第12話 教会
階段を下りるたびに、肌を撫でる空気が冷たくなっていく。シーレシアの警備隊駐屯地本部の地下牢で、レオディエは剥き出しの顔を緩くさすった。春も半ばとはいえ、日の光が届かない地下は冷たい空気に満ちていた。
壁に設置されたランプの明かりが、足元に頼りない影を作る。薄暗いこの場所に、昨日シャイラを街の外へ締め出した犯人が捕らえられている。
レオディエが診療所で目覚めたのは、調査隊が街へ帰還した数時間後、日の暮れかけた頃だった。魔物に吹き飛ばされた衝撃で気を失っていただけで、外傷もほとんどなかったため、目覚めてすぐに仕事へ復帰した。コーニには、酷く心配されてしまったが。
レオディエの怪我など、大したことはないのだ。夜通し治療を受けたフィスクや、心労からか半日以上も眠り続けているシャイラに比べれば。
石の床を踏みしめる音が、重苦しく響いた。力の入りすぎた踵が少しだけ痛い。
「……ちっ」
先導する部下が、恐る恐るといった様子で振り返った。
「隊長……」
「ああ、悪い。気にすんな」
手を振ったが、新人の彼は更に縮こまってしまった。そんなに怖い顔をしているつもりはないのだが、どうにも感情が上手く制御できていないようだ。
意識して深く息を吸い込み、片手で頭を掻きむしった。
怒りに支配されたまま、犯人たちと顔を合わせるわけにはいかない。感情的に怒鳴り合うことだけは避けなければ。
「……よし、大丈夫だ」
まだ部下はちらちらとレオディエを見ていたが、先を促すとベルトの鍵束を手に取った。木の扉を開けて、更に奥へと進む。
狭い通路から一転、扉の向こうには広い空間が広がっていた。鉄格子と厚い壁で区切られた牢屋が並んでいる。一番手前の牢に、目的の二人組は繋がれていた。
警備隊に所属し、案内役を務めていた二人。シャイラの同僚だった彼らは、レオディエの姿を見ると手枷を鳴らしながら睨みつけてきた。
シャイラは突き飛ばされたと言っていた。意図的に彼女を街から締め出したことは明白だ。その時門の傍にいたのは、シャイラとこの二人だけだったというコーニの証言もある。
二人がどういうつもりだったのかは知らないが、締め出されたシャイラが魔物に襲われ、それを助けたフィスクが重傷を負ったのは事実だ。レオディエは固く拳を握り、鉄格子に一歩詰め寄った。
「シャイラを門の外へ突き飛ばしたのは、どっちだ?」
どちらも何も答えなかった。ただひたすらに睨みつけてくるその瞳の奥に、ちらちらと恐怖が見え隠れしている。
「お前たちが、彼女を殺そうとした。違うか」
この二人が何を恐れているのか。それは罪を警備隊に裁かれることでも、罰を受けることでもない。
レオディエは短く息を吐き出し、二人の心を揺さぶる言葉を突き付けた。
「そのお陰で、フィスクが今、生死の境をさまよっている」
ガシャン! と鎖が耳障りな音を立てた。案内役の二人は、血走った目で喚き始める。
「あいつが、あの女がっ、アロシア様を侮辱したんだ! だから懲らしめるだけのはずだったのに!」
「フィスク様にあんなに馴れ馴れしく! あれほど美しい存在に、ただの人間が近づくことが許されるわけがないのに!」
レオディエは無言で眉間を揉んだ。報告は聞いていたが、実際に目にすると精神的に疲れるものがある。煮え滾っていた怒りがやや静まった気がした。
彼らが教会に通い詰めていたのは有名な話だ。アロシアに熱を上げていることも、教会の教義に傾倒しているのも。
「これだから教会の信者は嫌いなんだ……」
レオディエからしてみれば訳の分からない理屈と根拠で、犯罪を正当化しようとする。そんな犯罪者をたくさん見てきた。
精霊は信じている。毎日その加護に感謝している。けれど、教会のことは良く思ってはいない。信用してはならないとさえ感じている。それを表に出すことはないが、警備隊内で同じように思う人間が多いことも、また事実だった。
隣で嫌そうに顔をしかめている新人隊員に目配せする。彼は頷き、鉄格子の鍵を開けた。
「……へ?」
唾を飛ばしながら喚き散らしていた犯人たちが、呆けた顔で開いた扉を見つめた。僅かな期待の浮かんだ顔に、レオディエは低い声で凄んだ。
「釈放じゃねえぞ。通常、警備隊が捕らえた犯罪者は、北の国境で兵役に就くことが多いがな。今回は違う」
きつい労働だけなど、罰としては生ぬるい。その主張を跳ね除けることができなかった。帝都にある風の中央教会から、要請が来てしまえば。
「お前らはめでたく、教会に引き渡しだ。頭のいかれたジジイどもの私刑が待ってるぜ……。このまま捕まってた方が、いくらか幸せだろうよ」
本当に、辺境での小競り合いに駆り出される方が、どれだけましだろうか。
教会は、〈風の民〉の血を引くフィスクが重傷を負ったことを重く見た。
この時代には貴重な存在である〈精霊の子〉。教会にとっては信仰の対象そのものと言っても過言ではない。
犯人には国境での兵役ではなく、教会で罰を与える。それが中央の決定だった。
フィスクが仲間の傭兵に置き去りにされた時は、フィスク本人が通常の裁きでいいと言ったこと、そして直々に叩きのめしたことで、教会が口を挟んでくることはなかった。けれど今回は、それも望めない。本来の被害者であるシャイラの意向など、教会は端から聞く気がないだろう。
本来は関係のない教会が首を突っ込んで来ることを、警備隊は苦々しく思っている。けれど教会の力はそれほどまでに強いのだ。この二人を引き渡さないという選択肢は、ない。
「生きていられりゃいいがな……」
教会に引き渡された犯人が生きて戻ってくることなど、今までなかったけれど。
呆然とする二人を地下牢から出す。鎖に繋がれたままの二人を連れて狭い通路を戻ると、地下牢の出入り口で祭官を従えたアロシアが待っていた。
「……巫女殿、直々のお出迎えですか」
「ご苦労様です、レオディエさん」
頭を下げたアロシアは、豊かな黒髪を耳にかけて犯人たちを
仮面のように硬直した顔で、アロシアはたった一言、とどめとなる言葉を口にした。
「この愚か者が」
それだけを言い捨てて、巫女はさっさと背を向けた。彼女に心酔していた二人にとっては、きっと心を打ち砕く一言だっただろう。
膝から崩れ落ちた犯人たちは、唇を震わせてアロシアの背中を見上げた。
「そん、な、お待ちを、お待ちください、アロシア様!」
「俺たちはっ、ただ、フィスク様の隣には、アロシア様が相応しいと、そう思ってっ」
「あんな女よりもアロシア様が……!」
縋り付こうとする二人を、新人隊員が慌てて制する。そんなやり取りなどなかったかのように、アロシアはレオディエに向かって僅かに笑みを見せた。
「お手数をおかけしました。この重罪人どもは、教会が責任を持ってお預かりいたします」
「……アロシア殿、こいつらはどうなるんです?」
分かりきったことを聞いてみた。どうせアロシアは答えないし、彼らの未来も変わりはしないだろう。
案の定、アロシアは微笑んだまま、しとやかに首を傾げただけだった。
「それを決めるのはわたくしではなく、中央の方々です。ですが、まあ……。尊き〈民〉の血が流れたことは、どうあろうと決して許されません。そして万が一、フィスク様にもしものことがあれば……」
そこで目元に影を落としたアロシアは、耐え難い痛みを鎮めるかのように深く息を吸い込み、口を閉ざした。
予想通りの反応に、レオディエは危うく笑いだしそうになった。結局は、そういうことだ。
「忘れんでくださいよ。こいつらが殺そうとしたのは、シャイラですぜ」
確かに教会の者にとって、フィスクは大事だろう。一目見て精霊の血を引くと分かる色を持ち、風の名に恥じぬ武勇を誇る。そしてあの美貌とくれば、人が狂ってしまうのも分かる気がする。あれを畏れるなという方が難しい。
だが、それでも。
「一番の被害者はシャイラだ。間接的にはフィスクもそうでしょうが……。そこんとこ、間違いのないようにお願いしますよ」
レオディエを見上げて、アロシアは何度か目を瞬いた。そして、「ええ、もちろん」と頷く。
「もちろん。シャイラさんにも、謝罪に行かなければいけませんね……。レオディエさんも、お怪我をされたとか。どうぞ、お大事になさってくださいね」
心から案じている風に眉根を寄せて、アロシアは一礼する。そして、犯人を受け取った祭官を連れて、駐屯地を後にした。
「……これだから、教会は嫌いだ」
護送用の馬車を見送りながら、レオディエは小さく舌打ちした。
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