第8話

 Tが亡くなって数年後、僕は高校生になった。たいして勉強してないが僕は地元で一番の高校に入ることが出来て、母はたいそうご満悦であった。


 入学式の母のケバケバしい晴れ着には本当に驚いたが、僕はそんな恥ずかしいことすらも利用して、入学式にしてもうすでにたくさんの人気を集めた。学年が上がろうと人の単純さや馬鹿さ加減は変わらないんだな、と僕は他人を嘲笑した。


 けれどいつも僕の心には空虚感があった。


 僕は大変不幸だった。


 そんな僕の運命が動き出したのは、僕に一通の手紙が届いた高校二年生の冬だった。


 学校から帰り郵便受けを見てみると、資源の無駄だと思えるほどの量の広告と、白い封筒の僕宛の手紙が一通入っていた。理由は分からないが僕は、本能的にその手紙を母に見せてはいけないと思った。膨大な量の広告と母の作る夕飯のへの心にも無いお世辞をリビングに残し、僕はその手紙を持って自室に向かった。


『遠藤健一様』


 僕の身体が強ばるほどその字はとても力強く僕は恐る恐る封筒を開け、便せんに目を通した。


『拝啓、遠藤健一様。お元気でしょうか。君にとって私は初めましての存在かもしれないが、私にとって君は連絡が取れるこの時を何年も待ちわびていた、愛しい存在です。


君の母さんから君のことを聞きました。たいそう立派に育ったようですね。さすが私と、そして私の愛する妻から生まれた子供です』


 そこまで目を通し僕は文章を目で追うのを止めた。


 私と、私の愛する妻から生まれた子供……?


 つまりこの差出人は僕の父親……?


 僕は得体の知れない様々な感情が、僕の心に湧き出ているのを感じた。

 今まで僕を放っておいた父親が、僕を愛しいと言っている。このまま手紙を読み進めたい気持ちと、今すぐ手紙を破り捨てたい衝動がぶつかり合い僕の身体を粉々にしようとする。


 僕は震える手で手紙を両手で持った。


 破るという行為は能動的だが、見るという行為は受動的だ。


 僕は手紙を破る力が湧かず、自然と視野に入ってくる文字の羅列をかすかに働く脳みそで認識していた。


『健一に会いたい。私はそう思っている。今まで放っておきながらこんなこと言うのは勝手だと思われるかもしれないが、それでもやはり君に会いたい。


もし君も同じことを思ってくれているのなら、明日駅前の(放浪)というカフェで12時ごろ待っているから、会いに来てくれないか?』


 手紙はそこで終わっていた。

 僕の心はぼうぼうと炎をあげて燃え始めた。頭のてっぺんからつま先にまで力がこもる。


 “父親”という僕にとって未知であり、そして存在を否定し続けてきた物が、たった今僕に影を見せた。

 いや、これは影なのか、それとも光なのか?


 僕にとってその“父親”からの手紙は悪魔の吐く息のようにも、天使から差し出されている暖かい手のようにも感じられた。


 コンコン


 その時僕の部屋の扉をノックする音が聞こえた。

 僕ははっと我に返り急いで手紙を机の引き出しにしまい、そして扉を開けた。


「けんちゃん」


 僕の名を呼ぶ気持ち悪いほどの作り笑いを浮かべた母が、僕の目の前に立っていた。


「母さん、どうしたの?」


 僕は何か恐ろしいものを見ているような気分になり、背中に汗がつたったが、己の恐怖心を払拭するように作り笑顔で優しく母に問いかけた。


「ご飯、できたわよ?」


 そう言って母は細く微笑み一瞬僕の部屋を覗くと僕に背を向けて台所に向かった。

 そうか、母は僕の顔色を見に来たのか。きっと僕の父が僕に手紙を寄越したことを知っているのかもしれない。


 僕は母のやけによそよそしい態度でそう感じた。いつもの母なら僕から手紙を取り上げて、父に会わせないようにしているはずなのになぜ僕を引き留めないのだろうか。


 僕は母のいつもとは違う反応に若干の気持ち悪さを感じながらも一階へ向かった。

 食卓に着くとまだ何もテーブルの上には乗っていなかった。


 母は家事に一切の手抜きもしない人だ。だから僕の家の食卓にスーパーで売っている惣菜や、カップラーメンなんかが並べられたことなんて一回もなかった。


 そんな、所謂完璧主義な母に食事が出来たと言われ僕がテーブルに着くころには、いつもであればすでに食事の準備は終わっていることが当たり前であった。

 しかし今日は何もテーブルに出ていなかった。


 そんな母らしくない行動に少し違和感を覚え台所を覗こうとした時、ちょうど母が台所から出てきた。


「ごめんね、おまたせ」


 僕に笑顔を向けた母の手には、沢山のパンが乗った皿があった。


「今日はいつもと少し変えてパン買ってきたのよ。ここのお店のパン、おいしいって評判なんだから」


 そう話しながら母はテーブルにパンが乗った皿を置きまた台所に戻った。

 僕は皿に乗ったパンの量の多さに若干嫌気がした。

 ただでさえ食欲があまりない僕にとって、たくさん食べるというのは拷問であった。


「おまたせ」


 母は、今度はぶどうジュースの入ったペットボトルとコップを二つ持ってきた。


「食べよっか」


 席に着くと母はすぐにパンに手を伸ばした。

 無表情でただ貪るようにパンを食べる母は、何だか言いたいことを飲み込むためにパンを流し込んでいる様にも見えた。


「母さん」


 僕は母さんを見て言った。


「なあに? けんちゃんも食べたら?」


 僕が話しかけても、母はいっこうにパンを食べ続けることを止めなかった。


「大丈夫?」


 僕の言ったその一言で、母はピタッとパンを口に運ぶ手を止めた。


「なんだか辛そうだけど?」


 僕は心配している風な顔をして母の顔を覗き込んだ。実際は母を心配などしておらず、いつもと違う気持ちの悪い母を何とかしたいという思いで声をかけただけであった。


 ハァ、と母はため息をつきそしてパンを皿に戻し僕の顔を見た。


「裏切るのね」


 悲しい顔をした母が僕を見つめる。

 ああ、やっぱり。母は父が僕に手紙を寄越したことを知っているんだな、と僕は確信した。なぜ母は僕を引き止めないのだろう。


「僕が母さんを裏切る?そんなことするわけないじゃない。僕はいつでも母さんの味方だよ」


 僕の目が三日月型に変わる。


「僕が何かしたかい?」


 僕はまるで母の言葉の意味が分からない、というようなふりをして言った。本当はどうして母がこんな様子なのか、全てわかっているのに。


 母は少しの間無言だった。


 僕は母のコップにぶどうジュースを注ぎ、母の前に差し出した。


「これ飲んで落ち着いてよ」


 僕は席を立ち、母の横に立つと母の背中を優しくさすりながら言った。母の肩が震え始める。


「ありがとう……」


 僕は母が泣き止むまで母の背中をさすり続けた。

 震える母はまるで紙切れの様だった。


 これまで僕を支配し抑圧してきた母は、物分かりが良くなった僕をいつのまにか恐れるようになっていた。父からの手紙を僕から奪わないのも、きっと僕の機嫌を損ね、僕が母を裏切ることを避けようとしているからだろう。きっと僕がふっと一息吐けば飛んで行ってしまうほど脆い。


――いつからそんなに弱くなった?


 いつの間にか僕よりはるかに小さくなった母を憎むエネルギーで、僕は母の背中を撫でる。

 まるで僕の憎しみを背中に塗りたくるように。


 この時僕は父に会いに行くことを決めた。


 最愛の母を地獄に叩き落すために。

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