第11話 最強

 美人が怒ると怖い。そんな月並みな評価は聞いたことがあるが、その程度の単純な言葉で今のフィスクを表現することはできなかった。


 長剣の柄を握りしめた拳が白い。風を孕んで膨らんだ髪が、シャイラの視界をひらひらと遮る。凄絶な輝きを帯びた瞳が、その合間から見えた。


 美しさを恐れたのは、初めてだった。まるで喉に氷塊を押し込められたかのようだ。声が出ない。足がすくむ。


 しかし、相手を射殺さんばかりの視線で睨まれたラミアは、それすら楽しむようににやにやと笑っていた。



「ちゃんと人間を守ってあげるんだねえ? 大っ嫌いな人間を!」



 もはやフィスクは答えなかった。踏みしめた足の下で土が鳴る。長剣を上段に構えて、フィスクは一直線に飛び込んだ。一拍置いて、土埃が舞う。


 あやまたずラミアの首筋を狙った一閃は、しかし読まれていたかのようにかわされた。首に残った赤い筋を残った手でひと撫でして、ラミアは牙を剥いた。



「殺してやるよォ!」



 着地直後の隙をつき、巨大な蛇が伸びる。片足で踏ん張り、剣を噛ませて、フィスクは牙から辛うじて逃れた。刃を握るフィスクの手から、血が滴り落ちる。



「フィスク!」



 耐えきれずに名前を呼ぶと、ラミアのぎょろついた目が月のように弧を描いた。



「心配されてるよぉ? 〈風の民〉ともあろうものが!」


「うるさい!」



 力任せにラミアを押しやり、フィスクは素早く剣を持つ右手を引いた。抉るように放たれた突きが、ラミアの右目を削り取る。


 今までとは違う、苦痛に満ちた叫びが上がった。ラミアがのたうつ度に、尾が激しく地面を叩いて揺らす。



「死ね!」



 今度こそ、フィスクの剣がラミアを捉えた、かに見えた。



「ふんっ」



 下半身だけを地面に沈めることで切っ先から逃れたラミアは、牙を剥き出してぐりんと首を回した。半分が赤く染まった顔が、座り込んだままのシャイラへ向けられる。



「お前! それを寄越しなァ!」


「案内役!」



 空色の背中がシャイラの前に立ち塞がった。肉を貫く音が、鈍く鼓膜を叩く。


 理解できなかった。ラミアがシャイラを狙う理由も、「それ」と呼ばれた何かも。そして、フィスクがシャイラを庇ったことも。


 シャイラを噛み砕かんとしたラミアの牙は、フィスクの左肩に深く食い込んでいた。黒ずんだ血が、だらりと垂れた腕を伝ってぼたぼたと地面に落ちる。



「……ぅ、……」



 綺麗な青い髪が、まだらに黒く染まっていく。ふらついて膝をついたフィスクに、さしものラミアも驚いていた。



「まさかっ……!?」


「……っぐ、らァッ!」



 呻きながらも、フィスクは握った剣を振り上げた。食い込んだ牙の根元を、柄頭で強かに殴りつける。驚いて動きの止まっていたラミアは、この不意打ちにのけ反った。



「くっ……、フィスクゥゥウ!」



 折れた牙を引き抜き投げ捨てて、フィスクは長剣を地面に突き立てる。ラミアの血に濡れた刃が鈍く光った。



「っお前が、人間を庇うなんてねえ! だけど、馬鹿だよフィスク! あたしの牙には毒があるんだっ、これでお前は死んだも同然さ!」



 左腕と右目を失くし、体のあちこちに傷を作ったラミアは、空を仰ぐようにしてけたたましく笑った。勝利を確信した声だ。


 毒という言葉に、シャイラは青褪めた。立ち上がる様子のないフィスクの肩からは、未だ止まらずに血が流れ続けている。



「……フィスク……、どうして、」



 何故シャイラを庇ったのか。好かれていないことは自覚していた。シャイラとは必要に応じて関わっていただけで、彼が人との交わりを好まないのは明白だった。それにラミアも言っていたではないか。彼は、人間を憎んでいると。それがただの戯れ言ではないことなど、今までのフィスクを見ていれば分かる。


 体を張ってまで守られるほどの絆など、シャイラとフィスクの間には無い。二人の間にあるのは、クッキーとサンドウィッチの貸しだけなのだ。


 それなのに。


 項垂れていたフィスクの体が、ふるりと震えた。



「フィスクっ」


「……はっ」



 微かに吐き出された息。それは、傷の痛みに喘いだわけでも、絶望的な状況にため息をついたわけでもなく。



「……あ……はっ、はははっ! ふっははっ、はははははっ!!」



 フィスクが、突如として笑い始めた。心の底から楽しむような、朗らかな笑い声が響き渡る。


 シャイラの肌がぶわりと粟立った。雰囲気が違う、殺気が違う。今までのフィスクは、ここにいない。


 体を揺らして笑い続けるフィスクに、ラミアが残った左目をぎょろぎょろさせて警戒を見せた。



「なっ、なんのつもりだい……」


「ふっ、ふふ……っ。分からないのか? 半分は風のくせに?」



 どこか恍惚とした表情のフィスク。上気しきった頬が、空色の髪によく映えた。形の良い唇が綺麗に綻ぶ。見たことの無い満面の笑みだ。


 こんな場面でなければ見蕩れていただろう。しかし今この瞬間においては、ラミアの混乱を助長させただけだった。



「何がっ」


「俺たち風は……、戦いこそが生きる意味だろう?」



 怪我も毒も忘れたように、フィスクは立ち上がった。肩から流れる血の量が増えて、血だまりが広がっていく。



「俺が最強と呼ばれた理由を……、教えてやろうか」



 それでもフィスクは、浮かべた笑みを絶やすことなく――、猛然と地を蹴った。


 砂埃だけを残して、フィスクの姿が掻き消える。銀色のきらめきが一瞬走ったかと思うと、ラミアが悲鳴を上げた。自分の尾で全身を覆うように丸くなり、完全な防御の体勢を取る。


 そこへ、嵐のような剣戟が叩きこまれた。鱗を撃つ鈍い音が木霊する。剣筋も、構えも、すべてがでたらめな攻勢だ。なのに、隙が無い。ラミアは連撃の嵐から抜け出せずにいる。


 シャイラはごくりと唾を飲み込んだ。容赦がなさすぎる。敵の魔物にはもちろん、フィスク自身にも。あの怪我で、毒を受けて、普通ならあんなに動けるはずがない。


 ふっと、フィスクが動きを止めた。僅かに首を傾げる様は、小さな子供のようだ。そのまま無造作に、右手の長剣を高く掲げる。


 ザンッ、肉を断ち切る音。


 一振りで、ラミアの尾が、下半身が切断された。



「ぎぃゃあああっ」



 それでもなお、土に潜って逃げようとするラミアに、短い詠唱。



「巻き上げろ、風の唄」



 突風が、地面ごと魔物の体を高く突き上げた。空中でラミアの羽がもがくようにバタつくが、小さすぎる歪な羽では飛ぶことが叶わない。為す術もなく落下してくるラミアに、フィスクは呟くように告げる。



「俺が……、最強と、選ばれたのは」



 腰を落とし、肘を引いて、剣先をラミアへと向ける。



「誰よりも、戦いを……、好んでいたからだ」



 どこか自嘲するような響きの告白は、ラミアの首を刺し貫く音に混じって、落ちた。


 重い振動と共に、魔物の体が横たわる。フィスクが億劫そうに剣を引き抜くと、やがてその体はさらさらと崩れて土となり、風にさらわれて消えていった。


 最後に残った歪な羽だけを拾い上げて、フィスクは振り返った。


 あまりに白すぎるその顔に、シャイラは息を呑む。戦いへの興奮は既に過ぎ去り、血の気の引いた肌は生気が感じられない。よろめきながらもシャイラは立ち上がり、彼の下へと駆け寄った。



「フィスク! 血が……! それに毒も! はやく、街に帰らなくちゃ……!」


「触るな」



 伸ばした手は力なく弾かれた。足を引きずり、動かない左腕を抱えるようにして、フィスクは馬の方へと歩いていく。



「そんなこと言ったって……、!」



 フィスクの膝がかくんと崩れた。長剣を落として手をつき、辛うじて倒れ込まずには済んだが、そこから立ち上がれない様子だった。



「だから! その怪我じゃ無理だってば!」



 傷に障らないよう、右から肩を貸そうとする。しかしそれも押し返された。



「放っておけ……」


「できるわけないでしょ!?」



 フィスクが怪我をしたのは、シャイラを庇ったからだ。そうでなけば、今頃真っ二つになっていたのはシャイラだった。それなのに、命の恩人を見捨てろと言うのか。


 思わず声を荒げたが、返ってきたのは呻き声ともつかぬ吐息だけだった。


 特徴的な雲色の瞳。その焦点が合わなくなってきている。もがくように動いた足が震えて、とうとうその場に崩れ落ちた。慌てて受け止めたが、シャイラの力では支えきれずに一緒になって倒れてしまう。



「フィスク!」



 どうしたらいいのか分からない。魔物のいる街の外で、頼れるレオディエは気を失ったまま、怪我を負ったフィスクを手当てする術もない。



「っどうして私を、庇ったりなんかしたの……!?」



 憎んでいるのだという相手を、庇ったりなどしなければ。そうすれば彼は無傷のまま、きっとあの魔物を倒していただろう。あのまま見捨てていれば良かったのだ。フィスクがシャイラを助ける理由など、何一つ無かったのだから。


 零れ落ちた疑問に、途切れ途切れの返事があった。



「俺は……、嫌だ……」



 まだ立ち上がろうと土を掻くフィスクの、熱に浮かされたような言葉。



「人間なんかの、世話になるのも……、目の前で、見捨てるのも……! 嫌いだからと、命を軽んじる、真似だけは……っ」



 血を吐くようなそれは、呪いの言葉にも似ている。



「欲深い、人間なんかと同じ……っ、下劣な輩に、成り下がってたまるか……!」



 ――それは、どんなに苦しい生き方だろう。


 命の危機に晒されてもなお、譲れないほどの矜持と憎しみ。極限の状態であっても助けを拒む、その強さ。


 気高くて、美しくて、そしてきっと孤独だ。嫌う相手を助けてまで、憎み続けることは。


 何も言えなくなったシャイラの腕の中で、フィスクはぐぅっと呻いた。失血が酷い上に、毒まで受けている。このままここにいては死んでしまう。


 途端に恐怖が喉の奥を塞いだ。早く、彼を診療所に連れて行かなければ。シャイラ一人ではどうにもならない。何をすればいい、フィスクを、そしてレオディエを助けるには。



「どうしたら……!」



 頭の中が真っ白になったシャイラの耳に、蹄の音が聞こえて来た。それも、多数の足音だ。はっとして顔を上げると、駆けてくる騎馬の集団が見えた。


 先行していた調査隊が、戻って来たのだった。






 警備隊員の一人が高らかに笛を吹き鳴らすと、街の門はあっさりと開く。重傷のフィスクと意識のないレオディエがまず運び込まれ、馬の上で抱えられていたシャイラもすぐに地面に下ろされた。



「シャイラ!」



 顔をぐしゃぐしゃにしたコーニが駆け寄って来る。



「シャイラが追いかけて来ないから、門に戻ったらどこにもいないし、門番は何も知らないって言うし……! シャイラのこと嫌ってる奴だったから、嫌な予感はしてたんだっ」


「コーニ……」


「でも問い詰めてもニヤニヤするだけで、なんにも言わなくて! 僕、僕、シャイラに何かあったらって……!」



 痛いくらいの力で両手を握ってボロボロと涙を零すコーニを、シャイラはぼうっと眺めていた。なんだか、夢を見ていたようだ。どこかふわふわとしたシャイラの心を引き戻したのは、母が呼ぶ声だった。



「シャイラっ! 良かった……! 無事ね? どこにも怪我はない!?」



 いつも綺麗に整えてある栗色の髪を振り乱して、エリーシャがシャイラをきつく抱きしめた。暖かい母の体温が、じんわりとシャイラの体を温める。


 ひくりと喉を鳴らして、母の背中に腕を回した。ここは安全な場所だ。怖いことは何もない。


 堰を切ったように溢れ出した涙のままに、シャイラは大声で泣きじゃくった。いろんなことが起こりすぎて、心の整理がつかなかった。


 そのままシャイラは、泣き疲れて眠ってしまうまで、エリーシャに抱きしめられていた。

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