第16話 神話
フィスクの要望に沿う宿は、見つからなかった。
親しくしている宿を訪ね回ってみたが、やはりどこも観光客でいっぱいだった。いつもは開門の前から話をつけておくのだが、今回はあの騒ぎもあって部屋を確保していなかったのだ。
フィスクのためだからと、個室を用意すると言ってくれた所もあったが、他の客が話を聞きつけて集まってきてしまった。既にフィスクの話は新しくやって来た観光客にも広まっていて、『静かで詮索されない』という環境には程遠い。
案内役の友人たちにも、部屋が用意できる宿屋がないか尋ねてみた。そちらも成果はなし。予想はしていたが、これではフィスクの頼みを達成できない。
しかし、見つからないものは見つからない。診療所の前で待っていたシャイラの顔を見て、退院したフィスクも察したようだった。
二人してどよんと暗い空気を纏って、しばらく黙り込む。通りすがりの人が不審そうな顔でこちらを見ながら歩き去っていった。
「……とりあえず、教会に残ってる荷物、取りに行く?」
こくりと頷いたフィスクと並んで、すぐ傍の教会に向かって歩き出す。フィスクはいつものように、使い込んだマントのフードで顔を隠していた。
信仰の街であるシーレシアでは、教会は観光名所の一つだ。街を行く人々は吸い込まれるように教会へと入っていく。
彼らの後に続くように、フィスクと二人で礼拝堂へ足を踏み入れた。
天井の巨大な穴。その真下に、アロシアが立っている。降り注ぐ日差しを浴びてたたずむ巫女を、訪れた人々が感嘆のため息とともに見つめていた。
どうやら、創世の神話を語るようだ。誰もが子供の頃から聞かされて育つ、この世界の成り立ち。
「すぐに戻る」
フィスクはシャイラにそう言い置き、アロシアを取り囲む人々の後ろを抜けて、教会の奥へと消えて行った。
それとほとんど同時に、アロシアがゆっくりと閉じていた瞼を持ち上げて、よく通る声で語り始める。シャイラは跪いたり
「はじめ、世界には何もありませんでした。それは、〈大いなる無〉でした。
〈大いなる無〉は何もない世界を悲しみ、大地と空、水と溶岩を創りました。
溶岩は冷えて新たな大地となり、空から降る雨で緑が生まれ、世界は鮮やかな色で満ちました。
〈大いなる無〉は美しい世界を喜び、自分のために世界を感じる頭と体、世界を愛でる手と、世界を巡る足を創りました。
けれどすぐに世界に一人きりであることを寂しく思い、大地を歩く動物、空を舞う鳥、水を泳ぐ魚を創りました。けれど溶岩の中に動物は暮らせなかったので、火を使うことの出来るものとして、最後に自分の姿に似せた人間を創りました。
世界は鮮やかに、そして賑やかになりました。
〈大いなる無〉は人々に女神様と崇められ、創り出した世界で暮らしていました。
やがて、世界に新しい命が生まれました。
それらは女神の力で創られたのではなく、世界から自然と生まれ出た命でした。人間たちはそれらを精霊と呼びました。
精霊たちの誕生を女神は喜び、彼らに血を与えて、女神と同じ姿を持つ精霊を生み出しました。
世界の子、女神に愛された精霊たちは、女神と同じようにほかの命を慈しみ、守りました。
けれど、創られた命の中で一番賢かった人間は、徐々に女神や精霊の力に頼ることを覚え、いつしか怠け、些細なことで争うようになりました。
それに怒った女神は、精霊を連れて天高くへと昇り、姿を消してしまいました。
女神の怒りに世界は嘆き、人間を襲う魔物が生まれました。
魔物は人間を襲い、人間には為す術がありませんでした。しかしそれを憐れんだ精霊が、彼らの住む世界から力を貸してくれるようになりました。
こうして、女神の創った世界で、人間は今も精霊に守られて暮らしているのです」
きっと初めて聞く者はいないだろう。けれど観衆は恍惚とした表情でアロシアの声に聞き入っていた。
シャイラもじっと耳を傾けていたが、後ろから肩を叩かれて振り向いた。何故か、やけに不機嫌そうなフィスクが、荷物を持って立っていた。
「……行くぞ」
「え、もういいの? 挨拶とか……」
「声はかけた」
多分その相手は、司祭や立場のある人間ではないのだろう。そうでなければ、もっと引き留められているはずだ。
だが、フィスクが本当に嫌そうな顔をしていたので、シャイラはちらりとアロシアを気にしつつも頷いた。
人の波に紛れるようにして、教会を後にする。フードをさらに深く被ったフィスクの表情は読めなくなったが、どことなく足運びが荒い気がした。
少しだけ考えて、慎重に口を開く。
「あの神話、嫌いなの?」
一呼吸分の沈黙の後、フィスクは首を縦に振った。
「事実と違う」
「え……、え?」
シャイラの足が止まった。思わず凝視したフードの向こう、フィスクがどんな顔をしているのかが分からない。けれど、唸るような声は嫌悪感に満ちていた。
「人間に都合のいいように変えられている部分がある。特に、精霊や魔物のことは」
教会で、家で、学校で。子供の頃から、幾度となく聞いてきた神話だ。この世界は女神様が創り上げ、愚かな人の罪によって魔物が生まれ、精霊はそんな人間を助けてくれるのだと。
だが、本物の精霊であり、人間よりもずっと長く生きているのであろうフィスクは、それが間違っているのだという。
ごくりと唾を飲み込んだ。何が違うのか、ここで聞いてもよいものか。口を開けて、閉めた、その時。
「そ、それって、どういうこと!?」
上擦った声が割り込んできた。二人して勢いよく振り返ると、両手に小瓶を握り締めたコーニが立っている。
きらきらと目を輝かせ、コーニはらしくもなく大股でフィスクに詰め寄った。あのフィスクがのけ反る勢いだ。
「フィスクの家では、教会とは違う話が伝わってたりするの? ぐ、具体的にはどんな風に? どこが違うのか僕にも教えて欲しい!」
きらきらというより、ぎらぎらしていた。完全に気圧されているフィスクが、まるで助けを求めるようにこちらを見る。
シャイラは慌ててコーニの腕を掴んだ。
「ちょっと、コーニ! こっちに来て!」
「えっ、シャイラ!?」
辺りを見渡すと、ちょうど近くにウィンスのパン屋があった。店内に入ると、パンを並べていた屈強な大男が鷹揚に手を上げる。
「よう。三人揃って朝飯か?」
「おはよう、ウィンスさん! 少しの間、席を借りてもいいですか?」
ここのパン屋では、店内で焼き立てのパンを食べられるように、いくつかテーブルが置かれている。人気の店だけあって客は多かったが、幸運にも空いている席があった。
「構わねえよ。後でパン買ってくれるならな」
ニッと笑ったウィンスに礼を言って、シャイラは一番奥のテーブルにコーニを引っ張った。まずコーニを座らせ、戸惑いながらも席に着いたフィスクのために、端に寄せられていた
自分たちの席を隔離し終えてから、シャイラは大きくため息をついた。
「コーニ。好奇心が強いのは分かるけど、あんな大声で騒ぎ立てたら駄目よ」
未だに小瓶を握ったままのコーニは、きょとんとしてシャイラを見つめている。頭はいいのに、自分の好きなこととなると周りが見えなくなるのがコーニだ。「シャイラより猪の方がマシ」だなんて、よく言えたものだと思う。
「いくら二人が、精霊……〈精霊の子〉だからって、教会が嘘をついてるかもなんて話、大声でしてたらまずいに決まってるでしょう」
できる限り声を小さく小さくひそめて囁くと、コーニはあっと息を呑んだ。
教会の力がどれだけ強いかなど、子供でも知っている。公には権力を持たない組織であるが、そんなものは建前に過ぎない。帝国、否、世界中のほとんどが精霊を信仰しているのだ。王族から庶民まで、教会の意向が反映されない場所などない。
それが当たり前だと思っていた。けれど、シャイラはもう、その恐ろしさを身をもって知っている。
「誰が聞いてるか分からない……。ちゃんと、気を付けて」
「うん……、うん。そうだよね。ごめん、すごく軽率だった」
しゅんと萎んでしまったコーニに、ううん、と首を振った。少し、過敏になりすぎたかもしれない。
空いた椅子にシャイラも座り、フィスクをじっと見た。フードを下ろさないまま身じろぎもせずに座っていたフィスクは、その視線を受けて嫌そうに顔を背ける。
「でも、私も知りたいな。……神話が違うって、どういうこと?」
「今度は静かにするから、聞かせて!」
言い出したのはフィスクなのだから、ちゃんと話してほしい。シャイラ、というよりもコーニの好奇心を刺激して、そこで終わりなんて酷だ。
陰になっていても、フィスクの顔が僅かに引き攣ったのが分かった。けれど、顔を輝かせているコーニを相手に、だんまりを決め込むこともできなかったのだろう。
ため息をついて、フィスクは重苦しく口を開いた。
「魔物は、人間を襲わない」
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