第6話

 Tとアイスを食べた次の日、冬休みの初日であるにも関わらず僕は朝の4時に目が覚めた。


 雪が降っているかどうか確認するために外に出ると、雪だるまを作れるぐらいは積もっていた。今日はきっとTが来るから、雪遊び用のコートと手袋を押し入れから出さなきゃ。


 微かに躍る気持ちの中、外に出たついでに郵便受けを見るとこんな時間だというのに手紙が入っていた。


 宛名を見ると見覚えのある、決して綺麗とは言えない字で『遠藤 健一さまへ』と書かれていた。


 Tの字だ、と僕は差出人を見なくてもすぐに分かった。そしてその瞬間、僕は昨日のTのか細い


「元気でね」


という言葉を思い出し、自分の身体が少し強ばるのを感じた。

 なんだか全身がびりびりして、とても嫌な予感がした。最悪ともいえるシチュエーションが何種類も僕の脳内で創作され、僕の思考を駆け巡る。

 僕は破るように封筒を割いて急いで便せんに目を通した。


『拝啓、けんちゃん

今日はとても寒いですね。昨日より寒い気がする。アイスを食べたからかなあ?

でもけんちゃんはきっとあったかい部屋のあったかい布団で寝ているよね。

けんちゃんは人気者なのに僕みたいなやつに優しくしてくれて、ほんとにいいやつだよ。


いつも僕はけんちゃんの友達から、けんちゃんと友達止めろって言われてた。

確かに僕はお金もあんまりないし、あんまり顔もよくないし。欠点だらけでけんちゃんに釣り合わないよね。でも僕にはけんちゃんしかいないんだ。実はね、僕が中学生になった時お母さんがいなくなっちゃったんだ。だから僕は本当に独りぼっちになった。でもけんちゃんがいたから、僕はいままで生きてこれた。例えクラスで悪口を書かれたり、手首を切られたり、おなかを殴られたりしてもけんちゃんがそばにいて、僕のつまらなくてくだらない話を聞いてくれたから僕は今まで生きてこれた。一緒に食べたアイス、ほんとにおいしかったなぁ。すき焼きもけんちゃんと一緒に食べたかったよ。


でももうむりなんだ。僕は毎日十円を貯金できるほどお金はないし、それに何よりも、つらくて痛いいじめにはもうたえられない。


僕は根性なしだから。


なぐられたり、けられたり、体にたばこをおしつけられるのはもういやなんだ。あばらが折れても僕には病院に行くお金がないんだもの。

でもまあ、病院に行くよりけんちゃんとだがし屋に行く方が楽しいから、病院に行かないでお金をためてたんだけどね。


ごめんねけんちゃん、すき焼きの約束は守れそうにないや。でもね、僕の部屋のかりんとうの箱にたしか40円入ってたから、それ使ってイイヨ。本当はそのお金であと一回ぐらいけんちゃんとだがしやにいけたんだけどね。


あーぁ、食べたかったなあ、すき焼き。


昨日食べたアイスがすき焼き味だったらよかったのになあ。でももし僕が昨日すき焼き味のアイス買ってたら、まずそうだからってけんちゃんは僕と同じアイス買ってくれなかったかな?


ううん、けんちゃんは優しいからお金がない僕に合わせて、きっと僕と同じの一番安いすき焼き味のアイスを買ってくれたよね。


けんちゃんのそういうふうに優しいところ僕は知ってるよ。けんちゃんの、僕以外の人にしてる優しさより僕にしてくれる優しさの方がずっとやさしいって僕、わかってるよ。


けんちゃん今までありがとう。


元気でね。そして幸せになって僕の分まで生きてね』


 僕は涙で、手紙の後半の文字が良く見えなかった。切羽詰まった僕の頭には『死』という一文字が明確に浮かび上がっていた。僕は涙をぬぐって急いで走ってTの家の前に行った。恐る恐る扉を開くとカギはかかってなかった。


 土足のまま息を切らして部屋に入ったけれど、Tはいなかった。


 もしかしたら、死んだのではなく夜逃げしてしまったのかもしれない。だったらこのあたりにまだいるかもしれない。僕はそんな淡い期待を胸に、握りしめていた手紙をポケットに押し込めて外に駆け出した。


 Tの家の周りを捜索すると、人がなかなか通りそうのない裏地に人が倒れているのを見つけた。


 僕は急いでその人に駆け寄った。その人は雪にうつぶせになっていた。

 

 真っ白な雪が紅に染まっている。


――どうか、Tじゃありませんように


 僕はそう願いながら震える手でその体を仰向けにした。

 けれどそこには僕が今一番見たくない人の顔があった。


「T!」


 僕は必死にTの名前を呼びTの身体を揺さぶった。けれど一向に返事はない。Tの唇は真っ青な口紅を塗っているかのようで、触れると人間の暖かさはTにはもうなかった。心臓に耳を当てても、僕のうるさい心臓の音だけが鳴り響く。


――死んでる。


 初めて実感したその事実は、この世のどんなものよりも重く僕の心にのしかかり、僕の体は鉛のように重くなった。


――けどまだ生き返るかもしれない。


 そう思って僕はいつかTVで見かけた心臓マッサージを思い出し、必死にTの心臓を動かそうと努力した。けれどTの身体は少しも弾力のない岩の様で、いくら僕が心臓を動かそうとしてもTの心臓が再び動き始めることはなかった。


「くっそ……」


 僕は悔し涙を流し、Tの胸元に手を置いたまま俯き固まった。


 なぜ僕はこんなにもTのそばにいたのに、Tの悲惨ないじめに気づかなかったのか、僕はひたすら自分を責め続けた。


 Tの虐められ暴力を振るわれていた苦しみや、その苦しみを誰にも打ち明けることが出来ないTのもどかしさ、重い怪我を負わされて痛いはずなのに貧しさゆえに病院にも行かず、僕と駄菓子屋に行くために痛みに耐えるTの健気さ。それらを思えば思うほど僕は自分と、そしてこの世の中を恨んで涙が止まらなかった。


 思い返せばTと一緒になったある帰り道、Tに元気がなかったので僕はTに気合をいれさせるために背中を思いっきり叩いた。


 するとTは、うぅと本当に苦しそうな声を上げ、その場に這いつくばった。


 僕は心配し大丈夫かと声をかけた。Tは大丈夫、大丈夫、と言いながら僕を支えに起き上がり、今日はちょっと腰が痛くて、なんて僕に言っていた。その時僕は、何か重いものでも持ってギックリ腰でもやったか? とTをからかうように聞いた。


 まぁ、そんな感じ。とTは力なく笑っていた。


 あの時もTはいじめられ、暴力を振るわれていたのだろう。あばらが折れていたのも、もしかしたらその時かもしれない。そのあと少しの間Tは学校を休んでいた。随分と重いギックリ腰だなぁ、なんて僕はのんきに考えていた。


 なぜ僕はTの悲惨な虐めに気づかなかったのだろうか、本当に僕は大バカ者だ。


 Tのいじめに気づいて止めていれば、Tはきっと死ななかった。Tの母親がいなくなったことに気づいていれば、Tをこんなにも苦しめずに済んだのに。アイスだってあんなに楽しみに喜んで食べていたのなら、Tが病院に行けるようにTの分を僕が買ってやればよかったのに。すき焼きぐらい僕の家にTを招いてごちそうしてやれたのに。


 痛いのを我慢するくらい、Tがこんな薄汚い心を持つ僕と一緒に居たいと思ってくれていると知っていたら、僕はTと一緒に病院に行って、Tと一緒に駄菓子屋に行ってTと一緒の安いアイスを何回だって一緒に食べたのに。


『死んだら楽になれるのかな……』


『元気でね』


 これらの言葉も全部TなりのSOSだったのだろう。

 なぜ僕は気づいてやれなかったのだろう。


 友達? 親友?


 僕はTを利用しようとしてただけだ。


 だからTのSOSに気が付けなかったんだ。


「T、ごめん。ほんとにごめん。謝るから、お願いだから目を覚ましてよ。アイスでもすき焼きでも何でも僕が奢るよ。病院だって一緒に行くよ。話ならいくらでも聞くから、いじめなら僕が何とかするよ。だから、だから……」


――戻ってきてよ


 僕は決して叶わないその願望を、眠り続けるTに叫んだ。


 けれど僕に帰ってくるのはしんしんと降り積もる雪がもたらす、静寂だけだった。


 僕の一指し指から血が出ていた。きっとTの手紙の封筒を破るように開封したとき、切ってしまったのだろう。


 僕の血で雪を紅に染めた。不思議なことに僕が雪を染めた紅よりTの雪を染めた紅の方が断然綺麗に見えた。僕はTの血が染めた雪を両手ですくった。雪は僕の体温でみるみる解けて、薄紅の液体だけが僕の手の中に残った。


 僕はその薄紅を飲みほした。食道がカッと熱くなる。


――生きて。


 僕はTにそう言われたような気がした。


「Tの分まで生きる。こんなくそみたいな世の中も、僕は誰よりも強く賢く生き延びてやる」


 僕はTの死に顔を目に焼き付けると、血が出ているTの口元をハンカチで綺麗に拭いてその場を去り、Tの部屋のかりんとうの箱の中から40円を持ち出した。


――Tの形見は誰にも渡すもんか。


 僕はその後の人生で誰にも、Tからの手紙もTの40円も見せなかった。

 Tの死は僕の生きる原動力となり、Tはいつも僕の心の中にいてくれた。僕の心の中にいる多くの僕の中にはTを追い出そうとするやつもいたけれど、それを阻止した僕がいた。


 それは僕が久しぶりに見た本当の僕の姿だったのかもしれない。

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