生きていて、良かった。

 付き合って数か月経った夏、私は文太郎に花火に誘われた。


「花火ですか?」

「ああそうだ。見たことあるか?」


 私は首を横に振った。


「綺麗だぞ。みんな浴衣を着て、打ちあがる花火に叫ぶんだ。」

「なんて?」

「たーまやー!」


 文太郎は人通りの少ない道端で叫んだ。若干の視線が集まって文太郎は少し照れていた。照れた時の文太郎の笑顔は、決まって右目だけを細める。本人は知らない癖だろう。その癖が見たくて、私は時々文太郎が照れるだろう無茶ぶりを彼に振っていた。私の心情を知ってか知らずか文太郎は大概のことには応えてくれた。


「見に行きたいです。」


 私は声に笑いが含んでしまいながら言った。


「そうか」


 私の返答に文太郎は嬉しそうに呟いた。


 二人の間にお互いの時間を共有できる喜びが広がる。


 きっと文太郎の浴衣は勇ましくかっこいいんだろうと私は思った。

 花火の当日は文太郎が見つけた、誰もいない瓦の土手で二人きりで見た。私が着た浴衣には母のおさがりの白くて赤い牡丹の花が描いてあった。本当は茜色の浴衣が良かったが、口では文句を言いながらも嬉しそうに私に浴衣を着つけてくれた母を見て文句も何も言えなくなった。


 文太郎は白の麻の生地に黒で幾数本の線が書いてある浴衣で、あまりのかっこよさに私は文太郎の浴衣姿を誰にも見せたくないと思った。


「綺麗だな。」


 夜空に打ちあがる花火を見ながら文太郎は言った。


「本当ですねぇ。どうしてこんな色が夜空に書けるんです?」

「炎色反応だよ。」


 文太郎は私に炎色反応とやらの説明をし始めたが、私には難しくいつものように私はただ頷いていた。私に理解できないことぐらい分かっているはずなのに、文太郎は一生懸命話し続けた。そんな様子が可愛らしくて私はいつしか文太郎の言葉を追うのを忘れて、彼の顔に釘付けになった。


 花火の途切れ途切れの光では、彼の顔を見るのに満足できないほどしか彼を照らすことが出来ない。いつの間にか文太郎の口の動きが止まっていた。花火が光るたびに現れる文太郎の瞳には、私の浴衣の色がはっきりと映る。私は今彼の隣に居るんだ、その事実が嬉しくて私は笑みを浮かべた。


 きっと私の瞳にも文太郎が映っている。嗚呼、何故私の瞳の中の文太郎さんは見えないんだろう、そんな変なことを私は考えていた。


「綺麗だよ。」


 文太郎は私に言った。


「花火よりもですか?」


 私は冗談めかして言った。けれど真剣な文太郎の表情は変わらない。


「ああ、世界で一番綺麗だ。」


 私は強ばった顔で言った彼の言葉のスケールの大きさに、思わず吹き出した。私のそんな反応に文太郎は少し眉を顰める。


「本当だぞ。」

「ありがとうございます。」


 私は未だに笑いをこらえながら可愛らしいお世辞にお礼を言った。


「本当って言っているだろ。」


 文太郎は私の両肩を掴んだ。


「世界で一番、なんて胡散臭い。」


 私は彼の冗談ともとれる言葉を笑った。けれどそれは彼の眼差しが許さなかった。私は彼のただ私を一直線に見つめる眼差しに、いつもとは違う熱っぽさを感じて狼狽えた。自分の心の置き場がなくなってしまうほど彼は四方八方から私を見ているようで、私は少しの息苦しさを感じた。けれど癖になる胸の苦しさと喉の奥の苦さで、私はいつまでも彼に見られ続けたいと思った。


 彼の手が私の座る地面の近くに落ちて彼の顔が私の顔に近づく。動揺のあまり私は体を彼から遠ざけたが彼の地面についていない方の手が私の腰に添えられて、私は逃げることが不可能になった。病気がうつります、その言葉は喉元まで来ているのに、異様な喉の渇きで声にならない。


 彼の顔が今までにないほど近くて、それでも私たちは目線を逸らさなかった。きっと逸らしても彼の視線は私を捕える。逃がさない、そんな風に言われている様だった。彼の顔が少し傾いた。私はギュッと目を瞑った。きっとこれから感じるであろう唇の感触の予感は、私に期待と不安と羞恥を与える。


 けれどいつまで経っても唇には何も感じない。目を開いて彼を見ると、彼は口を堅く結び至近距離で私を見ていた。私は彼の行動がよく理解できず彼に不思議な顔を向けた。すると彼はにこりと優しい笑顔を浮かべ、私の耳に自分の口を近づけた。


「愛してるよ。」


 耳にかかる彼の吐息に私は全身の神経を一気に刺激されたようになり体を震わせた。


「愛……。」


 私は彼の言葉のロマンチックさと彼の顔の生真面目さのギャップに、くすぐったさを覚えた。甘いささやきを滅多にしない彼からその言葉を聞けたことに私は心の底から喜びを感じた。


「お結」


 嬉しそうな私の様子を見て文太郎は私の名前を呼んだ。私は彼に名前を呼ばれると何故かお腹の底がツンとして、何かが湧き上がってくる心地がする。私は文太郎を見た。


「愛しています。」


 今まで発したことがなかったその言葉を私はまるで息を吐くように言った。大きい声ではなかったけれどその文字一つ一つが夏の夜の涼風に乗って文太郎の心に届く。私たちを通過した風たちは草木を揺らしどこか遠くで爽やかな風鈴が鳴った。


 その夏の蒸し暑さをどこかにおいてきた涼しい風を肺一杯に吸い込んでも体の芯の温かさは変わらない。少し熱っぽい文太郎の手が私の手を掴んだ。


「帰ろうか。」


 私は帰りたくないという気持ちを隠しながら頷いた。


「生きていて、良かった。」


 私は彼に聞こえるかどうか分からないほどの声の大きさで呟いた。

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