た。私も妻もとても喜んだ。でも妻は体が弱いから、医者に中絶を勧められた。妻は君を中絶することを拒否し君を生むことにした。結局君は無事に生まれ、妻は死んだ。」
「え……?」
父の言葉に驚き僕は思わず声を出した。
僕の母親は僕を産んで死んだ……?
つまり今まで僕を支配してきたあの女は、本当の母親じゃない……?
僕が困惑の表情を浮かべながら父を見ると、父はとても悲しい顔をしていた。
「私は例え妻が死んでしまっても、君を育てるつもりだった。けれどどういう手違いか妻の遺言では君の母親は妻の姉、つまり今の君の母親ということになっていた。私は無理やりでも君を奪おうとしたが、それは法律上不可能だった。結局君は今の母親に引き取られ、私は健一が大きくなるまで会わないという約束までさせられた」
無念そうに話す父を尻目に、僕の心にはいつか封じ込めた憎悪が再び、その時以上の大きさの怪獣となって現れた。
今まで本当の母親だと思っていたからこそ、あの重圧や搾取に耐えることが出来た。
けれど僕を苦しめ支配してきたあの女は、僕の実親ではなかった。
――いい子で居なさい。
そんな恨めしいあの女の声が、嫌なほど僕の頭に反響する。それでより一層嫌悪感が増した。
「よかったら、私とこれから住まないか?」
心の中に積年の恨みをふつふつと募らせている僕に父は言った。その提案で僕の思考が一瞬停止した。
「私となら健一を苦しめることもない。もういい子になんてならなくていいのだよ。私はどんな健一でも愛しているのだから。健一はもう自由だよ」
――自由? 僕は自由?
自由という解放感とともに僕の中で飼いならしていた怪獣が、待ってましたと言わんばかりに動き出した。僕は強い眼差しで前を見た。
「一つだけ、やりたいことがあります。それが終わってからでいいですか?」
僕は父に言った。
「もちろんだよ。いつまでも待っているから」
そう言って父は自分の電話番号を書いた紙を僕に差し出した。
「やりたいこととやらが終わったら連絡してきなさい」
父は僕の思考なんて知らずまた優しい大きい手で僕の頭を撫でた。
「はい」
そう言って僕は父に一礼すると店を後にした。その時の僕の頭には復讐、という二文字しかなかった。これまでの報復をするために、僕は急いであの女の元へと帰った。きっと僕は母を裏切る口実を、今までずっと無意識に探していたのだろう。
育ててくれたという恩に勝る、実親ではないという事実で、僕はようやく母へ抱いている憎悪への罪悪感を捨てることが出来たのだった。
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