妄想恋愛
狐火
第一章
出会い
「この子の病気はそう簡単にはうつらない、君たちは何の勉強をしてきたのだ。」
同じ医学を学ぶ同士にそう叫んだ市川文太郎の髪は春風に揺られ、私は何故かその髪の毛の揺れから目が離せなかった。信念を持った凛々しい彼の横顔に潜んだ情熱は、私のような小娘には耐えることのできないほどの熱さだった。
私を罵った奴らが去ると両親すらも触れようとしない私の両肩を、彼は軽率にしっかりと掴んだ。
「君も君だぞ、あんな連中の言葉に惑わされるなんて。もっと胸を張って生きろ。」
――胸を張って生きろ。
そんな言葉を私に言う人間は彼が初めてで、きっとこれからも現れないだろう。
「ありがとうございました。」
私はそう言って彼から距離をとった。
――うつるから、あっちに行け
そう言った彼の同士たちの言葉を皆殺しにした彼の言葉に、私は自分の大切にしてきた壁がぶち壊される気配がして、すぐにこの場から立ち去りたかった。
「おい」
私を呼び止める彼の言葉を無視して、私は彼に背を向け歩き始めた。
「君は何を恐れている。」
私は思わずその言葉で足を止めた。
「少女よ、大志を抱け。」
私は彼の方へ振り返った。
「それは少年では……?」
私は彼を見て言うと、彼は日焼けした肌から真っ白な歯を見せた。
しまった、思わず振り返ってしまった、そんな風に思ったのも束の間で、その屈託のない向日葵のような笑顔で私は彼の全てを受け入れてしまえそうな、そんな気さえした。彼の笑顔に心を撃ち抜かれた、とでも言えば適切だろうか。
「君が振り返る言葉なら、何でもいいのだ。」
彼は私に小走りで近づいた。
「俺は市川文太郎、君は?」
私は彼を振り返ったことをやはり後悔した。
何故なら彼はいつも私が自分の目の前に作り上げている病気の壁を優に乗り越えて、私の醜い顔を、目を見ようとしていたからだった。彼の眼差しは汗が垂れるほど暑い夏の日差しのようで、どんなに逃げてもどこまでも追いかけてくるような気がした。
私はほぼ反射的に顔を彼から背けた。
日ごろから人に触れることはもちろんのこと、人と仲良くなることすら避けていた私は日常的に人の目を見るなんてことはしない。私が人とかかわりを持とうとしないのは病気をうつさないためでもあるし、平気を装いながらも自分が相手の言葉で傷つくのを心のどこかで非常に恐れていたからかもしれない。
彼の言葉に振り返ってしまったから、彼の質問に答えるしかないのだ。私は彼からいち早く逃れるためにため息一つつくと顔をあげた。
「竹田結子です。」
「結子か、じゃあお結と呼ぼう。」
そう言って彼は私に一つ笑顔を見せると
「またな」
そう言って背を向けた。
「あの……?」
またな、の意味が分からず私は彼に声をかけてしまった。
「多分きっと俺らはまた会うよ。」
「何故です?」
「神様ってのは必要な出会いは無条件に、何度でも与えてくれるからな。」
彼は私に背を向け歩きながら私に手を振った。そんな確証のないことを当たり前のことのように言う彼の背中に私は、会えるものなら会ってみやがれ、そんな風に心の中で叫んだ。
私は五歳の時からハンセン病を患っていた。
五歳になった夏、お風呂に入っていると顔に少し赤みがかった細い線が入っていることに気づいた。その線はお風呂から上がると白くなっていた。不思議に思ったが何もせず過ごしていると段々指先の感覚が鈍くなって熱さも感じられなくなっていった。ハンセン病、その言葉を兄が放った瞬間私は幼心に普通の人生を歩めないことを悟ったのだった。
家の中では私がいる部屋に仕切りが設けられていて、多くの可愛い兄弟たちを撫でることすらも両親から許されていなかった。
一人で部屋を使えることや子守をしなくていいのは私の特権でもあったが。穀潰し、そんな言葉が似合う女だった。
「うつるから触るな。」
私は何度その言葉を投げかけられただろうか。
その言葉に傷ついていた日々はもうとっくに過ぎ去り、16歳になった今ではその言葉は挨拶のように感じられた。
だから彼に出会った時も、差別を受けるという私にとっては何気ない日常の一コマだったわけで、彼が私を庇ったことに私はとても違和感を覚えたのだった。
――この子の病気はそう簡単にはうつらない
今までの私の中の常識を覆すその一言。
果たしてうつらないというのは本当なのだろうか?
私は帰路を辿りながら考えていた。
もしそれが本当なのだとしたら、私が今まで虐げられてきた相手を思いやる気づかいはすべて無駄だったということになる。
家に着いて、隔離された自分の部屋に入っても一向に胸のざわつきが収まることはなかった。私は机の一番上の引き出しからかわいらしい、私には不似合いな手鏡を取り出した。鏡は残酷なほどに私を正直に映し出す。私の左目の下から口元まで細長く存在する白いあざは欠陥品の印のようで、私は鏡から目を背けた。鏡を持つ左手の甲にも楕円型の白あざがあった。私は何度この手の甲にかじりついただろうか。噛んでも叩いても刃物で傷つけても、この白あざは消えない。
こんなに醜い私を誰が愛してくれようか。
――またな
そう言った彼も私を好いているわけではないだろう。
何にも期待しなければ何にも裏切られることはない、そんな道理はもうとっくに知っていた。
私は独りで生きて独りで死んでゆく。それがハンセン病の人間の生き方だ、私は目をつぶり自分にそう言い聞かせた。
いつもより鼓動が早まっている原因を、今日という日の非日常さゆえの動揺として片づけた。それ以上に考えを進める勇気は私には無かったのだった。
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