第3話
他者も己をも欺きながら自己を形成し、成長していった僕は小学五年生の時にある教師に出会った。
そいつは新しく赴任してきた男の先生で、僕の担任の先生であった。母が誰にでも自慢話をするため、僕に父がいないことは皆に知れ渡っていたが、僕は父なんていらないと思っていたので周りの同情の目なんて気にしていなかった。しかし僕の周りの生徒の親がその担任に
「あの子には父親がいないので、あなたが父親のような存在になるべきだ」
と僕のことを得意げに語っていた。
そんな有難迷惑に対し僕は
――そんなの偽善もいいところだ、
とは思ったが、同時に僕はこの担任を父親のように思えば良いのかとも理解した。
その頃僕はもうすっかりいい子も人気者も板についていたので、その担任へ父親のように接することなんてお手の物だった。
「先生あのね……」
僕は家であった嬉しかったことや楽しかったことなど、何でもニコニコと甘ったるい声でその担任に話していた。そうするとすっかりその担任も僕の手の内に入り、僕の支配下の人間となった。
――なんて人間は単純で取り扱いやすいのだろう。
と僕は満足げにそう思った。
しかしそんな風に過ごしていた矢先に、僕はその担任からしっぺ返しを食らった。
その担任の国語の授業の時に、ある偽善者の小説を読んだ。その担任は授業に偽善者とは何かという議論を持ち込んだ。
「俺の思う偽善者は……。遠藤(僕の名前)のような奴だなあ。勉強も運動もできるしおまけに顔もいいんだから、一番の極悪人だよなあ」
しみじみと言う担任のその言葉にクラスメートは笑っていたが、そのとき僕の目の前は真っ暗になっていた。
――僕が偽善者であることが皆にばれている……?
今思い返せばその担任の言葉は、僕の優秀さと自分を比べ、スペックの大きな違いで笑いを取ろうとしただけだある、ということが分かる。
しかし、その時の僕はそれを理解するには幼すぎた。僕は自分を人気者だと自覚すると共に僕は偽善者だ、とも自覚していた。
僕は血の気が引き、僕の本性がばれたのでもしかしたら僕は皆から大きな仕返しをされるかもしれないという不安で心がいっぱいになった。
それと同時に僕を一番の極悪人である、と言った担任の言葉に腹立つ気持ちも僕の心に渦を巻いて現れた。
――僕が一番の極悪人だと……?
――僕は人を殺した奴よりも、戦争を起こした奴よりも、誰よりも悪い奴だというのか……?
僕は尋常じゃないほど汗をかき、その場に居ても立っても居られなくなって力なく席を立った。
「遠藤、大丈夫か?」
その担任の言葉も無視し僕はふらふらと保健室へと向かった。その後は母に迎えに来てもらい、家に帰ったような気がする。記憶は曖昧だが、僕は自分の部屋に着くといつもの発作が起き、いつもより深く自傷した。
その時僕が我に返ったのは、鏡を割って得た傷の痛みを感じた時であった。どうやらこの時の僕は死への恐怖より、自分への殺意の方が大きく、鏡に映った僕でさえ殺したかったようだ。割れたガラスの破片に血だらけの僕が映る。涙が傷口に触れて、とても痛かった。
さすがに鈍い母も僕のおかしな様子に気づいた。母は口を開かない僕の様子を更に怪しがり、素晴らしいほどの情報網で僕の異変の原因を突き詰めた。
僕は数日学校を休んだ。
母親にもう大丈夫だから学校に行ってごらん、と気持ち悪い笑顔で言われ、拒否というものが出来ない僕は、何が大丈夫なのかわからなかったがしぶしぶ学校へ行った。すると驚くことに僕の担任の先生が、たまに廊下ですれ違う程度の顔見知りの女の先生に代わっていた。
噂によると僕は父親のように信頼していた教師に利用され裏切られた、かわいそうなシングルマザーの息子ということになっていた。
噂もここまで事実に反すると面白いな、と僕は苦笑すると共に新しい担任の僕へのよそよそしい態度で、改めて母の怖さを実感した。あの担任は僕の母に人生を握りつぶされた、その事実で僕の胸はすっと晴れたような気がした。
その日の夜僕は、今日は良く寝れるだろうと思い布団に入った。けれど目を瞑っていてもなかなか睡魔はやってこなかった。布団から起きてあたりを見渡すと、見覚えのあるような椅子が僕の部屋の真ん中に置いてあった。
こんなもの僕の部屋に置いてたかな? と不審に思いながら僕はその椅子に腰かける。
何だかこの風景、どこかで見たなぁなんて思いながら僕が前を見るとついこの間の発作でたたき割ったはずの鏡があった。
しかしおかしなことにその鏡は僕を映さない。僕は驚いてまじまじと覗くと次の瞬間、醜い人形が映し出された。
「ひぃ!」
と僕は声をあげて鏡から離れた。その人形は僕から目を逸らさず、僕を憎悪の眼差しで睨んでいた。その眼差しは僕の体中に突き刺さり、強烈な痛みが僕の体に染み渡る。
心臓が握られている様に苦しく、頭が割れそうなほど痛い。僕はその人形の眼差しから逃げるためにクローゼットに勢いよく入った。体中の震えと冷や汗が止まらず、僕は体育座りの体勢のまま頭を抱えていた。
結局僕は一晩中クローゼットの中で過ごした。翌朝クローゼットから恐る恐る出ると、部屋には鏡どころか椅子さえもなくなっていた。あれは夢だったのだろうか? と僕は自問自答したが、あの人形の眼差しを思い出すたび僕は恐怖感に苛まれ、体中の刺激が甦るので僕は考えるのを止めた。
あの眼差しや苦しみは担任からの憎しみの眼差しのようにも思えるし、僕の心の中のたくさんの僕が僕へ向けた殺意のこもった眼差しだったのかもしれない。何だか世界中の人間が、僕を殺そうとしている様な気がした。
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