第10話 正体

 心臓がばくばくと全力疾走している。門を叩いても、木で覆われた分厚い鉄板はびくともしない。先に街を出た討伐隊の姿は、既に小さくなっている。ここで叫んだところで聞こえる距離ではない。


 門に背中をつけて、素早く周囲を見渡す。シーレシアの周囲は起伏のなだらかな草原だ。目に見える範囲に、魔物の姿はない。


 かつて女神がこの世界を去ることになった原因である、人間を罰するために世界が生み出した存在。それが魔物だと神話は伝えている。精霊と同じく四つの属性を操る魔法を使い、その姿は様々でこれと決まったものはない。


 人間は精霊の加護があるから、教会や十二歳以下の子供が通う学校で詠唱を教われば魔法を使うことができる。けれどシャイラは、戦うための詠唱を知らない。攻撃用の魔法を使える魔法具も持っていない。


 ここで、もし魔物と遭遇したら。退けるための手段を、シャイラは持たない。


 街から締め出された。開門を手伝っていた、案内役の男たちに。あの二人が熱心な信者なのは知っていた。警備隊の案内役窓口で言われたことを思い出す。


 シャイラが教会の依頼を受けたことを、快く思っていない人たちがいる。


 耳鳴りがする。頭がくらくらする。呼吸が早くなっていくのを、シャイラは他人事のように認識した。


 どうしよう。どうしたらいい。誰か気付いて欲しい。討伐隊の誰かが、戻って来はしないか。コーニに待っていてもらえばよかった。まとまりのない思考がぐるぐると回る。


 魔物はいったいどこにいるのだろう。シーレシアの周囲は魔物が多いと聞くけれど、城門の近くで小さくなっていれば、大丈夫なのではないだろうか。


 だって街に魔物は入ってこない。馬車が門の外で列を作っても、魔物に襲われたりはしない。コーニも言っていたじゃないか、わざわざ城壁を越えて侵入してくる魔物はいない。


 それに、シーレシアには城壁があるけれど、周辺の村にはそんなものはない。せいぜい木の柵で囲いをしてあるくらいだ。それで無事なのだから、きっと街の近くに魔物は来ないのだ。



「……あれ」



 ふと、自分の思考に引っかかりを感じて、シャイラは首を傾げた。どこか現実逃避のように回転する頭で、それを探そうとしたが。


 大地が揺れた。下から突き上げるような震動に、シャイラは体勢を崩して両手をつく。地面が水のように波打ち、丸い波紋が幾重にも生まれて広がっていく。


 地面の中に、何かがいる。


 何か、なんて。



「……ぁ」



 まるで水しぶきのように、土くれが飛び散る。それは唐突に姿を現した。青白くなまめかしい裸体から続く、艶やかな鱗に覆われた下半身。太い尾が大地を叩き、凍り付いたシャイラの体を揺さぶる。


 女の体に蛇の尾。背中に小さく歪な羽が生えている。蝙蝠のような羽だが、人の二倍ほどもある巨体が、あれで飛ぶとは思えない。その代わりのように、蛇の胴体部分は両腕で囲えない程の太さだった。



「なんだ、人間の子供じゃないか。美味しそうな匂いがしたと思ったのに」



 酷く残念そうに、魔物はシャイラを見下ろした。長く湿った前髪の間から、ぎょろりと目玉が覗く。



「まあ、口寂しいのを紛らわすにはいいかね」



 何を言っているのだろう。美味しそう。口寂しい。


 停止した思考の代わりに、本能とも言うべきものがシャイラの中でけたたましく警鐘を鳴らした。


 喰われる。


 この魔物に、喰われて、死ぬ。


 明確に死を理解したのに、足が動かない。喉が張り付いて声が出ない。目が、魔物から離せない。


 首を傾けてじろじろとシャイラを眺めていた魔物は、不意に何かに気づいたように、眼球が零れ落ちそうなほど目を見開いた。



「いや……。あんたそれ、なんだい?」



 恐れ戦くような声色で問われて、困惑する。それってなんだ。魔道具の類は持っていない。魔物が恐れるようなものなんて、なにも。


 門に張り付いたまま蛇の魔物を見上げるシャイラに、明らかに様子の変わった魔物は鋭い牙を剥きだした。



「あんた……、放っておくわけにはいかないねぇッ」


「……ひ……っ」



 女の顔が縦に伸びた。人の顔にはあり得ないほどに開いた口が、シャイラを飲み込まんと頭上に迫る。


 喰われる寸前になって、ようやく体が自由を取り戻した。悲鳴を上げながら横に転がり、必死に魔物の牙から逃れる。一瞬前までシャイラが立っていた場所で、ガチンと音を立てて魔物の口が噛み合った。門から離れ、まろぶように駆け出す。


 シャイラの中にいったい何を見たのか、魔物は髪を振り乱してがなり立てた。



「逃がしゃしないよ!」



 頭の中はぐちゃぐちゃだった。息が上手く吸えない。しゃくりあげるようにしながら懸命に足を動かす。


 城壁に沿って逃げるシャイラを、魔物の尾が襲う。間一髪で上に逸れた蛇の尾は、城壁にぶち当たってひびを作った。あんな一撃を食らったら、シャイラの体などひとたまりもない。



「逃がさないって……、言ってるだろう!」


「きゃあっ」



 突然体が沈んだ。地面がシャイラを引きずり込んでいる。膝まで埋まった足はどんなに力を込めてもびくともしない。


 土の魔法だ。土そのものを操る魔法。


 ふっと影が落ちて、魔物が背後に立ったのが分かった。愉悦を含んだ吐息が、しゅうしゅうと耳元に降ってくる。


 もう、駄目だ。肩を叩こうとする死の気配に、がたがたと震える体を抱きしめてきつく目を閉じた。


 ――けれど次に聞こえてきたのは、魔物の叫び声だった。



「ぎゃああぁぁあぁっ」



 思わず耳を塞いでその場に蹲る。その上から生暖かいものが降り注いだ。シャイラのすぐ目の前に、血に塗れた腕が一本転がる。



「なにっ、なにが……! なんだお前ぇぇぇ!」



 強く風が吹いた。恐る恐る顔を上げたシャイラは、魔物のいる方を振り向いて息を呑む。



「フィス、ク……」



 空色の髪を靡かせて、槍を構えたフィスクが魔物と対峙していた。切り落とされた左腕の傷を抱えて喚く魔物に油断なく穂先を向け、ふっと息を吐き出す。


 フィスクの姿が掻き消えた、と思った瞬間、魔物が体を捻って土に潜り込んだ。切れた髪が束になって地面に落ちる。目に見えぬほどの速度で突きを放ったフィスクは、小さく舌打ちしてシャイラに駆け寄って来た。



「討伐隊の方へ逃げろ。警備隊長が俺を追って来ている」


「フィスク、どうして……」


「あいつが下に潜んでるのは分かってたが、場所が特定できなかった。音と悲鳴が聞こえたから引き返して来た」



 簡潔に説明しながら、フィスクは槍の石突でシャイラを捕らえている地面を叩き割る。子供を抱き上げるように引き抜かれたが、膝が笑って力が入らない。へろへろと崩れ落ちたシャイラを横目に、フィスクは指笛で馬を呼んでいた。



「馬は乗れるか」


「の、れるけど、歩くだけ、ギャロップはむり……」


「じゃあしがみついてろ。落とさせない」



 落とさせないって、と聞き返そうとしたが、その前にはっとしたフィスクに抱えられた。横っ飛びに飛んで避けたその場所を、下から現れた魔物の巨大な口が削り取る。



「ひぃっ」



 血走った目がフィスクとシャイラを捉える。魔物は高く哄笑して、鋭い爪を突き付けた。



「こりゃあ面白いね! あんたのことは知ってるよ、フィスク! 勝負といこうじゃないか、このあたしと!」



 フィスクの目が眇められた。



「あたしはラミア。風の魔人と土の魔獣のハーフさ! 今のあんたになら、ハーフのあたしでも勝てるかもしれないねえっ」


「……ほざけ」



 会話の意味が分からない。魔人、魔獣、ハーフ。何を指す言葉なのか。そしてこのラミアと名乗った魔物は何故、フィスクのことを知っているのだろう。


 そんな疑問が浮かんでは消える。けれど状況はシャイラを置き去りにして進んでいく。



「魔王の獲物を横取りするなんて、ぞくぞくするよっ!」


「安心しろ、お前如きに殺される俺じゃない」



 ラミアの標的は、完全にシャイラからフィスクへと移ったようだった。太い蛇の尾が地面を跳ね回る。地面がめくれ上がり、土埃が舞い上がった。


 後ろに飛び退って尻尾を避けたフィスクは、シャイラを放り出して両手で槍を構えなおす。



「離れてろ!」



 不規則に揺れる足元をものともせず、フィスクは駆けた。地面すれすれの位置から、唸りを上げて穂先が跳ね上がる。が、鈍い音を立てて鱗に弾かれた。



「無駄だよっ! あたしの鱗は鉄よりも固いんだ!」


「ちっ」



 地面が伸びた。そう見えた。


 土でできた腕が何本も、フィスクを捕らえんと殺到する。魔法に詠唱を必要としない魔物の、予測できない攻撃。


 その腕を、フィスクは槍で次々に叩き落としていく。ぐりん、と旋回した槍が土の塊を打ち砕き、僅かな隙間を縫うように貫いた。


 「ぎゃっ」と声が上がり、ラミアが顔を覆ってのけぞる。


 一瞬動きの止まった土の腕を、フィスクは猛然と駆け上がった。ラミアの頭上から激しい一撃を叩きこむ。


 それは尾の先で弾き返されたが、鞭のようにしなった穂先は嵐のように暴れ狂った。硬質な音が幾度も響き、ラミアの体に小さな傷が増えていく。


 呆然とその攻勢を見上げていたシャイラは、突然後ろから抱え上げられて悲鳴を上げた。



「シャイラ! なんで外にいるんだ!?」


「……レオディエ、さん……?」



 シャイラを自分の前に座らせて、レオディエは戦うフィスクたちから離れるように馬を走らせた。



「なんか、いきなり……、背中を押されて……」


「はあ!? フィスクが何も言わずに突然引き返したから、何事かと思ったら!」



 続けざまに悪態をついたレオディエ。なかなか普段の彼からは聞かない暴言を聞き流し、レオディエが来た方向を見た。



「他の人たちは……?」


「先に行かせてる! こんな魔物が出てるなら、何人か連れて来るべきだったな!」



 一定の距離を保ってフィスクたちの周囲を走りながら、レオディエは通信具を取り出した。伏せたコップ、あるいは小さな鐘のような形のそれに、怒鳴り声を叩きつける。



「伝令、伝令! レオディエよりルカへ! 街に戻れ、近くに魔物が出た!」



 少し間が空いて、通信具の中から響くように声が返って来た。



『了解です! 状況をお願いします!』


「フィスクが相手をしている。あんな人に近い見た目の魔物は初めてだ! 俺も手を貸したいが、トラブルでシャイラが門の外にいる! 合流急げ!」


『シャイラが!? 分かりました、急ぎます!』



 やり取りを終えて、レオディエは渋い声で唸った。



「今日は攻撃の魔道具持ってねぇぞ……!」



 詠唱をせずとも魔法が使える魔道具は、実戦において重宝される。だが、高価で貴重な魔道具を使える人間は限られてしまう。


 警備隊でもいくつか所有しているのは知っているが、今回は温存しているのか、それとも別の隊員に持たせているのか。


 下手に手を出せないレオディエが苦々しげに見守る先で、フィスクが幾度目かになる突きを放った。


 空色が翻る。疾風となってラミアの懐に飛び込んだフィスクは、短く穂先を薙いだ。体を捩ったラミアの脇腹から、小さく血飛沫が上がる。


 その時、ばきりという嫌な音がシャイラの耳にも届いた。


 フィスクの手元で、槍が真っ二つに折れる。頬の紅潮した顔が一瞬だけ焦りに染まった。



「……脆いっ!」



 にぃっと笑ったラミアが、大きく口を開く。フィスクの体を噛みちぎらんとする魔物に、レオディエが唾を吐き捨てた。



「くそっ! 悠久の空を吹き渡る主なる力よ、風の唄よッ! 強く、鋭く、猛々しく! ゆうを誇る風よ、我が手に勝利を! 我が敵を切り刻みたまえッ!」



 体勢を崩しながらもラミアの牙から逃れたフィスクが、はっとしてこちらを振り向いた。



「風の魔法は駄目だっ! 返されるぞ!」



 しかしレオディエの詠唱は止められなかった。生み出された風が無数の刃となって、レオディエが指さした先、蛇の魔物へと殺到する。


 武勇の証、どの属性よりも強力な風の攻撃魔法。普通ならば敵をその刃で滅多切りにする、はずだった。



「あっはははは! なんだい、そのちゃちな使役魔法は!」



 腕の一振りでレオディエの魔法が掻き消えた。ラミアは何かを掴むように拳を握り、振り被る。



「あたしは風と土のハーフ! どちらもあたしの意のままなんだよ!」


「しまっ……」



 レオディエがシャイラを庇うように覆い被さった、次の瞬間。壁のような暴風に、為す術もなく馬ごと吹き飛ばされた。空中で錐もみする中で、乱暴にレオディエと引き剥がされる。


 唸りを上げる風の音が世界を支配する。自分の口から飛び出した悲鳴さえ遠い。その合間を突き破るように、フィスクの声が。



「舞い上がれ、風の唄!」



 うって変わって柔らかい風が全身を包み込んだ。シャイラもレオディエも、地面に叩きつけられて終わりだと思ったのに。下ろされたのは、槍の残骸を投げ捨てるフィスクの傍だった。シャイラの隣に、ことさら優しく馬が着地する。



「そいつを見てろ」


「レオディエさん!」


「飛ばされた衝撃で気絶しただけだ」



 手足を投げ出して転がるレオディエに縋る。一瞬のことだったが、彼が空中でシャイラを守ってくれたのは分かったのだ。見た限り血は流れていないが、固く閉じられた瞼は動かない。


 ぎゅっと手を握りしめてフィスクを振り仰ぐと、すっとこちらに手の平を向けられた。



「そいつの剣を貸せ」



 ラミアから目を離さずに、低く言うフィスク。



「だい、じょうぶ、なの?」


「何が」



 その先に続く言葉が出せずに、シャイラは押し黙った。


 フィスクは強い。けれど、シャイラだけでなくレオディエを守りながら戦うことが、どれだけ彼の負担になるか。ラミアはきっと、手を抜いて勝てる相手ではない。


 けれど、それを口に出す勇気は、シャイラにはなかった。


 だから黙ったまま、レオディエの腰から長剣を引き抜いてフィスクに手渡した。


 いつもレオディエが両手で扱うその剣を、フィスクは軽く片手で振り払って顔をしかめた。



「軽い……。仕方ないな」



 何故かその様子をじっと見ていたラミアが、はっきりと嘲笑の声を上げた。



「随分と愉快な姿だねえ、フィスク?」



 ぴくりとフィスクの眉が動いた。急に苛立ちの色を乗せた美しい顔に、魔物は満悦した笑みをみせる。



「……」


「だって、そうだろう? 随分と人間に馴染んでるねぇ」


「黙れ」



 教会の裏庭で見たのと同じだった。暗雲の立ち込めた瞳に、雷鳴が轟く。激しい怒りと、その内に潜む痛み。重苦しい雰囲気を纏ったフィスクに、ラミアが笑みを深めた。



「人の世界はどうだい? 精霊の中で唯一、人を憎むお前が! 力を失って地上を彷徨ってるなんて、実に滑稽じゃあないか!?」



 げらげらと声を上げて笑うラミアは、決定的な言葉をフィスクに突き付けた。



「そうだろう、フィスク! 百年前に翼を奪われた、最強の精霊よ!」



 渦を巻くように吹き付けた風が、空色の髪を揺らしていった。シャイラの見上げる先で、フィスクの顔が凶悪に歪む。



「その話をするな……!」



 精霊だと、言った。あの魔物は、フィスクが精霊なのだと。


 百年前に翼を奪われた精霊。シーレシアに落ちて来た、翼のない〈風の民〉。この地に残された精霊の槍。


 鮮やかな空色の髪と、光の当たり方で色を変える雲の瞳。それは〈風の民〉の特徴だ。



「〈精霊の子〉、じゃ、ないの……?」



 精霊の血を引く人間ではない。彼は、本物の精霊だ。

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