残酷な過去
「結子ちゃんの気持ちはすごくよくわかるわ。」
頷きながら京子は言った。
「他人の背景なんて知っていても心は当事者にしかわからないものね。」
「背景?」
私は京子の言っていることが分からず聞き返した。
「あれ、もしかして知らないの?何でぎょうさんは人形いつも持っているのか。」
私は頷いた。
「ああ、そうだったの。」
「何か理由があるの?」
その時、何故ぎょうさんはいつも人形を持っているのか考えたこともないことに私は気が付いた。
「ぎょうさんは身ごもっていた子供を無理やり中絶させられておまけに堕胎手術まで受けさせられたのよ。」
「え……。」
私はその悲しい衝撃的な言葉にかなり驚かされた。
「だからぎょうさんは未だにショックで人形を抱いているのよ。」
私はぎょうさんが叫んだ言葉を思い出した。
「だから、私の赤ちゃんって言っていたのね……。」
京子は頷いた。
「きっと今も忘れられないんだろうね、ハンセン病ってだけで女の権利まで奪われるなんてどうかしているわ。」
ぎょうさんの心情を思うと私は胸が詰まる思いがした。我が子に向けたかった行き場のないぎょうさんの愛情は、今もなお人形に注がれている。もちろん人形は動き出すどころか、ぎょうさんと心を通じ合わせることもない。私は下唇を噛んだ。
「見返りがない患者作業だけど、ちゃんとまっとうしていて結子ちゃんは本当に偉いわ。」
京子のその言葉に私は首を横に振った。
「全然だめよ。私は知らない間に見返りを求めていた。」
「当たり前じゃない、人間なんだから。」
私の言葉に被せるように京子は言った。
「見返りを求めたっていいじゃない。そうやって自分を責めるから自分が苦しくなってくるのよ。人間出来ることに限度はあるし、心を壊してまでするべきことなんてないはずよ。結子ちゃんは頑張っているんだから、あんまり自分を責めないで。」
私は深くため息をついた。京子の慰めがじんわりと心を温める。人間は些細なことで自分を見失いやすい。物事を完璧になんてできないことや偽善の心が湧いてしまうことはしょうがないと、どうしていつの間にか忘れてしまっていたのだろう。文太郎と離れ彼を恋しく思う日々の中で、心が疲れてしまったようだった。
「ありがとう。」
私は京子に礼を言った。
「いいのよ、最近結子ちゃん元気なかったからね。きっと色々思うことはあるんだろうけど良かったら何でも話してね。」
色々、その言葉の真意を京子から感じ取る。月に一度面会に来る母は文太郎からの手紙を毎回持っていない。届いてないんだと少し気まずそうに話す母の様子は、私に余計な心配をするなと遠回しに伝えているが、そんなことは無理である。便りが来ないことは彼の死を意味しているようで、私は毎晩真っ暗闇で彼を想い身体を震わせ、月に彼の無事を祈っていた。
私は京子にありがとうと伝えると、血が止まった傷口に包帯を巻いて部屋に戻った。ぎょうさんを見ると寝ているはずなのに、いつもより人形を抱く力が強まっている様だった。彼女の過去の苦しみはきっと私には理解できない。
けれどぎょうさんの強まる腕の力でひしひしと痛みが伝わってくる。どれほど辛かったのだろうか、人形の汚さやボロさで私は彼女が苦しんだ歳月の長さを感じ取る。私は心の中で先ほどの無礼をわび、べーさんの方へ体を向けた。べーさんは未だ起きていた様で目を見開いて天井を見た。
「べーさん、さっきはごめんなさい。」
私はべーさんに謝った。いつものごとく反応はないだろう、そんな私の予想とは反して彼女は首を横にして私を見た。
そして私の怪我をした手に曲がり切った指を重ねる。
相変わらず表情は何も変わらない。
そう言えばべーさんは舌以外の肌の感覚が全て働いていないこと私は思い出した。あの時私の怪我を案じたべーさんは唯一残った感覚で私の怪我の状態を知ろうと、私の傷を舐めたのだった。そんな行為を私は気持ち悪いという言葉で片づけた。自分のしたことの残酷さに私は肩を落とした。
ハンセン病同士分かりあえる、なんて甘い考えを持っていた自分に私は若干の怒りすら覚える。つきっきりでべーさんに関わっていながらも私は、表情が変わらないべーさんにまるで感情のないロボットであるかのように接していた。彼女は確かに人の心を持つ優しい女性だった。
「ごめんなさい……。」
私はべーさんの手に自分の手を重ねた。涙があふれそうだったけれど押し堪えて彼女の顔を見た。やはり彼女の表情は変わらない。けれどその時べーさんの目から一滴の涙が零れ落ちた。見返りがないなんてそんなことはなかった。ただ私にそれを感じ取る気持ちの余裕がなかっただけだった。
「ありがとう。」
私は一言そう言ってべーさんから貰ってしまった涙を引っ込めるために笑顔を作った。手から伝わる体温は暖かくて優しくて、私はべーさんからありがとうと言われている気分になった。私はそっとべーさんから手を離し彼女の身体を動かした。
朝焼けが窓から漏れて新しい一日の訪れを告げる。この朝焼けを文太郎は見れているのだろうか、美しすぎるこの朝焼けは何だかとても残酷な気がした。
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