第2話

 僕には父がいない。


 物心ついた時から『父親』という存在は、僕の心の中にはなかった。理由は、僕は母に父親という存在を教えてもらえなかったからだ。


 お前の親はこの私で、たった一人の大切な肉親なのだと、母に教えこまれた。そして世の中の一般常識では親となるべきは母親たった一人だとされている、とも教え込まれた。

 子供の信じる心は限りなく強くて、そして純粋だ。


 今思えばなぜ父親の存在に気づかなかったのか疑問だが、それだけ子供は自分の信じている者や事を疑わない。


 僕は母のことを心の底から信じ、我が家は一般的な家庭なのだとも信じていた。それゆえ間抜けなことに、小学三年生の時まで一般的な家庭には男女の親が一人ずついるとは知らなかった。


 そんな父の存在さえ教えてくれない偏見多き母は、いつも僕にいい子でいなさいと言っていた。いい子とはどんなものなのか見当もつかない年頃だった僕は、必死に母の様子を伺い、いい子になれるよう努力した。それは僕が母親を愛し、そして母親に捨てられることを何故か非常に恐れていたからだ。


 今思えば母親に捨てられ児童養護施設で生活した方が、よっぽど僕は幸せな人生を歩めただろう。


 母が笑うことは良いことで、怒ることは悪いことだとは本能的にわかっていたので、僕は母が笑い喜ぶことばかりをしていた。そのかいあって僕はどこに行ってもいい子と称され、母はいつもご満悦だった。自分の教育が素晴らしいのだと母は多くの人に自慢していた。


 しかしいい子に慣れてきた小学三年生の時、僕は父親というものの存在をクラスメートによって初めて知った。その時、僕の中で積み上げていた、母に対する過信からできた信頼が音を立てて崩れた。父親の存在を教えなかった母に、何故か異様なほどの憎しみを僕は抱いたのだった。それまでは自分は母を好きなのだと信じていたからこそ、いい子でいれた。


 しかし母は僕を騙していたと知り、裏切られたと思った僕の心には、初めて母に対して憎悪という感情が沸いた。これまで経験したことのないような憎悪という感情を、僕はどうしてよいかわからなかった。裏切られたと思っていた僕は、母に執着するあまりいい子でいることをやめることが出来なかった。悲しいことに僕はいい子でいること以外に愛される方法が分からなかったのだ。


 憎悪という感情を暴露して暴れてしまえば、母のいういい子でいれないということは、この憎悪という感情の汚さを察知していた僕には簡単に想像できた。僕は大変悲しいぐらいに感受性の強い子供であった。


 僕は相反する感情に板挟みにされ、この汚い感情のはけ口をもがき苦しみながら必死に探した。


 そしてやっと見つけた汚い感情のはけ口は、人を支配するという快感であった。僕はいい子でいることには自信があったので、僕は母以外の人の前でもいい子でいることにした。


 すると瞬く間に僕の周りには僕を好いている人が集まり、皆僕の言うことに従い賛同するようになった。僕は多数派に好かれることでその場の空気を支配していた。幼い頃から人間は空気を読んで生きる、ということを僕は熟知していたようだった。


 僕がyesといえば皆もyesといい、僕がnoと言えば皆馬鹿みたいに僕に賛同してnoと言った。


 こうして僕は、rulerになることで憂さ晴らしをすることに成功した。だから少々他人に無理難題を言われても、人に好かれるためだと自分に言い聞かせ、笑顔ですべて聞き入れ要望に応じていた。


 僕が人から好かれた理由は、いい子でいるからだけではなかった。僕は運動も勉強もとりわけ努力しなくても人よりできて、尚且つ顔もよかった。良くできる優秀さが鼻につかないように、たまに茶目っ気たっぷりな失敗をして人の心をくすぐった。こうすることで僕は『何でも良くできるけど、なんか憎めないやつ』を演じることに成功した。


 母の要求にもしっかりと応え、溜まったうっぷんは他人を支配することで憂さ晴らしする。こうして僕はなんとか精神の安定を保っていたが、時々僕は自分の心の汚さに吐き気を催し、もがき苦しむ時があった。


 自分を殺したい欲求があるにも関わらず、恐怖感ゆえ自殺を実行できない。そこで僕は安心する場所を求め探した。もがき苦しみながら僕が見つけたのが、自分の部屋のクローゼットだった。


 クローゼットに入り、ここでは何をしても僕は許されると思うと、僕は自然とカッターを手に取り服で隠れる部分を切った。すぅっと流れる真っ赤な血液は僕の汚い部分も洗い流してくれるみたいで、それでいてとても綺麗で、唯一僕の身体で穢れがない物だと思った。


 しかしごくまれに、どんなに人に好かれても、どんなに深く自傷しても気が済まない時があった。そんな時僕は我を忘れて暴れだし、部屋のごみをそのクローゼットにぶちまけ、自分の頭を思い切りクローゼットの壁に打ち付けた。


 その発作ともとれる行動から我を取り戻すのは、血だらけの自分の姿を鏡で見た時だった。鏡に映る血だらけの自分を見て、僕は生きているのだと実感する。


 すると僕の心を覆いつくしていた不安や殺意、恐怖がすっと消えていき、心に残るのは空虚感だけだった。僕は自分を殺したいと願うくせに、自分が生きていると実感すると安心し、我を取り戻す。僕が生きている限り発作の要因の苦しみや自分への殺意は続くけれど、僕にとって死ぬのは生きること以上に不安で怖かった。


 僕は生きていても死んでいてもこの苦しみからは逃れることが出来ない。だから僕は僕をどうすることもできない。


 それもまた悲劇である。


 僕のこの発作は不定期に訪れる。だから僕の部屋のクローゼットの中は、いつも血なまぐさくて異臭がしていた。それでも僕の部屋はクローゼットの中以外はごみ一つ落ちてない綺麗な状態だったので、母はクローゼットの異臭には全くもって気づかなかった。


 いつも僕の心にはいい子である僕と汚い感情を持つたくさんの僕がいて、いつもはお互いを客観的に、かつ冷静に見ていた。けれどこのたくさんの僕の中の一人が暴れだし、他の僕が必死に抑えても言うことを聞かなくなると発作は起きる。たくさんの僕は連携するフリをして、お互いを殺しあおうともくろみ、いずれ僕を乗っ取ろうとしていた。


 そのたくさんの僕の中の僕たちは歳を重ねるごとにどんどん離れて行って、暴れだす僕の中の僕を止めようとする僕は居なくなった。遠くからお互いを眺めてひっそりと殺すチャンスをうかがっている様だった。


 沢山の僕が散らばることでとうとう僕は、本当の僕がどこにいるのか分からなくなった。


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