いつから拳闘だと錯覚していた?
僕の合図に、しかし、二人は一寸たりとも動かなかった。
「……来ねえのか?」
マスターの問いに、お嬢様は右手を突き出し、手のひらを上にして、指先でくいっと手招きをした。
「ったく、ブレないねえ……。
だが、惜しいな」
マスターが哀れむような表情をする。
「何がよ?」
「きっと、嬢ちゃんには才能があるんだろう。だがな、それだけじゃどうにもならんこともある。他の武器ならともかく、拳闘ならなおさらだ」
お嬢様は、またか、という顔をした。
その表情を読み取れたのは、この場にいる中では僕だけだろう。
マスターの言い出しそうなことに、お嬢様は察しがついたのだ。
「わかんねえかな。
案の定のマスターのセリフに、お嬢様がため息をつく。
「なんだ、ちょっとは期待したのに。あんたってば、その程度の奴だったわけ? すこしばかり
お嬢様の不敵な挑発に、ひくり、とマスターの口元が歪んだ。
「――あんまり舐めてっと怪我すっぞッ!」
マスターがステップし、一気にお嬢様との間合いを詰める。
「【ジャブ】!」
マスターの左手が高速で打ち出される。
お嬢様はそれを、右手の甲で受け流す。
ミスリルの手甲で覆われているマスターの拳を、お嬢様は気を巡らせた拳で逸らしたのだ。
「【ストレート】ッ!」
マスターは流された拳を引き戻しつつ、その反動も使って、高速の右ストレートを放った。
容赦なく、お嬢様の顔面を狙っている。
お嬢様は、わずかに身体を傾けながら、外側から内側にえぐるように、左の拳を突き出した。
「――がッ!?」
悲鳴を上げたのはマスターの方だ。
マスターは、ふらついた足取りで、大きく後ろに跳びすさる。
「俺のストレートにストレートを合わせた、だと?」
マスターがよろめきながらそう言った。
「ストレートじゃないわ」
お嬢様が言う。
「今のはジャブよ」
お嬢様は全力でドヤァ……という顔をしているが、実際、今のはジャブである。
お嬢様は右利きだ。
さっきマスターのストレートにカウンターとして合わせたのは左の拳。
ボクシングなら、利き手じゃない方でジャブを打つ。
一拍遅れて、ギャラリーの冒険者たちがどよめいた。
「おいおいマジかよ……? あの女、マスターの神速の【ストレート】をかわしたぞ!?」
「さすがにマスターが手加減したんだろ?」
「いや、試合となったらマスターは手加減しねえよ。たとえ相手が女子どもや新人でもな」
「じゃああの女は実力でマスターを押し返したっていうのか?」
たしかに、マスターはお嬢様相手に手加減はしていなかった。女性の顔は狙わない……などという勘違いした「紳士」のことを、お嬢様は毛嫌いしている。目の前に獅子や虎がいるとして、そいつがメスであることが何か結果に関わるだろうか?
「最初から全力で向かってきたことだけは褒めてあげるわ。
でもあんた、ジャブやストレートを打つ前にいちいち【ジャブ】とか【ストレート】とか叫ぶのはなんなの? 必殺技じゃあるまいし」
「んなもん、【拳闘術】スキルを発動しやすくしてるに決まってんだろうが」
「えっ……さっきの、スキル攻撃だったわけ?」
「は? それ以外のなんだってんだ?」
マスターとお嬢様の両方の顔に疑問符が浮いていた。
「ま、いいわ。スキルだろうとなんだろうと同じこと。そんなんじゃわたしを捉えることはできないわよ」
「そいつは――どうかな!?」
マスターがステップ。
正面からお嬢様に迫ると見せかけ、直前で脇に回り込む。
お嬢様の左、利き手の届かない側だ。
「【ウィービングブロー】!」
マスターが上体を大きく揺らし、その反動でアッパーのような一撃を放つ。お嬢様の死角からの、浮き上がるような攻撃だ。
だが、お嬢様はマスターと同時に、同じ方向に旋回している。
旋回速度はお嬢様の方が速かった。
マスターが、アッパーを外した隙だらけの脇腹を、お嬢様に向かって晒け出す。
「こうかしら?」
お嬢様はなんと、マスターと同じ技を使った。
上体を揺らし、反動を利用しての強烈なアッパー。
マスターの脇腹に、お嬢様の拳がめり込んだ。
マスターの身体が「く」の字に折れ、一瞬だが宙に浮く。
「ぐげぁっ!?」
たまらず、マスターが膝をつく。
マスターの頭が、腰より低い位置にまで落ちてしまう。
お嬢様はその頭を、グローブを開いた両手でつかみ――
「はぁッ!」
「ぐはぁっ!?」
お嬢様の強烈な膝蹴りに、マスターが仰向けになって吹き飛んだ。
見物していた冒険者たちからどよめきが上がる。
マスターは、吹き飛びながら失神しているようだった。
が、空中で意識を取り戻し、かろうじて足から着地する。
マスターは鼻血の流れる顔を押さえながら、
「ま、待て! これは拳闘じゃなかったのか!?」
マスターが、いきなり足を使ったお嬢様に抗議する。
「何言ってんのよ! わたしの冒険者としての適正を見るんでしょうが! 誰も拳だけなんて言ってないわよ!」
「し、
「蹴撃士? 知らないわね。そもそも拳闘士とやらでもないし。わたしはただの格闘家よ」
「か、格闘家? そんなクラスはないはずだが……」
「クラスがあるかどうかなんて知らないわ。わたしが格闘家だと言ったら格闘家なのよ!」
「そんな無茶苦茶な!」
「で、どうするのよ? わたしに身の程を教えてくれるんじゃなかったの?」
「む、まあ、このザマで認めないとは言えんがな」
マスターが苦笑する。
「よかったわ。じゃあ、冒険者になるのはいいとして、試合の続きをやりましょうか」
「なに!? まだやる気なのか!?」
「当然でしょ! 試合はまだ終わってないわ! 冒険者として認められるかどうかなんてオマケよオマケ! どうせなれるに違いないと思ってたんだから、賭けの報酬にすらならないわ!」
お嬢様の言い分に、マスターがあんぐりと口を開けた。
そして、
「――くっ、はははははっ!」
マスターが、あおのけになって笑った。
「俺もヤキが回ったもんだ。若い頃は拳一つでブイブイ言わせてたってのによ」
「あんたの昔話になんて興味はないわ。今のあんたがどれだけ強いか。わたしが知りたいのはそれだけ――よ!」
今度は、お嬢様から踏み込んだ。
迎撃のジャブを放つマスター。
ジャブは一見当たったかに見えた。
だが、当たる直前、お嬢様の姿がかき消えた。
「何っ!?」
マスターはお嬢様を見失う。
しかし、ギャラリーからすれば、一目瞭然だ。
お嬢様は前に進みながら腰を落とし、駒のように回転する。
その旋回力を乗せて、背中からの強烈な体当たりを見舞った。
「ぐおあっ!?」
優に1メートルの高さまで吹き飛びながら、マスターが驚愕の声を漏らした。
マスターはかろうじて着地すると、慌てて跳びのき距離を取る。
「な、なんだ今のは!?」
「
「基本なわけがあるか! どのスキルの派生スキルだ!?」
「知らないわよ、そんなの。しいていうなら八極拳ね」
「は、ハッキョクケン……なんだそれは?」
「応じ手がないならどんどん行くわよ」
「ちょ、まっ……!」
突進するお嬢様。
空振るマスターの拳。
お嬢様は両手を揃えての掌底打。
「ぐげあっ……!」
地面を転げるマスターの上に、影がかかる。
お嬢様は空中から急降下し、尖らせたつま先でマスターの鳩尾を狙った。
「うおあああっ!?」
マスターはその一撃を、地面を転げてなんとかかわす。
お嬢様のつま先は、訓練場の砂利の下、硬い地面をも貫いていた。
「じ、冗談じゃねえ! 降参だ降参! このままやったら死んじまう!」
「何言ってるのよ! 冒険者に降参なんてあるわけないでしょ! 降参したらモンスターが見逃してくれるわけ!?」
お嬢様の切り返しに、「そりゃそうだ!」と冒険者たちから無責任なヤジが飛ぶ。
「さあ、覚悟はいい?」
据わった目で告げるお嬢様に、マスターが青白い顔で立ち上がった。
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