第20話

 常盤は三つ先の駅に降りて、改札へ向かう階段を急ぎ足で下りた。


 駅前の二車線道路を注意して渡り、両端に泥の溜まるかね折れ階段を下りて、小便臭いトンネルに入ると、顎の曲った髭の不十分な青年が突っ立っている。隙間なく詰めた大きなバックパックは茶色く染み、モスグリーンはより汚く、襟のくたびれたシャツに釣り合っている。


 そぼ濡れて乾かしたガイドブックに目をおとしていたが、すれ違いになる常盤に気づくと、「は、はのぉぉ、ひょっほ、はじゅねふぅあいのべふが、ふいまへん……」


「し、しぃません、なにも知りません」足を止めるとすぐ、顔半分が俄に引き攣る。


「はどをはがしへいふほへふがぁ、ほこにもみふかはなくとぅへぇ……」


「ほんと知りません、か、帰ってください」声が上擦る。


「ほ、ほんなぁぁ」口を広く開いた溝鼠が走り過ぎる。


「急ぐので、す、すいません」不潔な男に背中を向ける。


 不潔な男は咄嗟に常盤の手首をつかみ、「なはぁ、へめへ、大麻のへにはいふほこほぉ」力一杯握り締めて、「ひょうほいふくへ、はまらないんべすほぉ、ひょっほわけまふかは、大麻、大麻」常盤を引き寄せようとする。


「いたた、やめてください!」思わず上半身を捻じると、角張ったリュックサックが不潔な男の顔に突き刺さり、「ぶへぇぇ」男は体勢を崩して勢いバックパックから倒れこんだ。「ぐぅわあああ!」倒れた拍子に背骨のどこかを損傷したのか、不潔な男は叫喚して背中を反らそうとするも、バックパックが張り付いてそうさせない。頑丈な泡の浮かぶ水溜りに浸かり、容赦ない壜の破片が路面に散乱し、男とバックパックは濡れてずたずたになる。辛く饐えた頭痛を引き起こす激臭、派手に色づいた花弁の大きな花房、襞の深いやけに細長い蛆虫、それらが男の背中から一斉に出現する。


(ナンナンダヨ!)常盤は走り出すのを堪えて、より足早にトンネルを抜け出した。 


 爪先上がりの大きく曲った道を歩き、細い街路樹の下を潜り、オリーブ色のオーニングの張ったカフェテラスの前に着くと、「あら? どうしたの?」縞柄の帆布の背もたれにかかるサバラは気づいて、「冴えない顔してるわ」窺うように体をわずかに起こした。


「うん、ちょっと、トンネルで嫌なことがあって」籐椅子を好い加減に避けて常盤は近づく。


「なになに、何があったの? ほらここ座って」斜めに位置する椅子を近づけて、「簡単に、詳しく話してちょうだい」強い眼差しで常盤を引っ張る。 


 リュックサックを空いた椅子に乗せて腰を下ろし、「さっきさぁ、駅の下のトンネルを通りかかると、汚らしい旅行者が……」


 常盤は経緯を順序よく話す。


「うん、うん、あっ、カフェ・オ・レお願い! ミルクおおめよ! でっ、その汚い旅行者が腕をつかんで?」話を卒然と遮り、常盤の飲み物を勝手に注文する。


 耳朶の膨らんだ給仕が飲み物を運ぶ。口紅を塗った女が立ち上がり、巻き毛の男の腕を組んで店を出た。


「なんだぁ、その、非常に汚い旅行者が、苦しみだしたのが気になるわけね、常盤ちゃんったら優しい男の子だから、まったくねえぇ、そんなの気にすることないわよ、わたしだったらわざわざヒールに履き替えて、顔面を思いきり踏んづけてから、後頭部を蹴りあげてやるわよ」落ち着きながらも、愉快な心情を含んでサバラは話し、瞬きを一度する。


「そんなぁぁ」四角いコーヒーカップの取手に手を添え──物々シク欹ツ踵ノぴんひぃぃるハ眼底ヲ貫キ、先鋭ナ鏃ノ爪先ハ盆の窪ヲ打チ抜キ、頭部ヲ無理矢理ニ突キ上ゲルノデ首ガ──常盤は声を漏らす。


「まったく、大麻を欲しがる旅行者が多いのよ、小店の多い明るい通りを一本裏に入ると、色の少ない小道にいるわいるわで、ほんと汚らわしい、繁華街の苔とも埃とも、んん、違うわね、石をひっくり返すとわんさか逃げ出す、あの足の多い生き物のね、ああぁ、想像したら鳥肌たってきちゃった」腕を交差して、菖蒲色のガラベーヤの袖の上から肌を摩る。


「うわあぁぁ」口に運ぼうとするが──無数ニ生エ揃ウ毒針紛イノ節足ハ精密ニ走リ、神経ヲ苛立テル触角ハ狙イヲ定メ、滑ル体表ハ伸縮シテ肌ヲ粟立テ、体節ガ臓腑ヲ騒ガセ、漆黒ノ翅ハテラテラ、牛角曲ガリノ鋏ヲ立テテ、百足、蛞蝓、草鞋虫、蠢動、鋏虫、蜚蠊、竈馬、擾乱──冷ややかな陶器の音を立てて受け皿に戻す。


「ブラバンじゃないか!」離れの席にいる口髭の男が、通りを歩く痩せぎすの男に声をかける。

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