第3話 病院debut


    


 針の進みが遅く感じる。耳障りな時を刻む音。見慣れた病室。染み付いてとれない、シーツに絡みつく避け難い終わりの匂い。  

初菜はふぅっとため息を漏らした。天井の染みを数えることも、気紛れで始めたスケッチもとっくの昔に飽きてしまった。本を読もうにもすぐに疲れてしまう。他にすることも無いし、写真立ての写真でも一日中ずっと眺めていようか。それとも名前も知らない白い花の、甘い香りでも嗅いでいようか。  

 日々少しずつ力が流れ出していく。針の音に足並みを合わせ、一つ鼓動が打つごとに生命が流れ出していく。普段感じることの無いほど、小さな一歩。それでいて確実に世界は終わりへと歩き出している。

 


「なんかこうしていると、月も立派な患者さんに見えるね」

 秋の終わり、検査入院の初日、和樹はそう言って初菜をからかった。

「ひっどいなー。正真正銘、立派な患者さんですよーだ」

 四日間の予定だった入院は一週間に延び、二週間に延びた。退屈だ、と初菜は思った。あまり好きではなかった筈の学校に、無性に行きたくなった。お見舞いに来てくれた友達に学校のことを沢山聞いた。

「早く治して、またいろんな所に行こうぜ」と和樹は言った。入院してから一週間、一向に退院出来なくて苛立ちを覚えていた頃の事。

「それまで毎日だって見舞いに来るからさ」

「……ありがとね……」

 言葉が胸に沁みて、初菜は思わず泣きそうになった。和樹は毎日のようにやってきた。初めのうちは、ただ単純に嬉しかった。

 

秋が過ぎ去り、外の世界に冬が訪れた。

「……外、寒いでしょ?」

「……まぁ、この部屋に較べると段違いにね」

「……大変だよね、毎日来るの」

 初菜の言葉は弱々しく掠れ、白い天井へと吸い込まれていく。

忙しいはずなのに、他にもやりたい事があるはずなのに、和樹は毎日のように来てくれた。そのことが本当に、本当に嬉しくて、言葉に出来ないくらい感謝していた。変化の無い入院生活における唯一の歓びだった。

 けれど、自分の存在が和樹にとって負担になりはしないだろうか。初菜はいつからかそんな考えにとり憑かれていた。

「……だから……もし、和君の負担になるようだったら……」

 心配させないように、元気良く笑おうと努力したけれど。

「……毎日来てくれな……ても、い……んだよ……?」

 唇が震え、上手く言葉にならなかった。胸が引き裂かれるように痛み、涙が滲む。慌てて目を擦ったけれど、間に合わなかった。

「……そんな心配、しなくてもいいんだ」

 小さな傷から溢れ出した血に、泣きそうな表情で和樹は笑っていた。

「……月の顔が見たくて、月の声が聞きたくて。俺は来たくて、来ているんだから」

 ――嬉しい……嬉しい……嬉しい……。……だけど――

「……ごめんなさい……」

 泣いてしまう自分の弱さが初菜は悔しかった。来てくれなくてもいいと言っておきながら、泣いてしまうなんて卑怯だと思った。俯いた和樹が強く唇を噛んだのがわかった。

「……もしかして……来て欲しく無いって意味、かな……?」

 押し殺したような和樹の声に、初菜の胸の痛みが増した。

「……ち、ちがっ……うよ……」

涙声が抑えられない。苦しくて、言葉を吐き出すだけで息が詰まってしまう。

「……そんなこと……絶対……無いから……」

 視界が揺れた。世界がバラバラと音をたてて崩れ落ちていく。

「……だから……そんなこと……言わないで……」

 喉がひゅうと鳴った。無意識のうちに初菜は、首にかけていた青水晶のペンダントを掴んでいた。

「……和君が来て……くれないなんて……嫌だよぉ……」

 何だろう。頭が揺れる。纏まらない思考の毛糸が解れ、ばら撒かれていく。青水晶。青、青、青い青。『あお』ってどんな、色、イロ、いろ? 比率の合っていない風景が私を押し潰そうとせせら笑う。偽りの黄色とノイズの灰色と、祈りの紫色の笑顔で、少年が泣いていた。真実の水色と、静謐の青と絶望の黒とそこに有る『無』が揺れ動く世界を取り巻いていた。カーテンの向こうには油絵の具を塗りたくったような空。

「……月……しっかり……初菜……!」

 どきりと胸を締め付ける切なく優しい声がする。けれど、月、ツキ、つきって何だろう。思い出せないことがとても淋しくて、

ごぶりと胸が血を吐き出した。空が紅に染まり、脳が刺すように痛んだ。ほのかな青水晶の感触が、初菜の指先に残っていた。



 特別に待ち合わせをしたわけではないけれど、学校からの帰り道、初菜は和樹と一緒になった。

「高校生活そろそろ慣れた?」

 より偏差値の高い緑台南高校を蹴って、徒歩で通える藤ヶ峰高校を初菜が選んだ本当の理由は、和樹と一緒の高校に通いたかったから。

「うん、大分。でも朝の通勤ラッシュは慣れないなぁ」

 ずっと一緒の毎日がいつまでも続くことを望んでいた。兄妹

のような、幼なじみという関係は居心地が良い。一方で、確固たるもののないどこかあやふやな絆に、初菜はいつも漠然とした不安を抱いていた。ただのお隣さんと言われればそれまで。いつか和樹に恋人が出来た時は、黙って譲らなければならない、とてつもなく弱い立場。

 遠い昔から。初菜の心はいつだって、和樹の姿を探していた。和樹に声をかけられるだけで、胸がきゅんと掴まれるような気がした。和樹が他の女の子と話しているだけで、見捨てられたような淋しさに胸が苦しくなった。

「でも、さ。早いよな、月が高校生なんてさ」

「私だって、一年前には同じ事思ったんだよ。あぁ、お兄ちゃんも高校生かって」

 自分の抱いている気持ちが恋なのだと知って、和樹の前でどんな態度をとればいいのか悩んだ時期もあった。和樹はどんな女の子が好きなのだろう。意識し出すと変に硬くなってしまって、和樹に心配されてしまったこともあった。

いつも、和樹の一番になりたかった。いつまでも和樹の傍にいたかった。その保証が無いから不安で、けれどその保証を得る為には、リスクを背負う覚悟が必要だった。居心地の良い、『幼なじみ』という関係を捨て、新しい関係に踏み出す覚悟。OKしてもらっても断られても、一度伝えてしまったらもう二度と元の関係には戻れない。

「なぁ、その『お兄ちゃん』ってのやめない? 月ももう高校生なんだし」

「どうして? いいじゃん別に」

……初菜には、リスクを背負うだけの覚悟は無かった。運命の時間が訪れた時にも、まだ。

「俺、いつまでも月のお兄ちゃんじゃ嫌なんだよ」

 それは気楽なおしゃべりに隠れていて、初菜は初め気付かなかった。

「えっ、何? どゆこと?」

 説明を促すように視線を送ると、思いがけず、真剣な和樹の

瞳にぶつかった。初菜の全身を流れる血液が、瞬時に沸騰した。

「初菜が、好きなんだ……」

 潤おしたばかりの喉がからからに渇いていく。軽い眩暈を覚

え、初菜は目をぱちくりとさせた。

「初菜を……彼女にしたい」

 余りの展開の速さに脳の処理速度が追いつかない。吸い込ま

れるような和樹の瞳には、戸惑いのあまり無表情になった、少

女の姿が映っていた。

「……ダメ……かな……?」

 何か、何か言わなければ。焦るばかりで言葉が出て来ない。

どうしよう。どうしたらいいのだろう。必死に表情を崩すまい

とする和樹の言葉が、時間をかけてようやく初菜の胸に沁み込

んでいく。耐え切れなくなったのか、和樹がごめんと呟こうと

したその時。

「……ダメなんかじゃないよ、和君」

 初めての呼び名と共に、初菜の口から自然な想いが零れ出た。

「私も和君のこと……好きみたい……」

 和樹の顔にぱーっと笑顔が拡がっていき、初菜の顔にも伝染っていった。

「……よろしく、初菜」

「……末永く、楽しくやって行こうね、和君」

赤くなった顔を見合わせて、照れくさそうに二人、笑い合った。

「……でも、良かった。月、黙っちゃうんだもん。俺、振られたのかと思ったよ」

「……だって、突然なんだもん。一瞬頭がフリーズしちゃって」

「そっか。……ごめんな。でも、ホントありがと。OKしてくれて」

「こちらこそ、私なんかを選んでくれてありがとう。恋人とかよく解らないから……その……いろいろ、教えてね?」

「と、言われても俺にもよくわからないんだけど」

「じゃ、わからない者同士、一緒に成長してこーね」



『六月二日。あの時は凄く驚いたけど、後になって嬉しさがどんどん涌きだして来たみたい。この日、お兄ちゃん改め、和君と私は恋人さんになりました』

 目を瞑るとあの日の情景が思い浮かんだ。幸せだった思い出は甘く切なく初菜を苦しめた。……ぱたんと閉じたノートを、枕元に戻す初菜の目から、涙が緩やかに頬を滑った。

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