忘れられない
「おはよう」
朝の七時だと言うのに坂東は私の部屋をノックした。
「まだ七時ですけど。」
私は寝起きの姿で坂東に言った。
「もう七時だ。」
きっとこのデートを心待ちにしていたのだろうな、私は坂東の様子からそう感じ取った。
「待っていてください。」
私は一つため息をついて言った。
「待つ待つ、いくらでも。」
私は扉を閉めると服を着替え始めた。
「デートかい?」
親方が私に話しかける。
「ええ、そうなんです。」
何か小言を言われるかと思ったが他に言い訳も見つからないので、私は正直に答えた。
最近買った赤いスカートを履き、白いシャツを着た。
「ちょっと待ちな。」
親方は私の前に立った。
「目をつぶって」
私は何をされるのか分からなかったが、親方の言う通り目をつぶった。唇にくすぐったい感触がある。
「やっぱり似合うね。」
親方のその言葉で目を開けると鏡が差し出された。私の唇がほんのり色付いている。
「楽しんでおいで。」
親方はそう言うとそそくさと部屋を出て行った。お礼を言いそびれてしまった、そう思い少しの申し訳ない気持ちと感謝の気持ちを感じながら鏡を見ると、いつもとは違う私がそこには映っている。私は自分の姿に少し見とれたが、坂東が待っていたことを思い出し、鏡を机に戻すと坂東の元へ向かった。
「お待たせしました。」
「ああ、かまわない。」
読んでいた本から目を離し坂東が私を見ると、彼は一瞬動きを静止させた。変だったかな、と私は彼の反応を見て心配したが、けれど少し赤くなった彼の頬を見てそうではないことを知った。
こんな時でも私は文太郎を思い出す。私の浴衣姿を見た時、文太郎は今の坂東のように頬を赤らめていた。私は彼の照れた顔やしぐさが好きだった。文太郎がそばに居ない寂しさから、私は文太郎と坂東を重ね合わせている。
私の愛おしいあの笑顔、目を閉じても今もなお鮮明に思い出せる。私は一体何をしているのだ? 隣に居る坂東のことなんて、私は今これっぽっちも考えていない。いつの間にか歩き始めていた坂東に追いつこうと、私は駆け出した。
坂東は何かを必死に話していた。きっと私との間に沈黙があることが嫌なのだろう。けれど私は坂東の声が耳に入ってこない。忘れてしまった文太郎の声を私は求め続けている。
女は愛すよりも愛された方が幸せ、そんな言葉を聞いたことがある。本当にそうなのだろうか。だったらなぜ私は今なぜこんなにも苦しいのだろうか。
「結子、どれがいい?」
私は坂東に顔を覗かれはっとした。気が付けば私たちはアクセサリーのお店に居た。
「買ってやるから、好きなもの選べ。」
目の前に並ぶきらきらしたアクセサリーは、何だかとても眩しかった。その綺麗さに息を吸うと共に目頭が熱くなる。
「これなんかいいんじゃないか?」
坂東は黄色のバラのコサージュを手に取って私の洋服に着けた。
「良く似合うぞ。」
坂東は私の今の心情を知らない。私が他の男のことを想っていることの残酷さを知らない。だからそんなにもまっすぐに私を見つめる。その眼差しが文太郎の眼差しと重なって、私は文太郎に見られているような気分になった。優しく細まって少し皺の寄った目じりは、私の首をゆっくりと力強く絞めた。かすかに景色が揺らぐ。
「どうした?」
私の様子に気が付いて坂東は私の顔を覗き込む。見ないでください、あなたじゃないんです。そんなことは口が裂けても言えなかった。
「すごく可愛いぞ、もっと派手なのが良いのか?」
愛おしいほど鈍い坂東は私の好みのアクセサリーを探そうと、必死になって店内を見回る。けれど私はいつまでもありもしない文太郎の面影を探す。
――嗚呼、駄目だ。私はやはり文太郎のことが忘れられないらしい。
このまま坂東と一緒に居ても寂しさは募り、坂東の気持ちを弄ぶことになるだけだ。私は自分の最低さを身にしみて感じ、坂東へ別れの言葉を告げようとした。
「結子ちゃん!」
そんな時京子が私を見つけアクセサリー屋に急いで入ってきた。病気であまり体を動かせないはずの京子が走ってきたので、私は酷く驚いた。
「京子ちゃん、どうしたの?大丈夫?」
「手紙が来たのよ!」
私の心配の言葉を無視し京子は言った。
「結子ちゃんのお母さんが文太郎からの手紙を持ってきたの!」
私はその言葉を聞くや否や坂東に目もくれず店を飛び出した。
「結子!」
そう坂東に呼ばれた気がしたが私はそんな言葉を気にせず走った。
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