第9話

 次の日僕は父に会いに約束のカフェへ行った。店の前で時計を見ると11時、僕にとって約束の時間の一時間前に約束の場所に着くことは常識だった。


 古びた扉を開けると、ギィという深い音とカランという軽い鈴の音が店の中に響く。店内には一人の店員と中年の男性が一人いただけだった。


 さすがにまだ父は来ていないだろう、と思いながら店内に進むと、僕は中年の男性と目が合った。


 もしかして、と思って僕がその人を見続けると、その人はにこりと笑った。


「健一」


 その人は僕の名前を呼んだ。なぜかその声が僕の脳内に響き渡る。父親の威厳、というやつなのか。やけにその人の雰囲気は重く、僕は返事をするのを忘れた。


「よく来てくれたね」


 そう言って父は僕の肩を叩いた。

 母の手と違い、ごつごつして力強い手だな。なんて僕は思った。僕を育てた母の手より父の手の方が優しく安心感があるように思えた。


「座りなさい」


 父は僕に目の前の席を勧めた。僕は勧められるままに座った。父と目があってからというもの僕は魂を抜かれたようになり、言葉を発するのを忘れた。


「何がいい?」


 父は僕の前にメニューを差し出した。僕は特におなかが減っていなかったので、オレンジジュースを選んだ。


「オレンジジュースお願いします。お父さんは……?」


 父が何も頼んでいないことに気づいた僕は、父に何がいいか聞いた。その時父の肩が一瞬揺れた。そして僕の顔をまじまじと見て少しの間黙っていたが


「……ブラックコーヒーかな」


 とひ弱な笑顔で言った。

 僕は店員を呼び、オレンジジュースとブラックコーヒーを頼んだ。そして沈黙が流れた。いつもなら僕は人と沈黙になることはないけれど、父親に何を話してよいのか分からなかった。小学五年生の時は、あの担任を父親のように扱うことが出来たのに、いざ本物の父親を前にすると僕は演者失格となった。父親の背中の広さに僕は圧倒されたのだった。


「私は……」


 最初に沈黙を破ったのは父だった。

 僕は顔を上げ、父を見る。


「健一のことを何も知らない」


 約十七年間僕らは会っていなかった。僕のことを父が知らないのも、僕が父のことを知らないのも当たり前だ。僕は黙って頷く。店員がコーヒーとオレンジを運んできた。僕は軽く頭を下げた。


「なのに健一は私を父と呼ぶ。不思議なものだな。普通だったらこんなに放っておいた私を、殴ったっておかしくないのに」


 そう言って父はコーヒーに目を落とした。茶色く光沢のある液体が、僕の貧乏ゆすりのせいで微妙に揺れている。僕は貧乏ゆすりを止めた。


「なぜ会ってくれたのかな?」


 父は僕に聞いた。

 僕はいつも自分が分からない。なぜ僕は今日父に会いに来たのだろうか?

 

 母を不幸にしたい、今日ここに来るまでは僕はその一心であったが、父親に会ってみてそれだけの理由ではない気がしていた。


 考え出すと僕の中にいるたくさんの僕がまた口々に言いだす。


――こいつに気に入られたい。


 きっとこれは僕の本能だろう。

 母に気に入られなければ僕は生きてこれなかった。だから僕はいつも考えていた、いい子でいようと。


 きっと今もいい子でいなければ、父に嫌われてしまう。


――嫌だ、嫌われたくない


 僕はズボンをぎゅっと握って言う。


「……会いたかったからです。父さんに」


――本当は会わなくたってよかった、だって父なんてどうだっていいのだから。


 口から出てくる心のどこにあったのか分からない言葉は、僕の中のたくさんの心情を持つ僕を騒がせる。


「ずっと会ってみたかったんです」


――会いたいと思ったことなんて、一回もない。


「ずっと寂しかったから」


――寂しくなんてなかった。むしろ父なんて目障りだ。


「父さんに……」


――何で今更、ぬけぬけと会いに来るんだよ


「話したいこと沢山……」


――さっさと消えろよ、あの担任みたいに潰されればいいんだ。


「あるから……」


――こんなやつ、裏切って人生めちゃくちゃにしてしまえばいいんだ。


――さっさと消え失せろ


――目障りだ


――帰れ


 僕は僕の中の僕と格闘しながら話し続けた。

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