目を見ろ、君は生きている。
「おはよう」
私の家は農家だった。毎日の日課である家の手伝いのために水を汲みに行っていると、聞き覚えのある私の心をざわつかせる声が聞こえた。
声の方を見ると、やはり私の胸騒ぎの主犯だった。
「おはようございます。」
私は水くみの手を止めずに言った。
「ほらね、会えただろう?」
屈託のない笑顔を私に向けながら彼は言った。
「たまたまです。」
私は手桶に入りすぎた水を少し捨て、手桶を持ち上げた。
「春と言っても、やはりまだ寒いな。」
彼は私の汲んだ手桶の水に、指の第一関節を突っ込みながらそう言った。
そして少し濡れた指を手桶から取り出し、私の前にその指をかざした。不思議に思って私がその指を覗き込むと、一瞬その指は弾け私に水をかけた。
「わっ」
私は思わず声を出した。そんな私の様子を見て彼はけらけらと笑っている。
「な、なにをするんです!?」
私は彼の行動が信じられず目を見開いて言った。
「今日も元気じゃのう。」
彼は私の頭をぽんっと一瞬叩くと私から手桶を奪った。
「どこまでこの水をもっていくのだ?」
私に謝罪もせず、彼はあたりをきょろきょろ見渡しながら言った。
「いいです。」
私は彼の手に触れてしまわぬように、手桶を取り返そうとした。一瞬、手桶の横木に並んだ私たちの手に目が止まる。肩輪者の私と健常な彼の手は、何だか細胞一つ一つまで違うような気がした。
そんな一瞬の気のせいもすぐに頭から過ぎ去り、彼から手桶を奪い返すことに私は必死になった。
けれどガタイの良い彼の握力には勝てず、ただただ手桶に汲んだ水がこぼれてしまうだけだった。
土の上に水が落ち、それを彼は見つめていた。
「不思議だな。」
「何がです?」
私は結局彼から手桶を取り返せず、疲労困憊しながら聞き返した。
「これ。」
彼はさっき私がこぼした水を指さした。
「土に水がかかると泥になって汚く見える。」
「ええ、そうですね。」
何が不思議なのか検討もつかず、私はてきとうに相槌を打った。
「でもさっき」
彼は土から目を離し、私を見た。
「お結に水をかけた時は、とても綺麗に見えた。」
彼は不思議だなあ、と言いながらまた土を見ていた。
私は顔に血が集まるのを感じ、まるで手桶の横木が熱いものであるかのように、横木から手を離した。
これまでに感じたことのない感情、これが羞恥というのか?
綺麗、なんて一度だって言われたことも思われたこともなかった。嬉しさと恥ずかしさとほろ苦さが一度に胸のあたりに集結して、何だか心拍数ばかりが早くなって時が進むのがだいぶ遅いような気がした。
それと同時に私は早く彼から離れたくなって、彼から逃れる方法を心の中で必死に探した。
「お結、これはどこに持っていくのだ」
彼が私の方を見ようとしていた。今自分の顔は紅潮していて、きっといつも以上に醜いはずだろう。それに照れている自分の姿なんて、見せたくなかった。
見られたくない一心で私は顔を下に向けた。その拍子に手桶に汲んだ水に映った自分と目が合った。今まで見たことがないほど自分の顔は紅潮していて、目はうるんで今にも泣きそうな顔をしているくせに、大粒の涙は心に溜まって流れてこようとはしなかった。ついでに酸素も心に溜まっていて、肺がとても苦しかった。
けれどそんな自分の顔は不思議なことに、今まで見た自分の顔で一番まともだった。温めると赤くなる白あざが、紅潮した顔に馴染んでいつもより目に着かないからだろうか。
「お結、耳が真っ赤だぞ。」
彼が今どんな顔をしているのか私には分からなかったが、彼の表情を知りたいと思う感情が、自分の顔を見られたくないと思う感情に負けていた。
「結子」
彼が私の名前を呼んだ。
その瞬間、ただそれだけの事で私のあらゆる思考が今までも存在していなかったように綺麗さっぱりどこかへ消えた。
考える能力を失った私は無抵抗のまま、彼の隣に自分が存在しているというこの現実に堕とし入れられたような気がした。私は手桶に映った自分から目を離し、ゆっくりと彼を見上げる。初めて見た時から変わらない彼の瞳は、直視できないほど眩しいはずなのに私の瞳孔は、彼を全て感じようと開きっぱなしだった。
「ほら、必要な出会いだっただろ?」
私の心中は彼にはすべてお見通しなのだろう。彼は手桶を土の上に置いた。そして私の両肩を掴んだ。
「目を見ろ、君は生きている。生きている人間は、人の目を見て話さにゃならん。目を背けるのは死んであの世に行く時だけでいい。」
私は彼の目に吸い込まれるように彼の話を聞いていた。
「君は生きるのだよ、君の病気はきっと俺が治す。君のように美しい人は前を向いて生きるのだ。」
彼の口からすらすら出てくる華麗な言葉は、彼以外の口からでた言葉ならば私は受け付けられなかっただろう。けれど彼の私の両肩を掴む力強さは私の背筋を伸ばさせて、私に一本の芯を与えてくれた。彼の目はきらきらしていて、夜空の星のように無限に広く可能性に満ちている様だった。
――俺が治す。
そんな胡散臭い言葉も、彼の目を見ていると訪れる未来のような感じがした。
何にも期待しない、そう思っていた私が彼を信じたいと思ってしまった。それは私の人生において一生の不覚のような気もするし、幸運の鍵であったような気もする。
「私の家の畑はあっちです。」
私は自分の家の畑の方を指さしながら彼に微笑みを向けながら言った。上がる私の口角につられ彼も目を細める。私たちの心の中で何かが通じ合った瞬間だった。
それから私たちは、お互いを自分の心の中に住ませた。
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