第3話 〈精霊の子〉
馬車がシーレシアにやって来てから五日経った。案内役の仕事は昨日で終了している。シャイラはパンを買うため、行きつけのパン屋を訪れていた。
「こんにちは、ウィンスさん」
「よう、シャイラ。こないだ傭兵とやりあったんだってな?」
屈託なく笑うパン屋の店主は、五日前の傭兵たちよりも屈強な大男だった。刈り込んだ灰色の髪の下で、にかりと笑った笑顔が眩しい。
あまりに厳つい容姿のせいで、初見でパン屋だと信じてくれる人がいない、と嘆いていたのを聞いたことがある。ならばどうしてそこまで鍛え上げたのかというと、「若気の至り」だそうだ。
「行く先々で言われるんですけど。そんなに面白い話ですか?」
「いや? シャイラに限らず、この街じゃあよくある話だ。ただ件の傭兵どもが、随分と荒れてるらしくてな」
愉快そうに笑うウィンスも、シーレシアの人間らしくあの傭兵たちをよく思ってはいないようだった。
「荒れてるって、まさか暴れてるんですか?」
「酒場で騒いでる程度だな。だが一日中酒場をはしごしてるせいで、かなり話は広まってるぞ」
どうやら自分たちの株を下げて回っているらしい。シャイラは苦笑を零して、黙ったまま首を振った。
どうせ、次に門が開く時にはこの街を去るのだ。彼らがシャイラと関わることはもうないだろう。あれほど気分の悪くなる相手は初めてだったが、ウィンスも言うように旅人や傭兵が騒ぎを起こすのはそう珍しくない。いわば日常の出来事にすぎない五日前の件を、ずっと覚えている必要もない。
シャイラは並べられたパンを見渡し、深い籠に入ったものを指さした。
「ウィンスさん、そのバゲットください」
「はいよ」
ウィンスもすぐに話を切り上げて、シャイラの示したパンを包み始める。
「ほれ。大銅貨二枚な」
「ありがとうございます」
買った商品を受け取っていると、店の外が俄かに騒がしくなった。開け放ったままのドアを振り返り、外の様子を窺う。ウィンスのパン屋は街の中心に位置する広場に面しているため、いつも賑わいに包まれている。
けれど今日は、それとは違う何かが起きているようだった。
カウンターから出たウィンスが、店の入り口から首を突き出す。シャイラもその後ろについた。
「おい! 何かあったのか?」
「あ、ああ、ウィンスさん!」
街の北へ向かおうとしていた住人が、ウィンスの声に応えて足を止める。その顔には困惑と興奮がない交ぜになった色が浮かんでいた。
「いや、北門の見張りが、街の外に人を見つけたんだってよ! この辺りは魔物が多いから、護衛のついた馬車でしか行き来できないはずなのに、そいつはたった一人でこっちに歩いて来てるんだとさ!」
まくし立てるようにそう言った彼は、すぐにまた走り出す。
驚いたシャイラは、思わずウィンスを見上げた。
「徒歩でシーレシアの外を? そんな危険なこと、一体どうして……」
「……前の馬車は北門から来たんだったな」
「はい、開いたのは北門だけです。それが?」
難しい顔をしたウィンスが、小さく呟く。
「例の、傭兵連中とはぐれたって奴じゃないのか」
「あ……!」
大まかに真円の形をしているシーレシアには東西南北に四つの門がある。その内、主要な街道と繋がっているのが南北の門。南門はアリアネスの帝都に、北門は隣国ハルクメニアとの国境に設けられた関所に続いている。
あの傭兵たちは、隣国から来た商人の護衛だ。北門の方角からやって来るということは、彼らと同じ方向から来ていることになる。
シャイラはこくりと唾を飲みこんで、北門に向かう大通りを見晴るかした。美しい青空に、教会の高い塔がよく映えている。
「私も見てきます!」
「ああ。気をつけろよ」
ウィンスの見送りを受け、街の住人たちが北へ向かう流れに乗り、シャイラも駆け出した。
北門には既に、それなりの人が集まっていた。シャイラは人垣を潜り抜け、門のすぐ傍まで進む。誰もが興味津々で見つめる中、いつもならば二週間に一度しか開かない門が開こうとしていた。
石畳と擦れる重々しい音が響き、両開きの門の片方が、僅かな隙間を作る。そこから、くたびれた黄土色のマントがひらりと滑り込んだ。
一見して、その人物はどういう人間であるかがほとんど分からなかった。身長があるから、恐らくは男なのだろう。大きなフードで頭部を徹底的に隠し、ところどころにほつれのあるマントで全身を覆っている。
街の中へと踏み込んだその人は、すぐに足を止めた。奇しくもそれはシャイラの目の前で、一つ分高い位置にある頭がぐるりと周囲を見渡した時、フードの下に隠れた髪がちらりと見えた。
高く抜けるような空と同じ、鮮やかな青。ハッとして、目を見開いた。
「〈精霊の子〉……?」
止めた足を踏み出して、彼は再び歩き出す。彼を見るために集まっていた人垣が、ぱっと割れて道を作る。泰然とした空気が彼にはあって、誰もが気圧されて声をかけようともしなかった。
けれど、周囲が彼の放つ空気に呑まれていたのはそこまでだった。数歩も行かないうちに、膝がかくんと折れる。どさりとその場に崩れ落ちた彼を見て、シャイラは飛び上がった。
「えっ、だ、大丈夫!?」
一番近くにいたシャイラが駆け寄ると、群衆にもざわめきが広がって、皆が慌てて動き出す。
「警備隊呼んで来い!」
「診療所に運ばないと……!」
「誰か担架!」
うつ伏せに倒れた体を引き起こそうとしたが、重くて動かない。周りにいた人がシャイラの代わりに仰向けにして、まずは呼吸を確認しようと彼のフードを払い、凍り付いた。
ざわめきが広がった時と同じようにして、今度は沈黙が広がった。彼から目を離せなかった。
フードから零れ落ちた長い空色の髪が、顔を包むように散らばっている。仄かに光を含んだ白く柔らかな肌は、指先で触れれば滑ってしまいそうだ。まっすぐに通った鼻梁も、閉じられた目尻の長さも、どこか刃のような鋭さを感じさせる。
それはまるで、真昼の空に浮かぶ月のような。今にも消えてしまいそうで、けれど確かにそこにあると主張しているような。
美しい、少年だった。
そして何故か、どこか懐かしさをも覚える。幼い頃からよく知っている、精霊のおとぎ話を聞いた時のように。
誰もが時を忘れて彼を見つめる中、彼の口から小さな呻き声が漏れた。綺麗な顔が僅かに歪む。
シャイラは我に返り、弾かれたように立ち上がった。
「私っ、診療所に行って準備してもらいます!」
教会の横に立つ診療所には、シャイラの友人がいる。
「コーニ! どうだった?」
診察室から出て来た少年に駆け寄る。
彼はこの診療所で医術を学ぶ、医者の卵だ。普段は雑用も含めた手伝いをしている。小さな頃は女の子のように可愛らしかったコーニは、今でも患者のおじいちゃんおばあちゃんに大人気だ。本人は筋肉のつかない体を嘆いているが。
コーニは目元にかかる紺色の髪を払って、シャイラに微笑んだ。曇り空のような丸い灰色の目が柔らかく下がる。
「大丈夫だよ。外傷はなかったし、多分疲労で倒れたんじゃないかなって、先生が。徒歩で魔物のいる山や草原を抜けて来たなら、何も食べていないかもしれない」
「そっか……」
「教会が保護してくれるそうだから、心配ないよ。彼は〈精霊の子〉だから」
鮮やかな髪の色を思い出して、シャイラは胸を撫で下ろした。それならば安心だ。
遥か昔、まだ精霊が人間と共に暮らしていたころ。女神と同じ姿を与えられた人間と、女神の血を引く〈神と精霊の民〉は、心を通い合わせて子を成すことがあったのだという。そして、精霊がいなくなった今でも、その血は人々の中に残っている。
彼ら〈精霊の子〉は成長するにつれ、髪と瞳が〈民〉の持つ色に近づいていく。その色が〈民〉と近ければ近いほど、精霊の血が濃いと言われているのだ。
「空に住むもの、〈風の民〉はその身に空を宿す。空色の髪と、雲色の瞳は〈風の民〉の血を引いている証だ。まだ目が覚めていないけど、あんなに綺麗な空色の髪をしてるんだから、確実だよ」
「そうね。でも、コーニ以外の〈精霊の子〉なんて初めて見た」
ちらりと友人の表情を伺うと、彼は苦笑する風だった。
「僕なんて、髪の色は濃いし、〈風の民〉のような勇敢さとは程遠いけどね……」
「またそういうこと言うんだから」
シャイラはむっとしたが、コーニがこの調子なのはいつもの事なので、すぐに話を切り替えた。
「それで、あの男の子は例の傭兵たちの仲間だったの?」
「さあ……。護衛依頼を出した商人と傭兵ギルドに確認してる最中らしいんだけど、あの傭兵たちの仲間にしては若いから違うんじゃないかって、警備隊の人が言ってたよ」
とはいえ、傭兵であろうとなかろうと、彼が魔物を倒すなり欺くなりしてこの街に辿り着いたことに変わりはない。このシーレシアでは、その強さと度胸は称賛されるべきものだ。それも今となっては珍しい〈精霊の子〉。あの傭兵たちなどより、よっぽど歓迎されることだろう。
今回の契約を終わらせている案内役の子たちがこぞって群がるだろうな、と、シャイラは他人事のように考えていた。
診療所を出ると、ちょうどアロシアが教会からこちらへ向かってくるところだった。立ち止まって挨拶をすると、アロシアは親しみを込めた笑顔を見せてくれる。
「シャイラさん。ちょうど良かった、あなたを探してもらおうとしていたところだったのです」
「私を? 何かご用ですか?」
「ええ。あの、街の外からいらした旅の方の件で」
今から彼の様子を見に行くのだというアロシアは、風に揺れる髪を手で押さえた。
「よろしければ、案内役のお仕事を、シャイラさんにお願いできないかと思いまして」
「え、案内役ですか? というか、本人に確認せずに決めるんですか?」
少し驚いて、シャイラは年若い巫女を見返した。普通なら案内役は、こちらから声をかけることはしても、勝手について回ったりはしない。決めるのは客だ。シャイラたちシーレシアの案内役は門の前で売り込みをしているが、もしそこで案内を断ったとしても、警備隊の窓口に行けばある程度の希望に沿った案内役を斡旋してもらえる。
こんな風に、教会が間に入って案内役を付けようとするなんて、聞いたことがなかった。
それが分かっているのか、アロシアも少しだけ困ったような顔をした。
「もちろん、強制するわけではありませんし、異例のお願いだということも分かっています。ですが、少々状況が悪いようでして」
「状況? 彼、まだ眠ったままですけど……」
「ご本人の状況ではなく。警備隊の方に、案内役の方々が殺到しているようなのです。シーレシアまで徒歩でやってくる強さに加え、容姿も大変優れているとお聞きしました。そのためか、彼の案内役に就きたいと考えている方が多くいらっしゃるようで」
さっきコーニと話していたときにちらりと考えたことが、既に現実となっていたようだった。この短時間で噂が広まって、今までにない騒ぎになり始めている。
「尊い精霊の血を色濃く引き継ぐお方を、そのような騒がしさの中に置くのは、教会としましても望むところではありません。もちろん、かの方が気にしないと仰るならば別ですが、やはり煩わしさはありましょう。ですので、その意思が確認できるまで、教会の方で案内役を指名してしまおうというお話になりました」
アロシアはいかにも名案というように笑ったが、それはつまり、シャイラに虫除けを務めろという話では。さすがに言葉を失うシャイラに、アロシアは構わず続ける。
「大司祭様から、どなたかよい方はいないかと尋ねられまして、シャイラさんを推薦させていただきました。あなたのお仕事はいつも丁寧ですし、診療所のコーニ様とも親しくしていらっしゃいますから、出入りもしやすいでしょう? 大司祭様もシャイラさんの信心深さはよく知っておいでですので、依頼をすることになったのです」
教会の保護ってそういうことか。アロシアに見えないように顔を引きつらせるシャイラだったが、まさかここで断れるはずもない。信仰の街シーレシアは、どこよりも教会の力が強いのだ。そしてアロシア、というより教会の上層部はその影響力を理解したうえで依頼をしているのだから、質が悪い。
それに、シャイラが依頼された本当の理由も、なんとなく察しがついた。案内役の仕事に多少なりとも出会いを求めているほかの子たちとは違い、シャイラは旅の話を聞くことを目的としている。経験豊富な旅人や護衛を選んで売り込むうち、それなりに年齢を重ねた客ばかりを相手にすることが増えた。だから、教会からすればシャイラは「安全」なのだろう。
いろいろと失礼だとは思うが、今目の前にいるアロシアはそこまで考えていないだろう。単純にシャイラが適任だと考えて推薦したのだろうから、彼女に文句を言うのはお門違いだ。何より、断ることはできない依頼だ。
「……分かりました。依頼は警備隊の方にお願いします」
「ありがとうございます、引き受けてくださって」
断られなくてよかった、と心から嬉しげにするアロシアは、やはり権力や闘争とは無縁の純粋な人だ。
彼女に頼まれたなら仕方がないと、シャイラも眉を下げて微笑んだ。
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