第3話

「父さんただいま、今日は三匹のサラリーマンが釣れたよ」


 ピロティ内の地面に褌一丁の尻をつけて、血走る眼を一点に編み細工に励んでいる父親は、アジャジの声がまるで聞こえていないらしく、少しの反応も示さない。痩せ細りながらも微かな筋を残したその肉体は白く、強い陽射しの内に生活している者には見えない。


「父さん! 父さん!」家屋を支える檜柱に竿を持たせ掛け、アジャジはバケツを持って父親に近づき(モウッ)、必死に作業を続ける父親の前に立ちはだかって「父さんただいま!」


「んが?」唐突に現実世界に引き戻され、ふと父親は顔を見上げて(アア? アア?)、焦点の合わない目を膨らんだアオザイの乳房に当てようと努力する。縮れ毛の洩れ放題の丁髷が細い頭部に不似合いだ。 


「見て父さん」アオザイの裾を膝に挟んで蹲り、「今日も成熟したサラリーマンが釣れたよ、ほら、どれも働き盛りの独身男性って感じじゃない? 背丈に合っていない不恰好なスーツの丈がさぁ、なんか独り者の生活を予感させない? 奥さんがいたらこんな格好にさせておかないよ、ほら、この人のシャツなんてタバコの煙で黄ばんだままだし、ズボンの折り目もはっきりしないで、斜めの皺ばかりだし。気にならないんだね、仕事に熱中しすぎなのかな? 仕事に忙しくておしゃれに気がまわらないのか……」


「嫁をもらいそこねたんだろうなあ、一目見ればわかるぜ、どいつも不細工な顔してやがる。よっぽどの物好きでもなきゃ、こんなやつらに嫁ぎはしねえよ。そりゃあ、最近の女子連中といったらお目が高くてしかたねえから、こいつらは大変だよなあ。不細工な連中はいくら良い服を揃えても、見栄えばかりで中身はからからになって、おごるだけの肝心な金がないんじゃさあ、まったく、服を揃えりゃ金がなくなり、服をけちれば女はまるで寄りつかない。にっちもさっちもいかねえよな」


 仕事の手を休めずにバケツ内の様子を一目見て、父親はアジャジの乳房をじっくり見ながら話す。


「まあね、わたしもこんな人達に何も魅力を感じない。でも、途中で釣り上げた若いサラリーマンならまだましだなぁ、こじゃれた身だしなみが生意気な感じでね、仕事ができなさそうな感じだったけど……」


「そいつはどうしたあ? なんでこの中にいねえ? 若い奴はものによっては高く売れるのを知ってるだろお? おいアジャジ、情にほだされて逃がしたんじゃねえのかあ?」吊りあがった細目をアジャジの膨よかな丸顔に向ける。


「まさか、わたしがそんな真似をすると思う? 違うよ、釣り針が鞄と一緒に獲物の肘に突き刺さってね、取り外そうとしたら腕がもぎ取れちゃったのよ。ちょっともったいないことをしたかな、そうね、もっと慎重に扱えばうまく外せたかも、でも見た目からすると貧弱な青年だったからしかたないや。壮年のサラリーマンなら腕をもぐことなく、きれいに外せるからね、やっぱり若いと貧弱だなぁ、顔はわりと整っていたし、スーツも背丈に合っていたしね、でも女遊びが上手そうだった」


 頤に握り拳を据えてアジャジは目線を上に向け──口元ノ締マラナイ青年ガ、ですくニ向カウ新卒ノ女性社員ノ背後ニ廻リ、オ笑イ芸人ノらいぶちけっとヲ、出シ抜ケニ眼前ヘ広ゲテ見セルト同時ニ、細イ肩ニサリゲナク手ヲカケル──、眉間を一瞬引き締める。


「おい、そいつはどうした?」父親が目を見開いて尋ねる。


「えっ? 売り物にならないから川に戻したよ」アジャジはじろりと父親に目を戻す。


「もったいねえ、売り物にならなくても食い物になるだろう。芋と一緒に揚げれば、バッタよりかはうまく食えるじゃねえか」そう言ってアジャジの顔にめがけて張り手を飛ばす。


「ついね、食べることよりも逃がすことを考えちゃった」張り手を避けて、正直な力を込めて父親の顔を小突いた。


 鶏冠を震わして鶏がピロティを駆け抜け、裸の少年と処女は木の棒と木の実を持ち、遅れて後ろを追いかける。舞い上がった土埃が、父親の赤味を帯びる肌に吸われて張りつく。


「とっとと二階に上がって獲物をしまってこい」酸味のある甘いスープの香りが鼻をつく。


 ピロティの中央に備え付けられた胡桃材の階段を上がり、アジャジは壁のない二階の床端に目を向けて、蜂の巣状の網に囲われた一角に近寄る。村の様子とは打って変わったコンクリート建築のビル郡が、遮蔽された空間にこじんまりと聳えていて、アスファルトの道路はどれも楼閣の陰にひっそりと、古代紫の苔を斑にぼかしている。光が射さないせいか、それとも人通りのないせいか、丈の短い嘴形の羊歯類が朧気にうねっていた。


 底面近くの網の窪んだ箇所にバケツを載せると、旧式の自動機械が働き、網の上部に括りつけられていたピンクのスポンジ棒が外れ、勢いよくバケツを叩いてひっくり返した。バケツはこつんと倒れて、舞い散る書類と一緒に三人のサラリーマンを吐き出す。ふいに出されたせいで、顔面から着地したサラリーマンの厚ぼったい顔に、割れた眼鏡の破片がこびりついて傷をつけている。


(フフフ、何度見テモコノ瞬間ハ飽キナイ)アジャジは見つめ、とてもうれしそう。 


「さあ転勤だよ! 好きなビルに入ってお仕事しな!」自信に溢れた気色でアジャジは声を挙げる。


「前社で培われた在庫管理のノウハウを活かして……」肩にかかった鞄のベルトに両手をかけ、穴から書類を漏らし漏らし、サラリーマン達は銘々違ったビルに駆け込んでいく。踏まれたアスファルトからは古代紫の煙が渦状に眩き、羊歯はせせら笑って葉を顫動させる。


(サテ、オ昼ノ支度ヲシナイトナ)アジャジは後ろの台所へ振り返り、桜色の裾を扇にひらめかし、開いた袖口から細い手首を抜き出した。



 一年後、アジャジは同年代のマムーンと結婚した。

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