生命の可能性
小さな蚯蚓腫れが、左手の薬指にできていた。何も考えずに動かしていた自分の手を見て、私は思わず口角をあげる。何故ならこの蚯蚓腫れは私の最愛の彼が付けてくれた傷だから。けれど彼はそんな私の心境を知らない。こんな傷をつけたことだって、きっと覚えていない。今日はどこの女とヤッてくるのかな、私は自分の蚯蚓腫れに軽く口付けをしてまた仕事に戻る。キーボードを打つ手は止まらないけれど頭はもうかなり前に思考停止していた。
彼の浮気癖を知ったのはいつだっけ?
それすらも覚えていない。私は何番目の女なの?私は彼が自分の浮気がばれていないと思い込んでいる時に、冗談半分でそんな問いを彼にしたことがあった。ベッドの上で彼に聞いた時、彼は煙草を吸っていた。
煙草の先っちょが少し照って、彼の身体には丁度今多くの有害物質が入り込んでいるんだな、なんて私は冷静に情景を捕えていた。彼はふーっと煙を吐いた。そしてにっこりとし私を見て私の手の甲にそっと触れた。
私は無表情で彼の顔を見続ける。きっと普通の女なら彼の笑顔に思わずつられて笑顔になってしまうのであろう。けれど、少しも笑顔を返さない私の様子を見て彼は笑顔をやめた。その眼差しの冷たさに私は、今まで気づかないふりをしていた彼の本性を見てしまった様な気がした。彼は私の手を思い切り握りしめ、煙草を私の手の甲に押しつけた。熱さのあまり私は無言で少しだけ顔を歪めた。
「ほらな」
彼は私の手をいきなり離した。急に彼から離され、私の手は布団の上に落ちた。
「お前はくそつまらねえ」
彼はまた煙草を吸った。そしてため息と一緒に煙を吐いた。
「反応が薄いんだよ。女なら演技ぐらいしろよ」
彼は煙草を灰皿に押しつけるとベッドから立ちシャワーへと向かった。私は茫然と彼を目で追った。
風呂場から漏れるシャワーの音に私は興味を無くし、彼が負わせた火傷を見た。外気の少しの刺激でさえ若干ひりひりするこの火傷が、私にとっては彼から貰った初めての形の残るものだった。水ぶくれになった火傷に私は触れた。矢が貫通するかのような刺激が私の身体に走る。その刺激で今まで眠っていた私の涙腺が、目覚めてしまったような気がした。
男に愛され幸せになれる女は、男にとっていいタイミングで泣けて笑えて、いい反応が出来る女なのだろう。演技だろうと自分の気持ちに少々嘘をついていたってそれが自分にとっての真実なのだと言い聞かせ耐えられる女がいい女。
私はそれが出来ない。彼が何を求めてどんな反応をすべきなのか、ちっともわからない。私は彼から見れば感情のない思いのままにできる人形だ。彼は私から見れば謎で不可解で、なぜ生きているのか分からない可愛らしい生き物だった。
風の噂で、ある同級生が出来婚したのを聞いた。女側の策略的な妊娠だと言う話で、そのことを語る人は皆、その女をどこか馬鹿にしたような口調で話をしていた。それの一体どこが悪いのだろう。それで結婚まで行きつくのだから、なんて素晴らしい愛なのだろう。
私がもし妊娠しても、彼はきっと私と結婚なんてしないだろう。むしろ彼は私を遠ざける。彼と付き合ってから飲み始めた避妊薬はいつまで経っても私に吐き気を与え続ける。
一体私はいくつの産まれくる生命の可能性を奪ったのだろう。きっとこの吐き気はその報いだ。
女にとって快楽の大切さは、生命を慈しむ気持ちに比べてとてつもなく薄い。けれど男にとっての生命を慈しむ気持ちは快楽の大切さに比べてとてつもなく薄い。性欲によって優しさを身に着けた男はきっとこの世で一番残酷な生き物だ。
私は少しでも彼の隣に居れるように彼の性欲を利用した。性欲を解消する道具に成り下がれるほどに私は彼が好きだった。
「お前は俺に捨てられたくないんだよ」
「お前は俺が居なきゃ生きていけない」
「お前は俺がそばに居れば何もいらないはずだ」
不思議と彼にそう言われるとそんな気がしてならない。彼は私の事なんて全てお見通しだった。
彼にとって私は、屍のようなものだろう。
彼は自分を吐き出し果てた後、私をごみを見るような目で見る。捨てて拾ってを繰り返し、都合のいい時だけ呼び出して、私のそばにいてくれたことなんて彼は殆どない。
死にたいな、私はそんな言葉を漏らしたことが一度だけあった。
「殺してあげようか?」
彼は私に言った。
「殺す罪を被れるほど、私を愛してないでしょ。」
私のその言葉で彼は舌打ちをした。
嘘でもいいから愛しているとか言えよ、なんて私は思った。
嘘偽りなんて要らない、そんな言葉は恵まれた人間にしか言えない。嘘だろうと性欲に塗れていようと私は彼に執着していたかった。私は彼に自分の存在を認めてもらいたかった。触れられたくて刺激されたくて、ハラハラさせられてくてドキドキさせられたくて堪らない。そうじゃないと私は生きている心地がしないのだった。
私に生きている実感を与えてくれるのは彼だけだった。だってこの世で私が好きなのは彼だけなのだから。私は彼に依存していた。かといって彼が浮気することに関して私は全く興味がなかった。ほかの女がそばに居ようと誰とやろうと私には関係がない。私と彼の関係が切れなければ私は何でも良かった。
ある日急に彼から電話がかかってきた。今晩の誘いだろうか、けれど彼の連絡はいつもLINEの『今晩行く』だけだった。電話なんて珍しい、私は少し踊る心を実感し、けれどどうせろくなことではないんだと自分に言いきかせ電話に出た。
『出るの遅い』
少し不機嫌そうな声で彼は言った。そんないじけた声も可愛いと思ってしまう私は感性がバグっているのだろう。
『どうしたの?』
『お前さ、熱とかない?』
私の言葉に被せて彼は言った。私は自分の額に手を当てる。若干暖かい。そう言えば今日は朝から節々がだるいし、頭も痛い。生理前だからだろうと私は思っていた。
『あるかも』
私のその答えに彼は舌打ちをした。
『やっぱお前じゃん、どっから貰ってきたの?風俗とか?』
私は彼に何を言われているのかてんで分からずしばらく無言だった。
『聞いてる?』
彼は言った。
『さっきから何言っているの?』
私は彼に聞いた。
『お前にクラミジアうつされたんだよ、こっちはもう病院行って薬貰ったけど。痛くて仕方ないわ。』
私は彼以外と性行為なんてしない。だから明らかに私から彼にうつしたなど考えられない。
『私じゃないわ』
さんざん愚痴っていた彼の言葉が止まった。
『は?』
『私、貴方としかしてないわ。』
『ええ?』
彼は変な声を出し一瞬沈黙すると何かを悟ったかのように急に思い切り笑った。
『何がそんなにおかしいの?』
私の問いにも答えず彼の笑い声は一向に収まらない。
『お前、性欲満たすために俺と付き合っているのかと思ったら違うんだな。』
彼は笑いながら言った。
『お前、俺のこと好きなんだな。』
彼は電話口できっと腹を抱えて笑っている。
『何がそんなにおかしいの?』
私は二度も同じ問いを彼にした。彼の言っていることがわからない、分かりたくもない。
『ごめんごめん』
彼はようやく笑い声を納めた。若干まだ漏れてはいるが。
『お前が俺の浮気を許しているのは、自分も浮気しているからだと思っていたんだよ。けどお前は浮気なんてせずに一途に俺のことが好きなんだって思ったらさ……』
彼はまた声を震わせ始める。
『おめえ馬鹿だよなぁ』
彼の言葉が、笑い声が私の頭にこだまする。
ーー違う、私はただ貴方にしか興味がないだけ、勘違いしないで。笑いものなんかにしないで。
ーーどこが勘違い?彼の言っていることは全部当たっているじゃない。
―私は浮気する彼を一途に好いている馬鹿者よ?
彼の笑い声は一向に収まらない。
私は彼に、自分と一緒でただ性欲を満たすために生きているのだと思われていたんだ。
身体が熱い。きっと熱のせい。この苦しい心も震える手も、内蔵全てを吐き出してしまいそうな吐き気もあふれる涙も全部、クラミジアのせい。彼から貰ったクラミジアのせい。
いつの間にか電話は切れていた。
彼からのLINEには早く直せとただ一言書いてあった。
ーー早くやらせろの間違えじゃないの?
私は既読したまま返信しなかった。
何度か彼からLINEが来ていた。
大丈夫? 治りそう? 金なら出すよ? 好きだよ?
クエスチョンマークを付けられると、返答しない私に罪悪感が与えられることを彼は知っているのだろうか。
結局私は二週間後ただ一言、治りました。そう彼に返答してしまった。
I love you そんなスタンプが彼から送られてきた。昔彼が無理やり私のLINEにダウンロードしたスタンプを私は返した。
目がハートになったキャラクターのスタンプ、浮気を許す馬鹿な女が、病気をうつす彼氏に送るスタンプでは絶対ない。でも彼に翻弄され馬鹿にされ笑われたことに私は今、生かされている気がする。今日も又、会えば数分でキスを交わしお互いの欲を埋め合い私は天にも昇る気持ちになる。そして彼は私に触れて付いた汚れをシャワーで洗い流し別な女の元へ行くんだ。
最近何だか涙もろくなった。そしたら少しだけ彼が優しくなったような気がした。彼につけられる痣も火傷もこの世の中で唯一の私の所持品だ。それが増えていくたびに私の心はどんどん壊されていく。涙をこらえる堤防も崩され、いつか私は自分の命を守る理性すら壊れてしまうような気がした。
『お前はくそつまらねえ』
そう言われた時より私は人間らしくなった気がする。
今の私は彼の何番目なのだろう。
その問いを今度は本気でしてしまいそうだ。
ーーいけない、私はそんな女じゃない。
私は彼から貰ったものを後生大事に抱きしめて彼を待ち続ける女なんだ、そう私は自分に言い聞かせる。
シャワーの音が未だに鳴りやまない。私は立ち上がって自分の裸を鏡で見た。痣で所々赤く、痛々しい。貧相な身体は幼い時から成長してないような気がした。心も体も、もしかしたら私は14歳で時を止めている。ぶーっと彼のスマホが鳴った。画面を見れば女の名前が表示される。白くて細い私の身体。鏡を見ると目から涙が零れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます