第13話 翼

 シャイラが目覚めた時、真っ先に尋ねたのはフィスクのことだった。


 丸一日寝ていたシャイラだったが、レオディエとフィスクのお陰で怪我もなく、目覚めてすぐに診療所を出ることができた。レオディエは既に職務に戻っていると聞いた。土の魔法で外傷の回復が早くなるとはいえ、医者も驚く回復速度である。


 しかし、左肩に重傷を負い毒まで受けたフィスクは、三日経った今も意識を失ったままだった。


 あの魔物の毒は蛇毒と同じで、薬草から作った解毒薬が効かないのだと医者が言っていた。回復の魔法は毒や病気には効かない。毒が抜けるのを待つしかないのだという。


 特別に面会を許されたシャイラは、一人でフィスクの病室へと足を踏み入れた。


 初めて彼と話したのと同じ部屋。あの時と同じように、白いカーテンが風に揺れている。


 枕元に椅子を置いて、フィスクの顔を覗き込む。仄かに頬が赤らんでいる。小さく開いた唇から、苦しそうな呼吸が零れていた。


 汗の滲む額に張り付いた前髪を、そっと指先で払う。触れた肌は驚くほど熱かった。


 ぐっと指先を握りしめて、俯く。シャイラのせいではないと誰もが言うが、それを信じることができるほど能天気ではいられなかった。


 傍に用意されていた水桶を見つけて、濡れた手拭いを手に取る。フィスクの眠りを妨げないように、息さえ殺して慎重に、その頬に触れた。


 その瞬間、ぱしりと手首を掴まれた。



「フィ、スク……!」



 光を透かす雲色の瞳が、ぼんやりとシャイラを見上げている。その目に映る自分の姿を覗き込んで、シャイラはごくりと唾を飲み込んだ。



「お、まえ、は」



 フィスクの表情が一瞬で変わった。布団を跳ね上げて飛び起きたフィスクに、シャイラは絶句した。


 治療のためだろう。フィスクは上半身に何も着ていなかった。怪我をした左肩から胸にかけて、白い包帯が巻かれてはいる。けれどそれだけだ。


 儚い印象を与える白い肌とは裏腹に、フィスクの四肢はしっかりと鍛え上げられた筋肉に覆われていた。見てくれだけを誇示するのではない、限界まで引き絞った体つき。


 一瞬だけ見惚れかけ、慌てて目を逸らしたシャイラだったが、掴まれた手を引かれたことではっとした。



「誰かに俺のことを話したか!?」



 声は掠れて、シャイラの腕を掴む力も弱々しい。触れた肌は熱く、まだ回復などしていないことなど一目瞭然だ。


 けれど、フィスクが何を気にしているのかが分かって、シャイラは彼の体を押し返そうとした手を引いた。


 あの、蛇の体を持つ魔物。ラミアとの戦いの中で、シャイラは聞いた。聞いてしまった。


 フィスクが、およそ百年前にこの地に落ちて来た、精霊なのだと。


 ゆっくりと、シャイラは首を横に振った。



「誰にも、何も、言ってないよ」



 正確には、言えなかった、の方が正しい。シャイラ自身、フィスクが人間ではなく精霊だということを、まだ飲み込めていなかった。


 かつては人と共に暮らしていたという精霊たち。神話にしか残っていない程の遠い昔に、精霊界へと去ってしまったという。


 身近なようでいて、遠い存在だ。加護を感じることはあっても、その姿を見たことはない。


 その精霊が、今目の前にいると言われても。



「……そうか」



 そんなシャイラの当惑など知らないフィスクは、気が抜けたようにそう呟き、手を離した。そして、ぐっと身を乗り出す。



「動いちゃダメよ! 怪我も熱も治ってないのに!」



 シャイラの言葉を振り払うように、フィスクは頭を振った。そのままベッドを下りようとする。



「フィスクってば!」



 意識もはっきりしていないだろうに、何が彼をそこまで突き動かすのだろうか。案の定ふらついた彼の体は、こちらに向かって倒れてきた。



「え、わ」



 慌てて抱き留めた体は、やはり尋常でない熱を帯びている。もはや服を着ていないことなど些細な問題だった。重い体をなんとか支えようと、背中に両手を回す。


 その時、指先が何かに触れた。フィスクの背中を覆う、長い髪の下。包帯、ではない。滑らかな皮膚に、でこぼことしたものがある。



「き、ずあと……?」



 呟いた途端に、フィスクがシャイラを突き飛ばした。熱と毒に侵され、左腕も動かせない彼の力は、ほとんど子供のそれと変わりない。けれどシャイラは、弾かれたようにその体を離した。


 よろけてベッドに手をついたフィスクは、小さく呻いて顔を歪めた。その目が傷ついたように揺れている。


 教会の裏庭で槍を見た時。城壁の外で魔物に正体を指摘された時。雷光のような怒りで隠そうとしていた、心の奥底が剥き出しになっていた。


 助けを求められずに泣くしかない、道に迷った子供のような心が。



「確か、百年前、シーレシアに落ちて来た精霊には……」



 翼が無かった。


 自在に空を飛べるはずの〈風の民〉が為す術もなく落ちて来たのは、空を飛ぶための翼が無かったからだ。


 ほとんど意識もせずに口から出た言葉は、更にフィスクの顔を曇らせてしまった。



「ご、ごめんなさい……」



 きっと触れられたくないことなのだ。教会であの伝承を聞いた時も怒っていた。彼にとっては思い出したくない記憶。


 それをあんな風に、うきうきと。楽しそうに、嬉しそうに語られては、怒るのも当然だ。「関わるな」と言われても仕方がない。


 フィスクの顔を見ることができず、シャイラは俯いた。そんな相手を、彼は身を挺して助けてくれたのだ。人間であるシャイラを。とても失礼な真似をした相手を。


 はあっと息を吐き出して、フィスクはシャイラに背を向けた。



「……お前の、想像通り」



 小さな囁きが、シャイラの耳をくすぐった。



「ここに、翼があった」



 持ち上げられたフィスクの指先が、うなじを横切るようにして長い髪を持ち上げる。さらさらと流れる空色の間から、はっきりと傷跡が見えた。


 包帯で一部隠されているが、その傷ははっきりと白い肌の上を走っていた。肩から肩甲骨を通り、腰の上部まで至る長い傷が、縦に二本。


 変色し、引き攣った皮膚は、もう元には戻らないだろう。完璧な美しさを持つフィスクには、あまりにも不釣り合いなものだ。



「翼は、どうしたの……?」


「……もぎ取られた」



 喉の奥で小さな悲鳴が絡まった。その一言だけで痛みを想像してしまって、ぞわぞわと肌が粟立つ。


 フィスクはまた息をつき、ゆっくりと体をベッドに横たえた。



「俺は、奪われた翼を取り返したい」


「取り返せる、の? どうやって……」


「あいつを……、魔王を、この手で倒せば」



 困惑するシャイラを見上げて、フィスクは「だから」と力を込めた。



「誰にも、俺のことを言うな。あいつはこの街を見張っている……。不利な状況で、出くわしたくはない。俺がここにいると知ったら、奴は必ず」



 俺を殺しに来る。


 その言葉には確信が込められていた。


 胸の奥がぐうっと熱くなって、鼻の奥がつんとした。それを抑え込むように強く両手を握り合わせ、何度も頷く。



「分かった。言わない。絶対に、言わない」



 どうしてシャイラに、ここまで打ち明けてくれるのかは分からない。しかし、少しでも信用してくれているのだとしたら、それに応えたいと思った。


 そうでなければ、自分自身を許せない。


 シャイラの返事を聞いて、フィスクはふいと顔を逸らした。やはりまだ回復していないのだろう、そのまますとん、と意識を落とす。


 熱に浮かされた赤い顔で眠る精霊に、シャイラは跳ね飛ばされた布団をかけ直した。そうして、彼の話を思い返す。


 知らないことや、想像できないことが多すぎる。一度、教会で話を聞いてみようか。精霊のこともそうだが、魔物のことだってシャイラは詳しくない。


 そう、知らないといえば。



「……魔王って、なんだろう」



 シャイラの呟きは、誰にも拾われることなく消えていった。

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