第17話 宿
「え?」
シャイラはぱちりと目を瞬いた。
コーニがぱちっと自分の口を押さえる。そうしないと叫んでしまう、という顔だった。
「そして、精霊は人間を守護しない」
シャイラも自分の口を押さえた。
「そもそも、順番が違う。姫様……神話の女神は、自分の力によらず生まれた精霊を愛した。精霊たちのために、新しい楽園を創るほどに。人間たちが嫉妬してしまうくらいに」
淡々と、耳を澄まさなければ聞こえないほどの声で、フィスクは語る。
アロシアのような神々しさも、語りの上手さもない。けれどそこには芯があった。
確固たる、精霊としての矜持が。
「人間と精霊の確執を作り出してしまった姫様は、この地上を去った。その後も精霊は地上と精霊界を行き来していたが、魔物が生まれたことをきっかけにして、精霊界へ閉じこもった」
一言も聞き漏らすまいと、シャイラとコーニは身を乗り出した。
「魔物は、精霊と同じくこの世界から自然に生まれ出たものだ。人間を襲う理由はない」
「でも、それなら街の行き来に護衛が必要なのは何故? この間だって、村が魔物に襲われて、だから討伐が必要になった。あ、いや、でも……」
コーニがずっと手にしていた小瓶を置いて、ぶつぶつ言いながら考え込む。フィスクは簡潔にその答えを示した。
「護衛が必要なのは、移動中に魔物の縄張りを通ることがあるからだ。だから魔物の被害が出る。狼なんかの野生動物とそう変わりない。縄張りを荒らしたり、ちょっかいをかけなければ問題ない」
それならば、あの討伐依頼の時は。
「依頼の時は、状況が特殊だった。言っただろう、原因は俺が倒したラミアだ。あれが来たせいで、縄張りから追われた魔物が村に出た」
はっと顔を上げたコーニは、拳を自分の口に押し付けながらも興奮の色を隠せないようだった。
「あの時、魔物に襲われたのは村外れで飼われていた家畜だけだった! 人に被害は出てないんだ。レオさんがそう言ってた!」
頷くフィスク。
「そしてあのラミアも、もっと上位の魔物に住処を追われたんだ。奴は半獣だった。純粋な魔人には敵わない」
「半獣? 魔人?」
そういえば、あの魔物はシャイラの知らない言葉をいくつも口にしていた。魔人、魔獣、それにフィスクを狙っているという、魔王。
「もしかして、魔物には種類があるの? レオさんは、ラミアは半分人間のような姿をしていたって……。魔人……、まさか、人と同じ姿をした魔物が、いる?」
ほう、とフィスクが息を吐き出す。
「よく分かったな。そうだ、魔人は姫様と同じ姿を持つ。力も魔獣と比べて強い。奴らは人の入り込めない場所に住処を作り、精霊界の奪取を目論んでいる」
そんなこと、教会の語る神話にはまったく出てこなかった。魔物は人を襲うのだと、ずっと教えられてきたのだ。
「魔物と敵対しているのは精霊だ。だから精霊界に閉じこもり、地上との交流を絶った。自分たちの世界を守るために」
それが、精霊に伝わる本当の歴史。
コーニが窓の外に視線を投げた。その目はずっと多くを見ている。
「シャイラに言ったことがあるんだ。どうして空を飛べる魔物は、あの壁を越えてこないんだろうって」
ああ、あの日だ。討伐隊が出発する前、見送りに向かっていた時。ただの雑談として、そんな話をした。
そしてシャイラも、思い出したことがある。
「私もね、気づいたの。城壁で守られてない小さな村は、今までどうして無事だったんだろうって」
街の外に締め出された時、ふっと脳裏をよぎった疑問だった。
そして、その二つの疑問は解決するのだ。魔物が人間を襲わないなら。興味を持たないのなら。
そうだ。噂に聞く魔物の被害は、すべて人里離れた場所での話。旅人たちがその道中に出会った、恐ろしく危険な旅の障害。魔物とは、そういうものだった。
だけど、それを疑ったことなどなかった。読み書きを習う学校でも、仕事で訪れる教会でも、ずっと誤った神話を教えられてきたから。
「私たち、ずっと嘘を信じてたのね……」
いつの頃からかは知らない。けれど、長い年月の中で真実は失われてしまった。人の歴史から、消されてしまった。
「今の連中が意識しているかどうかは知らないが、どこかで話が捻じ曲げられたのは事実だろう。その方が都合がいいからな」
精霊を信仰する教会にしてみれば、その通りだ。魔物は人を襲うもの。精霊は襲われる人間を守るもの。与えられる加護も、魔法も、精霊のお陰だと言えば教会の価値も上がるのだから。
「……あっ、それじゃあ! 魔法ってさ」
しばしの沈黙の後、コーニがまた何かを思いついたように声を上げる。しかし、それは衝立の向こうから顔を出したウィンスに遮られた。
「話し中に悪いな。コーニ、お前仕事を放り出してきたのか? 迎えが来てるぞ」
「えっ、ああっ」
がたりと音を立てて立ち上がるコーニ。そして、泣きそうな顔で持っていた小瓶をフィスクに押し付けた。
「そうだった! 僕、これを届けに来ただけなんだよ!」
「これ……?」
「渡し忘れてた薬、今日と明日はしっかりこれを飲んでね! じゃあ僕、診療所に戻るから!」
薄緑色のそれをフィスクが眺めている間に、コーニは衝立に足を引っかけながらも駆け出していった。
その背中に急いで叫ぶ。
「コーニ! 仕事中だったのにごめんね!」
パン屋に連れ込んだのはシャイラだ。知らなかったとはいえ。
バタバタと去っていくコーニを見送って、フィスクがぽつりと呟く。
「あいつ、あんな積極的な性格だったか」
「コーニは精霊の話になると、なりふり構わなくなるから……」
「普段が臆病すぎるんだ、コーニは」
呆れた顔をしているウィンスに、シャイラはぺこりと頭を下げた。
「ウィンスさん、場所をありがとう」
「ああ、構わねえよ。客足も落ち着いたしな」
ウィンスの言う通り、朝食の時間もとうに過ぎて店内には人が少なくなっていた。
コーニが行ってしまって話も中断したし、パンを買うとウィンスに約束もした。少し早いが、ここで昼食にしてもいいかもしれない。
「お昼のパンを買おうと思うんだけど、フィスクも何か、食べたいものある?」
一緒に買ってくるよ、と申し出れば、フィスクはフードを深く被り直した。いらないのかと思いきや、席を立ってパンの売り場へ向かう。
「え、フィスク?」
「俺が買う」
「ええっ?」
急いで追いかけると、フィスクは並んだパンには目もくれず、クッキーの紙袋を掴んでいた。どれだけ好きなんだろう、と笑いをこらえていると、そのクッキーを押し付けられる。
「借りた金を、まだ返していない」
そういえば、そんなことを言っていた。正直忘れていたのだが、フィスクはずっと気にしていたらしい。
「……別に、いいのに。フィスクは私の、命の恩人だから」
「駄目だ」
きっと断られるだろうと分かっていたけれど、即答されるとは思わなかった。少しだけ唇を尖らせて不満を示したが、フィスクはパンを吟味していてこちらを見もしない。
「……それじゃ、ごちそうになるね」
貸し借りを良しとしないのは、人との関わりを
渡されたクッキーを見て、笑みが零れる。どれだけ素っ気ない態度を取られても、こういう所が憎めないのだ。
「よし、じゃあ俺からも、お前らに」
ウィンスが一度、カウンターの後ろに引っ込んだ。そしてすぐに、小さな籠を手にして出てくる。
「マカロン?」
「好きなだけ食え」
籠の中には、茶色いマカロンがたくさん入っていた。
「どうして? これ、売り物じゃないんですか?」
「ちょっと失敗してな。店には出せないんだ」
恥ずかしそうに頭を掻くウィンスだが、どこが失敗しているのか分からない。断りを入れて一つ食べてみたが、普段と違いがあるとは思えなかった。いつも通り、とても美味しい。
パンを選んでいたフィスクも寄ってきて、籠の中のマカロンを一瞥する。
「……マカロナージュが足りない」
「は?」
「まかろ……、なんて?」
呆気にとられるウィンスと、聞き返すシャイラ。フィスクは律義に答えてくれた。
「マカロナージュ。メレンゲの泡を潰す工程だ。これが足りないと、マカロンの表面に艶が出ないしひび割れができる。こいつみたいに」
そう言って持ち上げられたマカロンには、確かにほんの小さなひびが入っていた。しかし。
「こんなの気づかないよ!?」
と、いうよりも。
「お前、マカロン作れるのか!」
喜色満面のウィンスが、フィスクの背中をぶっ叩く。よろめいて咳き込んだフィスクのことは気にも留めず、鍛え上げられた肉体を誇るパン屋の店主は声を上げて笑っていた。
「まさかシャイラを救った英雄と、マカロンについて語れるとは!」
「俺は英雄じゃない」
「こんな細っこい美人だとも思ってなかったけどな!」
「あのクッキーを作ったのがこんなおっさんだとは俺も思ってなかった」
フィスクの本音が垣間見えた気がした。噴き出したシャイラをじっとりと見つめてくるので、咳払いで誤魔化しておく。
しかし当のウィンスは、ますます熱の入った口調でマカロンを掴み上げていた。
「そう、お前さんの言うとおりだ! この艶じゃ店には出せない! 不十分だ!」
「でも、美味しいですよ?」
「いいや! マカロン・リスは独特の食感もいいが、何よりこの見た目が大切なんだ! 丸くてつやつやとした、小さく可愛らしいこの見た目が!」
「こわい」
むさくるしい大男が、マカロン片手に迫ってくるのはなかなかの恐怖だった。
後退って距離を取ると、ウィンスの矛先はフィスクに戻った。思わず、といった様子でフィスクも後退る。
「どう思う? このココア味だけ失敗してしまってな。マカロンは作っていても楽しいが、やはり難しい!」
「お、俺に聞くな」
完全に圧されてしまっている。今日はコーニといいウィンスといい、フィスクにとって厄日かもしれない。
「あー、あー、ウィンスさん! 私たち、これからフィスクの宿を探さないといけないから!」
さっさとパンを買って退散しよう。そう思ってシャイラが二人の間に割り込むと、ウィンスがようやくマカロンから意識を戻してくれた。
「宿?」
「はい。フィスク、あの件で有名になっちゃったから、騒がれない場所がいいのに見つからなくて……」
ああ、とウィンスは苦笑した。
「そりゃあ、災難だな。……そうだ」
何かを思いついたように、ウィンスがぽんと手を打つ。それだけでびくりと肩を揺らしたフィスクに、逞しいパン屋は提案した。
「うちに住むか?」
「…………は?」
たっぷりと沈黙を挟んだ返事に、ウィンスは快活な笑みを見せた。
「宿が無いんだろう。だったらうちに来い。部屋なら空いてるし、裏口から出入りできるから店からも見えん。何よりマカロンの話がしたい」
絶対に最後のが本命だ。それでいいのかと思ったが、フィスクは何故か真剣な面持ちで考え込んでいる。
最後のダメ押しとばかりに、ウィンスは声を潜めた。
「さらに、だ」
「……なんだ」
「いつでもうちのパンとクッキーが食える」
「世話になる」
即決だった。
嘘でしょ、とか、クッキー好きだね、とか、そういう諸々の言葉を飲み込んで、シャイラは震える声でこう言うしかなかった。
「相場は一泊、大銀貨十枚くらいだよ……」
笑いをこらえすぎて息が苦しい。
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