第三章

妄想恋愛ってか。

 お見合いの話が聞こえてきたのは、施設に来てから一か月経った二月だった。ハンセン病同士の結婚は子供を作らないことを条件に許されている。しかし私は文太郎がどうしても忘れられず、お見合いをすべて断っていた。


「何故俺との見合いを嫌がる。」


 けれど一人だけ私に対してしつこくお見合いを迫ってくる男がいた。坂東一と言って、偽名なのかどうなのかは知らない。私より10歳年上の男で、軽度のハンセン病患者だった。


「付き合っている人がいるんです。」


 私は農作業の手を止めずに言った。


「戦争に行って便りもない男を待ち続けるのか?」


 その厭味ったらしい言葉に私は手を止めて鋭い眼差しを向けた。


「ええ、勿論。」

「何故だ。」


 しつこく聞いてくる坂東に私は苛立ちを覚えた。ほかに女はいくらでもいるはずだ、他を当たってくれと私は思いながらももう話すのが面倒くさくなりそっぽを向いた。


「おい、答えろよ。」


 けれど坂東は私の腕を掴んで私の無視を許そうとしなかった。


「しつこいです! ほかにあなたと結婚できる女性はここには沢山いるでしょう? お願いですから他を当たって下さい。」


 私は坂東に掴まれた自分の腕を解放させようと力を込めながら言った。


「お前じゃなきゃダメだ。」

「何故です?」


 私がそう聞くと坂東は口を開いたまま固まった。何か言いたげな顔をして私を見ている。私は硬直する坂東の顔を不思議に思って覗き込む。


「す……。」

「す?」


 かすかに坂東から聞こえた声を私は反復する。


「きだからだ」

「何言っているんですか。」


 私は胡散臭いその言葉を鼻で笑った。


「本当だぞ!」

「へぇ、そうなんですか。」


 私は坂東の冗談に呆れて農作業に戻った。


「せっかくの告白をそんな風にてきとうに流すなんて、お前ほんとに行き遅れるぞ。」

「いいです別に。」

「戻ってこないかもしれないぞ。」

「うるさいです!」


いつまでも追いかけてくる坂東に、私は我慢の限界だった。


「ついてこないでください!」


 私がそう言って坂東の方へ振り返ると坂東は私の肩を掴んだ。私は驚いて坂東から離れようと彼の肘を掴んだ。その瞬間、私の唇に坂東の唇が重なった。体全体の力が抜けて坂東の肘に添えられた私の手は、はたから見るとまるで合意の口づけであるかのように演出した。


 唇が離れても私の唇には坂東の唇の感触が残っていた。私は自分に起こった出来事が信じられず、口元に手を置いて目を見開いた。


「なんだ、したことなかったのか。」


 悪びれもせず坂東は私に言った。


「信じられない……。」

「お前が俺の告白を流すから、態度で示したまでだよ。」

「そんな勝手に……」


 私は何だか胸が潰れそうで、喉の奥がキュッと閉まる思いがした。


「まさかしたことなかったとは思わなくて。」


 泣き出しそうになっている私にさすがの坂東も申し訳なさを覚えたのか、謝罪に似た言い訳をした。


「文太郎さんは私を大切にしてくれました。」

「手を出さないことがどうして大切にしていることになるんだ。」


 その言葉に私は自分の言葉を詰まらせた。


「本当に好きなら口づけだってなんだってしたくなるだろう。付き合っているならなおさら。」


 私は始終黙っていた。


「本当に好きだったのか?」

「それはそうです!」


 へぇ、と坂東は声を漏らした。


「あなたに私たちの何が分かるんですか? 恋愛なんて口づけとか行動だけが全てじゃないでしょう?」

「行動が全てさ。」


 坂東は私の必死の反論を真っ向から否定した


「人間、行動にしなきゃ何にも伝わらない。実際君たちは本当に気持ちを通わせられていたのか?」


 私はあの雪の日を思い出した。彼が医者になることを諦めたことに気づかなかった私は、彼の恋人になれていたのだろうか。お互いの恋心を行動に表せないまま、私たちは離れてしまった。


「その顔だと怪しいな。所詮恋愛ごっこだったってわけだ。」

「ごっこって……。」

「お前の脳内だけで繰り広げられた生ぬるい愛情なんて所詮ごっこ遊びさ。妄想恋愛ってか。」


 厳しい坂東の言葉に私は何も言う気力を無くし下を向いた。文太郎の声を忘れかけてきてしまっていた私は、愛も恋心も所詮は私の中の幻想だったのか、そう坂東によって気持ちが揺さぶられ自分の気持ちが信じられなくなった。


「俺は好きだぞ、お前の事。だから俺と結婚しろと言っているんだ。」


 ぶっきらぼうに偉そうに言う坂東に私は嫌だと言おうと彼を見た。すると彼は口調からは想像もつかないほど、彼は照れた顔をしていた。私はその照れた顔に呆気に取られ、話すことを忘れた。


 久しぶりに思い出した、好きだと言われる切なさ、思いをぶつける男の真剣な眼差し。こんなにも胸が躍るものだったかしら? 私は生唾を飲んだ。そんな私の様子を見て何かを感じ取った坂東は私から目を逸らした。


 私より10歳も年上のくせにこの人は、告白した相手の前で手を握りしめ震える足元を必死に隠している。なんて可愛いんだろう、私は擽られた母性に似た愛着を坂東に抱いてしまった。


「デート」


 私のその言葉に坂東は握りしめていた手の手汗を拭きながら


「どこに行く。」


 と即座に言った。ぶっきらぼうでありながら嬉しそうなその様子は、自分の緊張感を私に隠しているつもりなのだろうか? 私は思わず口角をあげた。


「何を笑っているんだ。」

「いえいえ、別に。」


 私は口を手で覆いながら言った。私のそんな様子に坂東は少しだけ安堵したようだった。


「じゃあ明日、迎えに行くから部屋で待ってろ。」


 そんな言葉を残し坂東は私からすぐさま背を向けた。歩いた先で何だかご機嫌だな、そんな声を坂東は掛けられていた。坂東が目の前から去った私に訪れたのは、文太郎への罪悪感だった。


 もし、彼が生きていたら、私は浮気者ということになる。彼はどれだけ傷つくだろうか。ハア、と私はため息をついた。坂東に流されてしまった自分の、文太郎への愛情の薄さに呆れる。


「そんなもんさ。」


 そんな時私たちの会話を陰で始終見ていたおばさんが私に声をかけた。


「女なんてすぐに見える愛情に流される。けれどそれでいいんだよ。幸せにしてくれる人が自分の一番好きな人とは限らないさ。」


 おばさんは固い土を鍬で穿り返しながら言った。私は何も言わずに鍬を手に取った。


「戦争に行った人間が、戦争に行く前の精神状態で帰ってくると思っちゃいけないよ。」


 その言葉で私は鍬の動きを止める。


「人を殺して帰ってくるんだ。正気の性じゃないだろう。」


 私はただ俯いて話を聞いていた。あの志高かった彼を思い出す。もうあの彼は失われてしまったのだろうか。それを知る手段は今の私には無い。


「流されてしまえばこっちのもんさ。」


 始終私は返答もせず、私はまた腕を動かし始めた。土を掘るエネルギーは自分への戒めから来ている様だった。

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